杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

吉川氏を通して見る日朝関係

2010-10-02 18:44:46 | 朝鮮通信使

 少し前になりますが、9月22日に静岡県朝鮮通信使研究会があり、いつものように北村欽哉先生がとても興味深い歴史秘話をご教授してくださいました。

 

 

 

 

 今回の主人公は吉川(きっかわ)一族。歴史ファンならピンと来ると思いますが、吉川広家は、関ヶ原の戦いで石田三成に西軍総大将に担がれた本家毛利輝元を救おうと、家康に内通して毛利軍を前に出さず、毛利本家からは裏切り者のレッテルを貼られたものの結果として防長二国を毛利家に残した陰の功労者です。

 

 その吉川家は、11世紀ごろ、駿河国司として清水~庵原~富士郡一帯を治めていた藤原時信の子・維清(これきよ)が『入江氏』を名乗り、その子孫が入江庄吉香邑(静岡市清水区吉川・・・旧狐ヶ崎ヤングランド付近)に居館を建てて『吉香』『吉河』と名乗ったのがルーツ。

 

 

 

 1193年に家督を継いだ吉川友兼は、1200年、源頼朝亡き後の後継者争いで都落ちした梶原一族を迎え討ち、その功績で子の経兼が播磨国福井庄(姫路市)地頭職を補任します。1221年の承久の乱でも功績を上げ、安芸国大朝本庄(広島県と島根県の県境付近)地頭職を命ぜられますが、1267年に家督を継いだ吉川経高は本拠地の清水から遠くかけ離れた大朝本庄を治めきれず、幕府に救いを求め、1313年に再度命を受けて今度は一族あげて本拠地を清水からこちらに移したのでした。

 

 

 

 

 毛利元就の次男・吉川元春を父に持つ吉川広家が家督を継いだのは1587年。1591年には秀吉に12万石を加増され、尼子氏の本拠地だった出雲国月山富田城(ゲゲゲの女房の実家・安来の近く)を与えられ、92年正月には秀吉の命で朝鮮半島へ出兵します。そしてかの地で94年9月まで転戦し、かなりの戦功を立てたようです。

 

 

 

 

 私が脚本を担当した映像作品『朝鮮通信使』では、秀吉軍が朝鮮侵攻の際、朝鮮の人々の鼻を削いで塩漬けにして“戦功の証”として本国へ送ったことに触れましたが、吉川家の古文書にも広家が18,300余の鼻を送った記録が残っています。彼は、秀吉に朝鮮半島で虎や豹を捕まえて献上したりもしています。闘病中だった秀吉に、虎の肉が滋養強壮にいいと勧めて、秀吉から大いに褒められたとか。虎を献上したのは加藤清正ではなく吉川広家だったのかな。・・・いずれにしても、朝鮮半島ではかなり残虐非道なことをしちゃったようです。

 

 

 

 月山富田城には朝鮮瓦や唐人谷と伝わる遺構があり、広家が朝鮮半島から被虜人を連れ帰ったことがわかります。朝鮮被虜人は、吉川家が江戸期に治めた岩国の城下町にも住んでいたことが記録に残っています。

 

 

 

 

 

 

 

 秀吉のおぼえめでたい広家も、時勢を冷静に見極め、関ヶ原の戦いでは徳川家康に内通し、家康は敵総大将である毛利輝元を改易処分にして広家に防長二国を与えようとしましたが、彼は強く辞退して二国を輝元のものとし、一部分(岩国周辺)をいただくことに。しかし毛利本家は“分家の分際で裏切り者めが”と反目し、大名として認めず、家老扱いします。

 

 

 毛利家からは家老扱いされても吉川家は江戸時代はちゃんと普通の大名並みに参勤交代もし、参勤交代で駿河国清水を通るときはご先祖ゆかりの若宮八幡社に必ず立ち寄り、石鳥居を寄進するなどねんごろに参拝したそうです。岩国の城下町は錦帯橋に代表されるように都市整備が大いに進み、発展しました。

