京都紫野の大徳寺は茶道関係者にとって“聖地”の一つ。境内には一休禅師や千利休はじめ高僧茶匠ゆかりの塔頭寺院が数多く点在しています。私も今年6月、茶道仲間と一緒にいくつか回らせてもらいました(こちらを参照)。
6月に拝観できなかった塔頭の一つに龍光院(りょうこういん)があります。大河ドラマ【軍師官兵衛】でおなじみ黒田家ゆかりの寺で、黒田長政が父・官兵衛(如水)を弔うために建立したもの。大河ドラマファンならぜひ訪ねたいところですが、一般公開はもちろん特別公開もしない拝観謝絶のお寺です。
開山は大徳寺住持だった春屋宗園(しゅんおくそうえん)。堺商人今井宗久や千利休とも交流が深かった高僧で、石田三成とも親交があり、関ヶ原の後処刑された三成の遺体を沢庵和尚と一緒に大徳寺三玄院に手厚く葬った人です。そんな人が、大河ドラマでも三成と仲悪そうに描かれている黒田如水ゆかりの龍光院で晩年を過ごしたって面白い、というか、当時の宗教家のフリーハンドなポジションがよく分かりますね。
宗園は龍光院に隠居して間もなく亡くなったため、弟子の江月宗玩(こうげつそうがん)が継ぎ、事実上の開山となりました。
江月宗玩(1574~1643)は堺の豪商&茶人津田宗及の息子。津田宗及の名は茶道研の講座でも何度か登場しており、大好きだった大河ドラマ【黄金の日々】にも登場していたので親しみがありました(ちなみに津田宗及役は津川雅彦さん、今井宗久は丹波哲郎さん、千利休は鶴田浩二さんという豪華キャスト!)。龍光院には宗玩が父から相続したであろう名物茶道具が数多く伝わっています。
そっちのほうの知識はまったくない私、お茶の望月先生から「龍光院には世界で3つしか現存していない南宋時代の燿変天目茶碗(黒釉の表面に大小の斑紋が現れ、虹のようにきらめく)がある」と教えてもらいましたが、その望月先生も今まで拝観の機会はなかったとのこと。ましてや茶道初心者の自分には「一生ご縁のないお寺」だと思っていました。
花園大学国際禅学研究所の芳澤勝弘先生から11月9日開催の白隠フォーラムIN沼津2014の案内をいただいたとき、前日8日に沼津御用邸で大徳寺龍光院が『欠伸会(かんしんかい)』というお茶会を開くことを知りました。お茶会といってもメインは茶席ではなく、坐禅+講座という現代版寺子屋みたいな場とか。講座は、芳澤先生が龍光院の小堀和尚から江月宗玩の語録「欠伸稿」の解読を依頼され、1997年から毎月第一日曜日、関心のある人々と共に続けておられる輪読会で、今回で記念すべき200回を数えるとか。これまで解読した語録の訳注本がすでに書籍化されています。
最初、「欠伸ってまさかアクビについて書いたもの??」ってなレベルの浅学菲才なれど芳澤先生の講義なら行きたいなぁ、いやいや京都屈指の茶禅の達人ぞろいの会だろうと逡巡し、沼津の関係者からも「一般素人が参加できる会ではない」とあっさり言われて、あきらめていました。
ところが幸運なことに、10月下旬に望月先生以下10名で京都研修旅行をした際、望月先生が芳澤先生から直接欠伸会へのお誘いを受け、それならば付き人のフリして行けるかもと思い、国際禅学研究所のスタッフさんに助けていただいて龍光院に直接アタック。望月先生、平野斗紀子さん、私の3人で参加できることになりました。望月茶匠と、何があっても動じない斗紀子姐さんが一緒なら、と、大船に乗った気分でうかがったのです。
沼津御用邸は2年前に東京新聞の仕事で取材しており(こちらを参照)、今回の会場となる東附属邸には京都大山崎にある国宝「待庵」を模した「駿河待庵」があります。 2年前には「こんなところでお茶会する人たちってどんだけセレブ!?」と想像し、遠巻きに写真だけ撮ったまさにその場所に、こうして足を踏み入れる日が来るとは・・・。感動と緊張が綯い交ぜになりながら、まずは茶室翠松亭でお茶をいただきました。呈茶は日頃、沼津御用邸の茶事を担当する東海流の皆さんが担当されました。
