杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

河村先生の遺産(その3)静岡吟醸一家の家長

2017-05-10 10:08:53 | しずおか地酒研究会

 ゴールデンウイークの終盤5月6日に、「しずおか地酒サロン~松崎晴雄さんと振り返る河村先生の功績」を開催しました。会場は平野斗紀子さん(たまらんプレス代表・元静岡新聞出版局)の自宅兼ゲストハウス「あくび庵」。平野さんは今年1月、料理達人の同級生と手作り惣菜屋を創業し、あくび庵で予約販売or配達を始めました。

 あくび庵の室内は江戸時代の長屋風古民家をイメージした板の間のワンフロア。ここに松崎晴雄さん、杉井均乃介さん(「杉錦」蔵元杜氏)、青島孝さん(「喜久醉」蔵元杜氏)をはじめ、地酒研発足当時からのベテラン会員さんを中心に20名の酒友が河村先生への献杯酒を持ち寄り、あくび庵のお惣菜を酒肴に、先生との思い出話に花を咲かせました。

 松崎さんは「日本酒の歴史に残る革命的技術者を挙げるとしたら、吟醸酒の父といわれる広島の三浦仙三郎(1847~1908)と河村傳兵衛しかいないと思う。三浦仙三郎が生み出した吟醸酒をさらに進化させた河村先生は、まさに昭和平成の三浦仙三郎です」と語りました。先生のことをこのように評価できる人は静岡にも全国にもいないだろうと胸が熱くなりました。

 

 杉井さんは若かりし頃、河村先生に縁談を世話してもらったことがある(残念ながら破談)というトリビアを披露。青島さんは、県沼津工業技術センターで研修を受けたとき酒袋の洗浄の重要性を叩き込まれたにもかかわらず、自蔵で先生から酒袋に臭いが残っていたことを指摘・叱責され、悔し涙を流し、今現在、酒袋をひたすら洗う蔵人たちに、酒造りで最も大事な作業を任せていると激励している最中です、としんみり語ってくれました。

 私はこのブログのこちらこちらの記事をコピーして参加者に配り、自宅の押し入れから掘り出してきた地酒番組の録画ビデオを皆さんに鑑賞してもらいました。ビデオは1989年1月24日放送のSBS『静岡発そこが知りたい~静岡は地酒ブームの火付け役』、同年3月2日放送のNHKモーニングワイド『ハイテクが銘酒地図を変える』、1993年放送のSBS『もっと知りたい東海道(地酒編)』ほか。テープはかなり劣化し、見づらかったのですが、約30年前の40代の河村先生、現役バリバリの波瀬正吉さん(能登杜氏/開運)や大塚正市さん(志太杜氏/満寿一)の雄姿に大盛り上がりでした。

 

 すっかり忘れていたのですが、96年3月のしずおか地酒研究会発会式を取材してくれた静岡第一テレビのニュース映像も入っていました。当時の顔パンパンの私のドアップに一同大爆笑!なんだか亡き家長を偲んで大家族や親戚一同が集まって、家族ビデオを見ながらワイワイくっちゃべってるって雰囲気でした。・・・そう、河村先生は静岡吟醸一家の家長だったんだなあとしみじみ。

 

 みんなから、お宝ビデオなんだから、劣化したまま放置せずちゃんと保存しておけと言われ、そういえば昔の河村先生の講演録を書き起こした原稿も、当時使っていたワープロ感光紙の劣化でところどころ読みにくくなっていたことを思い出し、再度、書き起こしてみました。

 以下は、たぶん録音テープをお借りして書き起こしをさせていただいたものだと思いますが、いつどこでの講演か不明です。内容からして先生が母校磐田農業高校の同窓会か何かで語った講演のようです。全文はA4で9ページほどありましたので、ここではかいつまんでご紹介します。

 

  ◆

 

