杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

アカデミズムのアマチュアリズム

2017-04-17 10:02:13 | 朝鮮通信使

 私は未だに遠足の日の子どもみたいに、仕事のない日に限って早起きで、日曜は早朝からNHKラジオ第一の『マイあさラジオ』を聴くのが習慣になっています。日曜日の放送では〈サエキけんぞうの素晴らしき80'S(80年代音楽の解説)〉、〈著者からの手紙(話題本の紹介)〉が楽しみで、4月16日の放送では勢古浩爾氏の『ウソつきの国』が紹介されていました。『まれに見るバカ』は面白かったなあーと懐かしく思い返し、勢古さんの本を探しに行き、図書館で見つけたのが『アマチュア論。』。2007年ミシマ社発行の本です。文字が逆さになってますがこういう装丁です。

 

 

 2007年といえば、徳川家康が駿府城に入城した1607年から400年目、そして家康が朝鮮通信使を最初に招聘した年ということで、映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の制作にかかわったことは当ブログでも再三ご紹介してきました。

 思えば、私が朝鮮通信使の勉強を始めたのはこの年から。専門知識があって脚本を書いたのではなく、脚本を書いた後からまともに勉強し始めたのです。日朝関係史という難しいテーマにもかかわらず製作期間が3~4か月しかないというトンデモ条件に、プロの脚本家や構成作家が匙を投げ、資料リサーチャーとして臨時雇いされていた私が書く羽目になったわけで、朝鮮通信使研究家からみれば憤懣遣る方ない話だと思いますが、監修役の仲尾宏先生、金両基先生、北村欣哉先生は辛抱強く指導・監修してくださいました。

 トンデモ条件の超ブラック業務の見返りとして、私は先生方との出合いを実りあるものにしようと本格的に勉強を始め、レポート提出気分でブログに書き続けました。幸いなことに、地方で朝鮮通信使について地道に研究されている郷土史家の先生方に目を留めていただき、「スズキさんのブログは励みになります」と嬉しいお声かけをいただくことも。私のような素人の付け焼刃でも役に立つとは、朝鮮通信使研究はまだまだ発展途上のジャンルなんだと痛感し、この分野が一人でも多くの人の目にとまって関心を持つ機会になれば、との思いで書き続けています。  

 

 さて、2007年には朝鮮通信使研究の第一人者で、通信使史料の世界記録遺産登録を目指す日本側学術委員会会長を務める仲尾宏先生(京都造形芸術大学客員教授)が、岩波新書から『朝鮮通信使ー江戸日本の誠信外交』を上梓されました。新書版だけにとてもわかりやすく、スラスラ読める内容です。映画完成は5月、仲尾先生の本は9月の発行でしたから、先生の本がもう少し早く出版されていれば脚本を書くのもずいぶん楽だっただろうと臍を噛む思いをしたものでした。

 同書のあとがきに、「通信使一行の遺した足跡や交流の実像が、日本各地にはまだまだ埋もれていることはまちがいない。その理由の一端は明治維新以後の日本の近代では朝鮮と朝鮮人に対する偏見と蔑視感情が高まり、学校教育においてもすぐ前の時代にあった朝鮮との豊かな交流のことが意図的にかき消されてしまったからである」とあります。朝鮮通信使研究になかなか注目が集まらないのは、歴史教科書にまともに取り上げられない、いや明治以降は意図的に取り上げてこなかったせいだろうと、私自身そう思い込んでいました。

 ところが10年経た今年の3月11日、福山市鞆の浦で開催された朝鮮通信使関係地方史研究部会(仲尾宏会長)で、北村欣哉先生が「明治以降~戦前の小学校国定教科書すべてに朝鮮通信使の記述は載っている」と発表。4月13日の静岡県朝鮮通信使研究会例会でも詳細に解説されました。要約するとー

 

◆明治11年(1878)『新編日本略史』・・・まだ教科書が自由出版・自由選択だった時代でしたが、「家康、対馬守宗義智ニ請テ曰ク・・・」と家康が朝鮮王朝との国交回復に乗り出し、江戸後期の文化8年まで計12回の通信使来聘を時系列に紹介。とくに正徳元年は新井白石の対通信使接遇と詩の交換について詳しく記述。

◆明治20年(1887)『日本小史』・・・初めての文部省検定済教科用書。「我ト汝ト、固ヨリ宿怨無シ、若シ好ミヲ修メムトセバ、コレヲ許スベシト、朝鮮喜ビテ、使臣ヲ送リ来聘ス、是ニ於テ、両国ノ事平ギ・・・」と紹介。ちょっと上から目線ではありますが家康が国交回復を望んで和平を実現したとあります。

◆明治36年(1903)~昭和18年(1943)の国定教科書にはすべて掲載。明治36年版では通信使行列図の挿絵入りで詳細に記述。挿絵の先頭には「巡視」「令」と書かれた旗が。これは王が属国を視察して廻るという意味があるため、明治43年(1911)版ではこれをカット。

◆大正10年(1921)版では「はじめ家康朝鮮と交を修めてより、将軍の代がはり毎に、朝鮮より使を我が国に送る定めなりき。然るに幕府の之をもてなすこと、勅使よりも厚き様なれば、白石は之が為にわが国の體面を損ずるを論じ、将軍にすすめて其のもてなし方を改めしめたり」。通信使の接待が我が国の天皇の勅使よりも盛大なのは問題だとして新井白石が接遇を簡素化したことを紹介しています。