軸は牧谿の栗図。牧谿(もっけい)とは宋の末期~元時代の僧で、長谷川等伯や俵屋宗達に大きな影響を与えた水墨画家でもあるそうです。茶席には高僧の墨蹟(禅語)を飾るのが正しいと聞きますが、皇室ゆかりの茶室で禅の学習会を催すことに席主が一定の配慮をし、ストレートな禅語ではなく、水墨画だけの軸を選んだのではないかと想像しました。もちろん牧谿の栗の絵は見る人が見れば高潔なメッセージを読み解くだろうと思いますが、それを表立ってひけらかさない絵を選んだところに、なんともいえない茶禅精神の奥ゆかしさを感じます。
翠松庵に付随した「駿河待庵」、希望者が順に中に入ってじっくり見ることができました。本物の待庵をご存知の望月先生に、炉の位置、天井の四隅の角が曲線でやわらかい印象を与えていること等、わずか二畳の茶室に利休が込めた創意工夫の粋を解説していただきました。客が座るスペースは一畳分しかありません。招かれた客は、この距離感でどんなやりとり(他に聞かれちゃならない密談もあったでしょう)していたのかな・・・妄想するだけでワクワクしてきちゃいました。
坐禅と講義が行なわれる東附属邸の和室で待機していたところ、「あらマユミさん!」という声。顔を上げたら、沼津の酒販店『酒・ながしま』の長島幸子さんが鮮やかなお着物姿で立っておられました。そう、長島ご夫妻は酒の小売のかたわら、東海流家元として三嶋大社や沼津御用邸献茶所を切り盛りする茶人だったのです。地元の知り合いに会えてホッとしたのと同時に、酒縁と茶縁と仏縁が一瞬にしてつながったことに新鮮な驚きを覚えました。
「せっかくマユミさんが来てくれたなら見せちゃおう」と東海流の皆さんがお稽古に使っている別室にこっそり案内され、見せていただいたのが、長島家秘蔵の白隠禅師の禅画3品。もちろん初めてお目にかかるものです。「賛(絵に添える言葉)が読めなくて、長い間、絵の意味が解らなかったんだけど、芳澤先生がいらっしゃるなら見ていただこうと、満を持してお蔵から出して来たの」と幸子さん。そうこうしているうちに先生が来られ、3本の軸をあっという間に解読し、手元にあった懐紙にサラサラと読み下し文を書かれました。手を合わせて感激される長島夫妻。先生は時空を越えた白隠翻訳家なんだ…!と私も心底感動しました。
この日の参加者は全部でゆうに100人はいたでしょうか、京都から龍光院の小堀和尚はじめ、欠伸会会員・関係者が数十人、地元沼津からは栗原市長はじめ行政や禅宗寺院関係者、東海流関係者等で東附属邸は廊下の隅々までびっしり。部外者はどこらへんに座ればいいものか迷っているうちに、欠伸会の常連会員と思しき男性から「遠慮せんと、どうぞどうぞ」と勧められ、ちゃっかり最前列に着座しちゃいました。
小堀和尚のご指導で坐禅と読経からスタート。坐蒲(坐禅のときの丸い座布団)ナシで毛氈を敷いた畳に直接座ったので足を組むのが難しく、ほとんどの人が正座でした。ロングスカートだった私は半跏趺坐に挑戦してみたものの、どうにもバランスが悪くて集中できず。警策(きょうさく)を叩いていただこうと思ったのですが、隣の人に先を越され、タイミングを逸してしまいました。そうそう、よく聞かれるんですが、警策って自分から「お願いします」と叩いてもらうんですよ。
読経は「興禅大燈国師遺誡」。大徳寺開山・大燈国師の遺言で、国師の教えが凝縮されていて、白隠禅師がとても大切にされていたそうです。欠伸会で必ず読むものなのかどうかわかりませんが、望月先生は「裏千家の学校では朝の日課だった」と諳んじておられました。白隠さんがここ沼津のすぐお近くで唱和されていたのかと想像すると、白隠さんのことがより一層身近に感じられます。内容についてはこちらを参照してください。
