杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

平成最後の盆に寄せて

2018-08-15 10:58:39 | 日記・エッセイ・コラム

 久しぶりの投稿です。昨年の大晦日に父が急死してから、あっという間の初盆。まさに光陰矢の如しの心境です。

 平成最後の今年、正月に父を送ってからというもの、この8月までに多くの縁故者を見送ることになりました。こんな年はもちろん初めて。今まで漫然と学んで来た仏教や禅の教えが、机上の空論にすら感じられました。それでも空論ではなく実学として日々の行動につながればいいなと願いつつ、今年見送った故人を偲んでみたいと思います。

 

 3月17日は、静岡県ニュービジネス協議会で長年お付き合いした食味研究家・石川美知子さんのお通夜でした。美知子さんとは昨年10月にニュービジネス協議会のウズベキスタン研修旅行にご一緒し、少しお痩せになったかなあと気になりましたが、ご本人はいたってご健勝。共に無事、7泊8日の研修を終えて成田に帰国し、そのまま都内で打ち合わせだとおっしゃる美知子さんの背を見送ったのが最期でした。

サマルカンド・レギスタンス広場にて。2列目右から2人目の美知子さん。

 栄養士の知識や経験を食ビジネスにつなげた女性起業家の先駆けとして多方面で活躍され、ガラスの天井に挑んだファーストペンギン、とでも言うべきでしょうか、いろいろな意味で大胆かつ繊細な実業家でした。どこかで無理をしながらもアクセル全力で人生を走り切ったのでしょう。今から30年近く前、ニュービジネス協議会の広報の仕事を始めて間もない頃、ちょうどお盆のこの時期、美知子さんの友人の美大の先生がデザインしたというカラフルな浴衣で、郡上八幡の徹夜踊りにご一緒したことが一番の思い出です。

 

 

 5月15日は、元祖梅にんにくでお馴染み・㈱梅辰の岩倉龍夫会長の葬儀でした。会長の一人娘で現社長岩倉みゆきさんは私の中学高校の同級生。会長はみゆきさんの中学時代に梅辰を創業し、その後、みゆきさんが会社を手伝うようになってから私もちょこちょこ会社の広報を手伝わせてもらうようになり、よく顔を合わせました。2016年に梅辰創業40周年記念で『一日八粒のしあわせ』という記念誌を作らせてもらったときは長時間インタビューし、梅辰創業時のご苦労や梅にんにくの誕生秘話をじっくり聴かせてもらいました。

 昭和6年浜松生まれの岩倉龍夫会長。人間魚雷になる覚悟で航空隊に入隊し、出撃直前に終戦。空襲で家を焼かれ、働き手のない家族を支えるために静岡に出て下駄屋の住み込み奉公から始め、さまざまな業種の訪問販売で実績を積み上げ、梅辰を創業。商売の原点ともいえる行商というスタイルを堅持し、長年信頼関係を築き上げた顧客に支えられてきました。40周年記念誌編集時は、創業当時から梅にんにくの行商を続けている80代の個人代理店主にインタビューし、ネット通販全盛の今もこういうビジネスモデルが残っていることに、半ば感動したものです。昭和と平成をまさに生き切った人生だと感服します。

 

 

 5月27日は『萩錦』の蔵元・萩原吉博社長のお通夜。3日前の5月24日に、奥様で萩錦杜氏の萩原郁子さんと、岩手県遠野市にある萩錦前杜氏・小田島健次さん宅で落ち合い、翌25日に一緒に南部杜氏自醸会へ参加する予定で私はひと足先に小田島さん宅入りしていたのですが、24日朝、萩原社長は郁子さんを静岡駅まで車で送って、家に戻る運転途中に体調急変し、そのまま帰らぬ人に。郁子さんは新幹線で東京まで着いてからトンボ帰りされたのでした。遠野の小田島さん宅で、小田島さんの弟子で『富士錦』杜氏の小林一雲さん、小田島さんの蔵人仲間だった菅沼テツさんと共に、郁子さんの到着を待っていた私は、あまりの突然の知らせに言葉もありませんでした。

 萩原夫妻とは、1998年に静岡新聞社から出版した『地酒をもう一杯』の取材時にじっくりお話をうかがって以来のおつきあい。このときすでに郁子さんは現場で杜氏の補佐役を務めておられ、こんな働き者の蔵元夫人は他にいない!と感動し、そのことを『地酒をもう一杯』の記述や写真にも反映させたのですが、出版後、東広島の全国新酒鑑評会一般公開会場で偶然、吉博社長にお会いしたとき、郁子さんメインの掲載写真にいきなりクレームを付けられ、「そこに!?」とびっくりしたのが最初の強烈な思い出です。

 以来、若干の苦手意識を持ちつつ(苦笑)、しずおか地酒研究会の活動にもなんとかご協力をいただき、年月を経て、美大講師をされていた娘の綾乃さんがご主人共々家業を継ぐために戻ってからは、お会いするたびに社長の表情がおだやかに変わられたと実感しました。「娘さん良かったですね」と声を掛けると「まさかこんなふうになるとはねえ…」と照れ笑いした表情が懐かしく思い出されます。

 昨年、朝日テレビカルチャー静岡スクールで蔵見学をお願いしたときは、緊張しながらカンペを読み読み、歓迎のあいさつをしてくださいました。わざわざカンペを準備してくださったのかと驚き、その真摯なお姿に、この人は本当に裏表のない正直者なんだなあとホッコリしたのが最後の思い出となりました。