 私は磐田農業高校の出身ですが、高校3年生の1年間はほとんど学校に行きませんでした。なぜかと申しますと、私が在学していた昭和33年から35年頃というのは農業が曲がり角といわれた時代で、私自身も農業ではとても生活できないと思っていました。大学進学を考えていましたが、私は工学ーとくに機械科を志向していたものですから、学校での農業の勉強は放ったらかしにして家で数学にかじりついていた。出席日数が足りなかったにもかかわらず卒業できたのは担任の平野先生のおかげで、最近になってようやく恩師への感謝の気持ちをしみじみ感じるようになりました。

 たまたま同じ高校に従兄が勤めており、農学部でも工学的なことをやる農芸化学という学部があることを教わり、静岡大学農学部農芸化学科に進み、農産加工の食品色素などを研究し、大手食品会社に内定をもらいました。しかし昼夜三交替勤務でかなりハードだと聞いてキャンセルし(笑)、大学からはもう推薦状は書かないと怒られましたがこのまま大学に残ればいいと腹をくくっていたところ、県の工業試験場の製紙部門と醸造部門でそれぞれ1名欠員が出たと知らされ、どちらか選べと言われて即座に酒の方を選びました。

 このようないきさつでこの世界に入ったものですから、酒造りに最初から特に思い入れがあったわけではありません。昭和40年に試験場に入庁してから新酒鑑評会で初めて吟醸酒に出合い、世の中にこんなに香りがフルーティーで素晴らしい酒があったのか、どうしてこういう酒が出来るのだろうとビックリしました。その感動と疑問が私を酒造りにのめり込ませたのです。


 工業試験場は昭和28年に開設され、当時は現在の駒形にある県防災センターの場所にありました。醸造部門には名古屋国税局の出雲永槌先生、国税庁醸造試験所から齋上先生が赴任し、昭和35年に実験工場が出来ると7名のスタッフで酒を優先に研究していました。酒の研究が急がれていた理由は、当時の酒造業界が大きな曲がり角にあったことが挙げられます。

 県内の酒造メーカーは製品の大半を灘や伏見の大手メーカーの請負で生産し、その残りに自社銘柄を付けて売っていました。酒造従事者を今も蔵人と呼んでいますが、多くは南部(岩手)、新潟、能登あたりから呼ばれ、蔵の主人は彼らに酒を造らせ、出来た酒を大手に納めるという気楽な商売をやっておったのです。しかし大手のほうで生産技術が上がり、自社内で造るほうが安くて良い酒ができるようになり、県内メーカーが徐々に取引額を減らされていきました。自社銘柄でも思うように売れず、昭和40年代から50年代半ばまでそんな状態が続いていました。

 同じころ、広島県や石川県を中心に吟醸酒が売れ始めました。吟醸酒は鑑評会出品用にどの蔵でも造っていましたが、蔵の主人の晩酌用か特別なお客さんに出す程度で、商品として出すものではありませんでした。昭和50年代の初めだったでしょうか、「菊姫」「天狗舞」の吟醸酒が東京市場で話題を呼び、県内メーカーもこれで生き残るしかないと、次第に吟醸酒に目を向け始めました。

 酒造りの基本を成すものは2つの微生物、すなわち麹菌と酵母菌です。酵母にはブドウ糖からアルコールを作るという大きな役割があり、吟醸酒の場合は香りを作る役目もあります。酵母が生成する吟醸酒の香りはエステルといい、酵母の種類によって香りの大小さまざまです。広島の吟醸酒は香りと味が非常に重厚で、石川を中心とした北陸の吟醸酒は香りが華やかで味が丸いタイプ。ではわれわれ静岡はどういうタイプの吟醸酒にするか。人気のある広島や石川と同じタイプを狙うのが常套手段ですが、これとは少々異なる、香りは華やかでも味が軽快な酒にしようと考えました。こうして生まれたのが有機酸生成の少ない静岡酵母です。これで早い時期に試作してもらった県内4~5社が全国新酒鑑評会で全社入賞したため、昭和60酒造年度では県内大半のメーカーに配布しました。