講義では、江月宗玩の漢詩を取り上げました。宗玩は先述のとおり堺の茶人津田宗及の次男で、龍光院二世(事実上の開山)となり、博多の崇福寺住職を経て慶長15年(1610)に大徳寺156世となった人物。応仁の乱以降、荒廃していた大徳寺を復興させた功労者だそうです。信長・秀吉・家康の戦国3傑と同時代の人ですから、戦国武将たちの力をうまく生かしたのでしょう。どうりで大徳寺には戦国武将の名が刻まれた石碑があちこち建ってます。
徳川政権になって、三代家光の時代に「紫衣事件」というのが発生し、宗玩も関係者の一人として歴史に登場します。う~ん日本史の授業で勉強したかもしれないけど忘れちゃってたので、改めて調べてみると、朝廷は高僧に徳の高さを示す紫色の法衣や袈裟を授け、一部収入源にもしていたのですが、徳川幕府がこれを規制。ときの後水尾天皇が規制を無視して授けたので、幕府は怒って紫衣を取り上げてしまった。政権発足直後に朝廷とスワッ全面対決か!と大騒ぎになったのです。で、寛永6年(1629)、幕府に反抗した大徳寺や妙心寺の高僧が流罪処分を受けたとき、宗玩一人だけお構いなしだった。東北に流罪となり、その後家光と和解した沢庵和尚は江戸庶民の人気を集めましたが、宗玩さんは卑怯者扱いされた、ということです。
宗玩だけが許された理由は未だに不明だそう。「欠伸稿」はかなり難解な禅語録のようですが、龍光院の皆さんにしてみれば、しっかり解読し、宗玩さんがどんな方だったのか正しく理解したいというお気持ち、よくわかります。しかも学者専門家に丸投げするのではなく、龍光院に集う善男善女が共に会読し、訳注本まで出版したという。・・・なんだか禅寺の理想の姿を見たというか、宗玩さんはさぞお喜びだろうなあと思いました。
訳注本、今、一生懸命読んでいますが、2冊で全1300ページぐらいある・・・(ため息)。
この日、芳澤先生は宗玩が富士山を詠んだ5つの漢詩を紹介してくださいました。とくに印象に残った2つを紹介します。( )内は芳澤先生の訳を私が勝手に脚色しました(先生スミマセン)。
餞宗瓢韻人歸駿州 (連歌師の宗瓢が駿河に帰るのを送る)
相逢相別思無涯 把手留邪又送邪 好去維時士峯雪 重来有約洛陽花
(逢ったばかりなのにもうお別れか。握手したこの手は、見送っているのか引き留めているのか・・・。まあ、とにかく道中お元気で。富士山も待っているしね。花が咲くころ、京に戻ってきなさいよ)
駿河の連歌師宗瓢って、宗長の弟子か子孫かな?・・・図書館で調べてみたんですがよくわかりません。宗玩さんとこんなに親しいなら、どんな人か興味があります。ご存知の方がいらしたら教えてください。
寄思三保幾千重 清見晴天月掛松 料識吟嚢可無底 毎逢佳境有詩濃
(何千回、三保に思いを寄せたか。晴天の夜、清見寺の松に月が掛かる。そんな絶景に出合うたびに詩心がゆさぶられ、吟嚢の底が抜けてしまうかもしれない)
吟嚢とは、旅先で詠んだ詩歌の紙を入れておく携帯ポシェットみたいな袋のこと。宗玩本人の体験談なのかどうかはわかりませんが、芳澤先生は「紫衣事件の頃、江戸に何度も交渉に行っていたので、三保や清見寺にも立ち寄っただろう」と推察されます。
いずれにしても、一生縁がないと思っていた龍光院の開山が、自分の生まれ故郷清水の詩を詠んでいたという縁(えにし)の不思議さ。白隠さんがつないでくれた縁の糸を大切に紡いでいきたいと心に誓いました。
ついでといっては何ですが、清見寺に残る朝鮮通信使(第6回/1655年)の従事官・南壺谷の詩を紹介しておきます。
夜過清見寺
日落諸天路 風翻大海波 法縁憐始結 詩句記曾過 瀑布燈光乱
蒲圑睡味多 客行留不得 其奈月明何
(天上人が舞い降りる道に、日が落ち、風が立ち、大海原が波立っている。ここで詩を詠むことは、みほとけの縁(えにし)だろうか。滝のしぶきに灯光がきらめくのを眺めていると、心地よい眠りに誘われる。旅はまだ終わらないが、こんな月明かりの夜は、このまま留まっていられたら・・・と思わずにいられない)
朝鮮通信使の漢詩については、こちらもぜひご覧くださいね。