◆昭和18年(1943)版ではさらに詳細に記述。ただし挿絵はカット。この年から「鎖国」という言葉が使われるようになりました。

◆昭和21年(1946)『くにのあゆみ』・・・戦後初めての小学生向け教科書では記述なし。

◆昭和27年(1952)山川出版の高校教科書には「1609年には日鮮修好条約が成立し、朝鮮の使の来朝となった」と表記。昭和35年(1960)版から挿絵入りで文字数も激増。

◆昭和47年(1972)東京書籍の中学教科書に42文字で登場。昭和62年には挿絵が加わりました。

◆昭和52年(1986)大阪書籍の小学生向け教科書に「朝鮮との国交もひらかれました」と紹介。東京書籍版には琉球王朝は登場するも朝鮮通信使の記述はなし。

◆平成以降は小学生、中学生、高校生向け教科書に記述が増えています。

 

 

 北村先生はもともと高校で日本史の教鞭をとっておられたので、朝鮮通信使の研究は、学校教科書でどのように書かれたかを調べることからスタートされたそうです。2001年2月、清水の興津・清見寺に、日本の朝鮮通信使研究の先駆者である辛基秀氏をお招きし、高校の同僚の中川浩一先生を交えて3人で興津駅前の居酒屋で酒を酌み交わしたとき、辛氏が「学校教科書には朝鮮通信使のことは一切載っていない」、中川先生は「いや自分が使っていた教科書には載っていた」と大激論になったとか。

 

 辛氏は著書『朝鮮通信使』(1999)でも「明治の教育は、この善隣友好の時代を黙殺し無視し、日本帝国主義による朝鮮支配を正当化するため、秀吉の朝鮮侵略は日本の国威を海外に宣揚したものであると強化し、秀吉を国民的英雄として美化し、虚偽の歴史を教えることを目的とした」と断言するほど戦前の教科書を批判し、金両基先生も「朝鮮王朝は江戸幕府が国書を交わして交流した唯一の国であるという歴史的事実が、長い間閉じ込められていた。かくしきれないほどのこの大きな歴史的事実が1910年の日韓併合条約以降消されていった」(日韓の比較文化研究2005年)と述べています。仲尾宏先生もこの論調に準じられたようです。

 中川先生は北村先生に「教科書からかき消されていたという誤解を、必ず正してくれ」と言い残して亡くなり、北村先生はその意を継ぐかのように丁寧に綿密に調査され、第一人者といわれる研究家の説を覆したのでした。

 先入観のない立場から見ると、第一人者の先生方は、戦前の教科書が朝鮮通信使をどう扱っていたのか、ちゃんと調べればわかるのに、なぜ“裏取り”をしなかったんだろうと不思議に思えます。江戸時代の日本と朝鮮半島の善隣友好の歴史を、江戸徳川時代を否定することから始まった近代日本が肯定するはずがない、その後日本が朝鮮半島にしてきたことを見れば自明だ・・・そんな思い込みがあったのでしょうか。

 

 4月15日には静岡駅前サールナートホールで開催された京都学講座を受講し、花園大学文化遺産学科の福島恒徳教授から文化財の真贋について興味深いお話をうかがいました。専門家が文化財指定のお墨付きを与えた後で、偽物コピーだったと判明する事件が時々起きる。偽物コピーだと薄々わかっていても骨董市場で平然と流通されるのは、最初にお墨付きを与えたのが第一人者といわれる高名な大学教授だったりするから・・・というきわどいお話。「〇〇先生の鑑定に異論を唱えることはできない」―そんな空気に支配されるのは、アカデミズムに限ったことではないかもしれませんが、真実を究明する精神を曇らせた歴史家はプロといえるのでしょうか。

 

 そんな、奥歯にものが挟まったような心境で巡り合った『アマチュア論。』。勢古氏は轡田隆史氏の『考える力をつける本』の一節を引用しています。

「考える力とは、実は、ものごとの細部にわたって、積極的に意識して行動する力なのだろう。僭越にもつけ加えるなら、考える力とは、結局は、一個の人間として恥ずかしくない生き方を、どう選んだらいいのかという問題にゆきつくものであるらしい」。

 この、「ものごとの細部にわたって、積極的に意識して行動する力」を、北村先生は発揮されたのだろうと腑に落ちました。

 

 勢古氏のアマチュア論は26の格言に集約されています。いくつか紹介するとー

「一流のプロフェショナルはかならず見事なアマチュア精神を持っている」

「お題目ばかり立派で実体の不明な「プロ」を目指すより、人間としてのより良き「アマチュア」を目指す方がいい」

「目前のことに反射的に反応する前に、一拍おいて目前の意味を考えること」

「世間の言葉に従って安心を手に入れるよりも、自分で考えて間違うほうがいい」

 

 歴史研究においては、アマチュアのさらに下の「素人」同然の自分が、モノカキとしては「プロ」を自認する矛盾と葛藤にどう向き合うべきか、そもそもこうやって一銭にもならないブログ書きに時間を費やす自分はプロのライターなんだろうか、良きアマチュアとはどうあるべきか・・・途方もなく大きな宿題を突き付けられた気分です。



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