 

 

 

 

 そして朝鮮通信使がやってきた時は、上関で接待に奔走します。海上での表向きの接待は毛利藩が務めますが、陸に上がってからは岩国藩士たちが現場を切り盛りしたようです。上関町に残る『正徳度(1711年)朝鮮通信使帰帆記』では、毛利藩から42人、岩国藩から233人が駆り出され、事細かな役割分担や饗応料理の注意書き、前泊地の筑前に接待方法を問い合わせた記録などが残っています。・・・当時の吉川家の人々は、広家が朝鮮侵攻で残虐非道を行った頃のことを、どんなふうに思っていたんでしょうね。

 

 入江氏の一族でその後、摂津岸和田に移住した岡部氏も、摂津大坂で通信使の接待に奔走した記録が残っています。

 

 

 

 

 吉川一族は、その後も朝鮮半島と不思議なかかわりを持ち続けます。

 

 江戸末期、岩国藩剣術師範の家に生まれた長谷川好道は、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争と次々に参戦して戦功をたて、日露戦争では近衛師団長として参加し、大将となります。1905年のポーツマス条約締結時には韓国駐?(ちゅうさつ)軍司令官としてソウルに赴任。全権特使・伊藤博文、日本公使・林権助とともに朝鮮政府の閣僚会議に乗り込んで第二次日韓協約を強硬に締結させ、韓国の外交権を奪います。

 

 1907年に韓国皇帝高宗がハーグ平和会議に密使を派遣すると、伊藤と長谷川は第12旅団を増派して第三次日韓協約をたて、韓国の内政権はく奪と軍隊解散を強硬。韓国軍人たちが方々に散らばり、義兵運動に投じたことから、「暴徒蜂起の大原動力を激発させた」責任として長谷川は解任され、伊藤は09年に安重根に暗殺されます。

 

 

 そして1910年、韓国併合。当時は“韓国廃滅”という表現だったそうですが、外務省官僚の倉地鉄吉が“廃滅とは語調があまりにも過激すぎる”と判断して併合という表記になったとか。韓国も朝鮮と改称され、長谷川好道は1912年に第二代朝鮮総督に任命されます(~1919年)。

 

 

  

 

 私は、吉川氏のルーツである入江氏発祥の地・旧清水市入江鶴舞町というところで生まれ育ちました。我が家が直接、入江家や吉川家と縁があるというわけではありませんが、吉川家の朝鮮半島との関わりを知れば知るほど、今、こうして日本と朝鮮半島の関係史にふれる機会を持つのも、偶然ではなく必然のような気がしています。

 

 

 

 日本で生まれ育った人には、多かれ少なかれ、そういう“地縁”があるはずです。考えてみれば韓国併合も、たった100年前の出来事で、大河ドラマの幕末だって、ひいおじいちゃんかその前の世代の出来事で、最後の朝鮮通信使が来たのが1811年だから、そのまた2代ぐらい前の話。この間、異民族に征服されたわけでもなく、日本人のモノの考え方やメンタリティが、そんなに大きく変わったとは思えない。自分の故郷や家族の歴史が、時代の大きな移り変わりと密接につながっていたと実感できるこういう歴史の勉強方法は、学校で遠い時代の年表や年号を暗記するような授業よりもずっと身になるんじゃないかな・・・。

 

 

 

 

 この研究会では在日の方も何人か参加されているので、一緒に学べるというのが意義深く、講義の後の意見交換なども大変勉強になります。

 

 いずれにしても、今回のようなお話を聞くと、過去に日本人がどういう行動を取ってきたかを知ることは、国際・民際を含め対外関係を考える上で、やっぱりすごく参考になると思います・・・昨今のアジア外交問題を見るにつけ、政治家はとにかく歴史書を徹底的に読め!と言いたくなるし、高校ぐらいになったら歴史の授業では、近現代史から過去にさかのぼって教えるべきでは・・・と思えます。

 

 

 


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