 その過程で痛感したのは、杜氏さんは若手でも50代でほとんどが年配の職人。彼らはこちらの話を聞いてはくれるものの、なかなか実行に移してくれないということでした。そんな中、ある蔵の40代の若い杜氏さんが、蒸した米一粒に一点くっきりと麹を生やすという神業をやってのけていました。その秘密が知りたくて早朝5時に蔵に行き、いったん職場に出勤して昼頃また見に行き、夜は夜でまた見に行った。そんなことを毎日やっていたので、蔵の主人が体を壊すから泊って行きなさいと言ってくれまして、泊りがけで作業を観察し、自分でも造ってみたのですがうまくいきません。

 優れた麹造りは麹室の作業だけでなく、酒造り全体の流れの中に秘訣があったのです。そのひとつに最初の工程である米洗いがあります。洗米した米を顕微鏡で見ると、洗い方によって表面の形状がまったく異なります。よく洗った米は六角形の構造を持ったデンプン粒が列をなしており、よく洗わない米は餡かけにしたようにドロッとしています。これを蒸すとドロッとした部分がネバネバになり、そこに麹菌を付けたとしても菌がくっきり食い込まず、ダラダラと広がってしまいます。酵母が品質に与える影響は3割くらい。後の7割は米洗いであると痛感しました。現場で杜氏さんに初めて教わったことです。教育もそうですが、良い師に指導を受けるということが非常に重要です。

 県内の比較的大手のメーカーを巡回指導したときのこと。吟醸酒の品質について聞かれ、私ははっきり「箸にも棒にもひっかかからない。こんな酒はみたことがない」と答えました。杜氏さんはブルブルと震え出し、「ならばどうやって造るのか」と詰問した。普通の巡回指導ではそれ以上のことはしないのですが、私も後に引けなくなり、彼のもとに4~5泊して麹造りを徹底指導しました。

 一点くっきりの理想的な吟醸麹は簡単にはできません。2時間おきぐらいに麹室に入り、様子を見る。私は合間を見て風呂に入り、仮眠をとりますが、杜氏さんたちは私より10歳以上年上にもかからわず、ほとんど不眠不休です。結局この蔵は全国の金賞をとるまでそれから3年ぐらいかかりました。麹造りだけ覚えてもほかにたくさん課題があるのです。私の仕事は県内メーカー全体のレベルを引き上げることですから、この蔵ばかり偏った指導をするわけにもいきません。後は現場の奮起に期待するだけです。

 私は冬、朝3時ごろに起きてまず風呂に入ります。風呂と言ってもわが家は古い借家で、風呂釜の火は外で点けます。タイルの風呂の湯はなかなか沸かず、湯船に浸かっていても1時間もたてば水のようになってしまいます。ぬるい湯に長く浸かっているとついつい寝込んでしまいますが、風呂の中ではあの蔵のもろみの状態はどうか、というふうに、その日一日の指導予定を立てます。静岡市を中心に、大井川から富士川の間を毎日、今日は東、明日は西というようにメーカーを指導して廻ります。朝、メーカーに着くのは5時。各蔵を廻って杜氏さんたちの動きをじっくり見ます。酒造りの秘密は非常に厳しく守られていますが、腕の良い杜氏さんがどんなふうにやっているのか、技術的なことをいろいろ学び、それを他のメーカーの杜氏に教える、というのが私の役割です。

 1社2社だけ良い酒ができても、地場産業としての発展にはつながりません。現在、不況産業といわれる業種がありますが、その中でも左団扇といわれる企業が1社2社はあるはずです。われわれがやることは、そういう成熟産業の掘り起こしです。昭和61年に県内の蔵が大量入賞し、一躍静岡の酒が脚光を浴びたことが、これをよく物語っています。

 現在、注目を集めているバイオテクノロジーの歴史を見ますと、古来より連綿と続いているのは酒造業ただ一つです。バイオの基本は日本の酒から来ていると言ってもよいでしょう。私が就職に醸造を選んだのは、学生時代にアミノ酸発酵の研究がかなり進んだためです。アミノ酸発酵は微生物の働きによるもので、日本独自の技術です。従来はグルタミン酸ソーダにしても小麦から抽出分離したものが主体ですが、アミノ酸発酵の研究は酒造技術を移転して進められ、微生物は何でも頼めばやってくれるということを学びました。

