杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

白隠達磨と無功徳

2015-03-23 10:02:14 | 白隠禅師

 先週、サクラの記事をUPしてから毎日ポカポカ陽気が続いて、静岡では22日に開花宣言が出ました。20日から22日は久しぶりにお寺で肉体労働。肩こり・首こり・頭蓋むくみがピークに達し、クラクラ目眩が続いていたので、高いところやら広いところやらで思いきり身体を動かし、お掃除ストレッチしました。掃除なら掃除に専念しなきゃ修行にならないのにマズイですね(苦笑)。

 

 本堂の床の間をお掃除していたとき、ふと目が合った白隠作の達磨像。お彼岸のせいなのか、どうも呼び止められているような気がして、掛け軸の埃を拭ったあと正座し、あらためて画賛を読んでみました。といってもその場ではとても判読できないので、写メに撮って家でネット検索。花園大学国際禅学研究所のサイトをちょこちょこいじると、芳澤先生の解説に即座に辿り着けるのです。いい時代になりました♪

 

 バイト先のお寺にある白隠達磨には、こういう賛が添えられています。

 

   嗟君未到金陵日、寡婦掃眉坐緑氈  

  君既到金陵城後、慈烏失母咽寒  

 

 梁の武帝の達磨大師への思いを詠った詩のようで、意味は、

 

「君(達磨)がまだ金陵(=南京)に到着しないうちは、武帝はさながら、未亡人がお化粧をして来るはずのない夫を待ちわびるよう。君がやって来られたのちは、孝行鳥が孝養を尽すべき母を失って咽び泣くようだ」。

 

 達磨と武帝―といえば、禅語【無功徳】の逸話で知られています。筋金入りの仏教信者を自認していた武帝は、インドからやってきた高僧を喜び勇んで迎え、自分が巨大な寺院伽藍を建立し、たくさん写経もし、仏典を著して布教に尽力したことを自慢し、自分にはどれくらい功徳があるか?と訊いた。ところが達磨の返事はそっけなく「無功徳」。ガッカリした武帝は「縁がなかった」と思い、達磨は金陵を去って揚子江を渡った。のちに武帝は「無功徳」の真意を知って後悔した・・・というお話です。

 この賛の最後の「慈烏失母咽寒煙」、武帝にとって達磨が考を尽くすべき相手ではなかったと歎いたのか、「無功徳」の真意を知って後悔して泣いたという意味なのか、浅学の私にはわかりませんが、この達磨さまのお顔は端正で堂々とされていて、「大いなる善行には大いなる功徳があるはずだ」という武帝の慢心を諌めた凄みを感じます。

 

 そう、禅の教えってこういうところが厳しいのですね。大多数の凡人は、善き行いをした後、褒められたい、報われたい、名を残したいという気持ちが湧いてくるのが自然です。

 私自身、ほんのささやかなボランティア活動をしたときに、相手から「ありがとう」のひと言がないとさびしい、物足りない・・・と感じたことが度々ありました。地酒の取材や普及活動もほとんどが非営利ですから、蔵元さんや酒屋さんから感謝されて当然だろうという思いがどこかにある。「善いことをしている」と自覚し、自分に満足した瞬間に、「無功徳」と言われてしまうのなら、資本主義自由経済の世の中では人々のやる気を削いでしまわないか?と反論したくなる。

 でも、たとえ見返りがなくても正しいことだと信じて続けられるものがあったとしたら、見返りによって満足したり不愉快になったりと心が乱れるよりも、ずっと自由で楽だろうなあと想像します。そうやって継続できるものは、世の中に本当に必要とされている、誰かの何かの役に立っているはず。継続という事実がその証拠だろうとも言えるでしょう。

 

 私にとって唯一、見返りがなくても心が落ち着くのが、このブログです。アクセス数が少なく、コメントもほとんど来ないのに寝る間を惜しんで書く意味があるのかと悩んだときもありましたが、禅の勉強を始めてから、自分の体験を活字に起こして公表するというのは、自分を見つめなおす修養作用があると気づきました。書く内容によっては、誰かに褒められたい、感謝されたいという慢心がついつい湧いて出るのですが、そういうときには使う語彙が偏ってきます。いったん画面を閉じてしばらく時間を置いてから再起動させてみると、そのいびつさに気づく。言葉がスーッと入ってこない、どうもバランスがよくない・・・そうか、これって慢心なんだな、と自覚するのです。掲載後も何度も推敲し、このまま保存しておいていいと判断した瞬間、ひとつ山を登り終えたような開放気分になる。誰も読まなくても、誰がどう読んでも、書こうと思ったテーマに真摯に向き合えた時間がもてたことにホッとします。

 

 「無功徳」という教えには、報いや見返りにこだわる自我に気づかせ、そんなものがなければ心が自由で楽になるよ、というメッセージが込められているような気がします。もちろんもっと深遠な哲学があって、だからこそ禅祖至宝の言葉として今に伝わっているのでしょうし、白隠さんがこの達磨図に込めたメッセージは違うかもしれませんが、私自身は幸運にもこの画を間近に見る機会を得たことに感謝し、この画を見るたびに己の心の滓や濁りを自覚して、澄み酒のごとく濾過したい、と願っています。



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2 コメント

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ブログは励みですよ (yukisan)
2015-03-25 22:35:50
 いつごろから見始めたか記憶がありませんが、冬の厳しい修行に京都へ行かれた記事が最初だったと思います。
 日本酒や仏教、また地域の活性化など、いろいろな方面の話題が豊富で、元気をいただいています。
 ただで見ているのが申し訳ないようですが、機会があれば、紹介されているものに直接触れたいと思います。先日も報徳博物館に行ってきました。
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Unknown (鈴木真弓)
2015-03-26 08:12:32
わぁ~ありがとうございます。私もyukisanに元気をいただきました。言葉で伝えるものに言葉で返していただくのが何よりの励みです。これからも頑張ります!
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