 小田島さん引退後、平成29酒造年度から郁子さんが杜氏となり、綾乃さんも南部杜氏組合で研修を受けて次期杜氏の道を歩み始めた、その矢先の急逝。郁子さんがお通夜で号泣されていたお姿にも胸を打たれました。郁子さん綾乃さんの母娘が醸す萩錦、社長がこの世に託した静岡の宝物として、しっかり応援していきたいと思います。

 

 

 6月16日には、ホテルアソシア静岡で開かれた『金両基先生を偲ぶ会』に参加しました。4月2日にお亡くなりで、御身内の葬儀の後、日韓の縁故者が集まる席が設けられ、多くの人々が先生の偉功を偲びました。私が最後にお会いしたのは、2月4日に興津清見寺で開かれた朝鮮通信使ユネスコ記憶遺産登録記念式典のとき。清見寺に掲げられた朝鮮通信使・南壷谷の漢詩扁額「夜過清見寺」に久しぶりに感動したことをフェイスブックに投稿したら、金先生から「私は南壷谷一族の子孫」という驚きの返信コメントをいただきました(こちらの記事を)。

 金両基先生とは、2007年に制作した映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の脚本監修をお願いしたときからのおつきあい。朝鮮通信使に関する知識ゼロの山本起也監督と私がにわか勉強で書いた脚本について、「歴史を時系列になぞっているだけ、映画としての面白みがない」と想定外のダメ出しをもらい、山本監督の創作意欲に火がついて、2週間で脚本を全面改訂し、同時にロケハンをやり直し、撮影2週間、編集2週間というゲリラ制作となりました。私自身は映画作りの現場は初めてだったので、ローカル映画ってこういうやり方なんだと半ば楽しんで?いたわけですが、製作サイド(静岡市)は気が気ではなかっただろうと思います。

 その後、金先生は私の地酒活動にも関心を寄せてくださって、2008年10月には藤枝の稲作農家・松下明弘さん、『喜久醉』蔵元杜氏・青島孝さんと‟変人トリオ”を組んで「国境を越えた匠たち」と題したしずおか地酒研究会トークセッションにご出演いただきました。息子世代の2人を冷やかし励ます先生の、底抜けに快活な笑顔が昨日のことのように蘇って来ました(セッションの内容はこちらこちらこちらを)。

 金先生も、昭和と平成を生き切った世代。その言動には表裏がなく、相手が自分の子ども世代であろうと知ったかぶりの未熟者であろうと手加減せず、一人前として真正面から本音で意見をぶつけてくれる方でした。こういう大人は少なくなったなあ、(苦労知らずの)自分の世代はこういう大人にはなれないなあとつくづく思います・・・。

 

 

 8月3日は、蒲原の『幸せの酒・銘酒いちかわ』店主市川祐一郎さんの愛妻・朋子さんのお通夜。54歳という働き盛りで4人のお子さんの逞しいお母さま。7年前に患った乳がんの転移ということで、悔やんでも悔やみきれなかっただろうと思います。

 市川さんは、22年前、私がしずおか地酒研究会を作ったときに賛同者になってくれるかも、と喜久醉さん正雪さんから紹介してもらった酒販店でした。先代から店を引き継ぎ、この2銘柄を柱に地酒専門店として生まれ変わろうと意欲満々だった市川さん。全国の酒販店の中でもいち早くネット通販を始め、e-sakaya.comという全酒屋憧れのドメインをお持ちです(サイトはこちら)。

 そんなご主人の挑戦をしっかり支え、私がお店にうかがうと、「夕飯ご一緒してきませんか?」とご家族の食卓に迎えてくれたのが朋子さんでした。まだ小学生だったお子さんたちから「お父さんとどういう関係なの?」と怪しまれた(笑)のを、今でも懐かしく思い出します。

 2年前に『杯が満ちるまで』の取材でうかがったときは、市川さん、市川さんのお母様と一緒に‶しあわせの酒”を笑顔で紹介してくれた朋子さん。この頃すでに転移が判明し、抗ガン治療を受けておられたと後々知って、本当の辛さを知っている人は、辛さを顔には出さない強さを持っているんだ、と思い知らされました。

 

 お盆にちなみ、今年これまでお見送りさせていただいた方々への思い出をつづってみましたが、他にも参列が叶わなかった故人が何人かいらっしゃいます。

 その方々への思いも込めて、あらためて盂蘭盆会の意味を紐解いてみると、梵語でウランバナ=逆さまにされたような苦しみ、という意味だそうです。

 盂蘭盆会は、釈迦の弟子のひとり・目連というお坊さんの母親を、餓鬼の世界から救いたいという願いから始まったもので、なぜ母親が餓鬼の世界で苦しんでいるかといえば、我が子可愛さのあまり、他人の子よりも我が子さえよければ、という欲にさいなまれ、貪る心を釈迦に指摘されたから。目連にしてみれば、自分という存在が母に罪深い行いをさせているということ。どんな聖人であっても母親から生まれ来る以上、等しく背負う罪であると自覚し、修行中の僧が自発的に懺悔をする日と位置づけ、餓鬼の心を鎮める『観音経』『大悲呪』『開甘露門』というお経を読む。日本に伝わってからはお盆の日には地獄の釜が開いて、亡霊が苦しみから解放されるという伝えも加わり、年に1度、ご先祖の霊が帰ってくると信じられるようになりました。(『臨済宗仏事のこころ』藤原東演著より)。

 

 苦しみを持たない人は、この世にもあの世にもいない。そんなふうに思うだけで、今、苦しいと思うことが少し軽くなる気がする・・・そんな平成最後のお盆です。


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