 われわれがやっている酵母改良技術も、自然界の中で選びだした微生物の方が優れたものが多い。香りの高い酵母の改良をいろいろやってみましたが、酒の酵母というのはバランスをとるのが難しく、化学方程式の上ではこの微生物とあの微生物の相性がいいからと合わせてみても、人間の口には合わない酒になることもあります。食品の場合、すべてをバイオ技術で解決できるわけではないのです。

 昭和61年、静岡県が酵母の改良をして全国新酒鑑評会で大量入賞したのを機に、全国各地で酵母の開発がさかんになり、非常に香りの高い酒を造り始めました。鼻の高いクレオパトラは美人の代名詞ですが、酒の世界ではタブーです。静岡には良水があり、美人顔を作ると喜ばれていますが、酒飲みには淡麗な酒が好まれます。

 県内では中部地区のメーカーがとくに熱心に酒造りに取り組んでおられるようですが、他県のように他者と競い合うということは少ないですね。静岡県というのは紳士の集まりと申しますか、他と争い合うことを嫌うようです。しかし県の鑑評会で順位をつけることによって、よい意味で競争し、技術向上に努めるようになりました。東海4県では今までどの県も、県の鑑評会で順位付けするのは嫌がってやりませんでした。このエリアでは岐阜県が酒どころとして名を馳せており、静岡県は昭和40年代から全国に50社出品して1社入賞できるかどうかという状況が続いていましたが、現在は逆転しています。

 その意味でも競い合うということは必要です。それも価格競争ではなく品質競争。これで成功したのが新潟の「越乃寒梅」です。戦後の米のない時代、越乃寒梅(新潟)、若竹(静岡)、浦霞(宮城)の3社が醸造試験所のある研究室で同じ釜の飯を食べていました。その時、研究室長が「これからは品質の時代だ、米を磨け」と言って、精米技術が15~20%程度だった当時、70%磨けと指導され、これを実行したのが越乃寒梅の石本酒造でした。酒蔵にとって米のない時代に7割も磨いてしまうのは大変な決断だったと思いますが、苦労して品質を高めたことが後々の名声につながったといえましょう。私は酒の世界では、一度名声を得ると50年は続き、一度失敗すると一夜にして酒の価値が下がると考えています。現実に、一度の失敗がタンク全体に影響し、一年間その蔵の酒を悪くし、翌年からすっかり売れなくなったメーカーがありました。

 したがって、県内メーカーに指導しているのは、とにかく品質を上げることです。県内産の吟醸酒の品質が非常に良いと評価されるのは、市販される酒が鑑評会用の酒と同じ造りをしているからです。酒の世界はタブーが多くてなかなか表立っていえないのですが、現在市販されている「平成5年度金賞受賞酒」の中には鑑評会会場にあった酒と雲泥の差のものもありました。鑑評会用に出品する酒はほんの数本で、他の酒とは別の造り方をしているのです。

 私は指導する立場として、県産酒の市場における品質の安定を第一に考え、滝野川(国税庁醸造試験所のある場所)に出す酒も、市場に出す酒も、同じ造りをしてくださいと言い続けています。静岡市内ではメーカーの努力のみならず、やまざき酒店のような小売店や、入船鮨ターミナル店の竹島さんのように、県産酒を真剣に応援してくださる人々に支えられ、安定した品質を保つことが出来ています。

 静岡の酒の特徴をもうひとつ加えさせていただけるなら、酒は一般に1年間流通させるため出荷前の酒は寝かせておくものですが、熟成が進むうちに品質が低下するという難点がありました。吟醸酒の香りも老ねた香りになってしまうんですね。そこで静岡では熟成の貯蔵を低温化させるという、全国の大手メーカーでもやらないことを進めています。酒の先進県と言われる広島や石川と同じようなことをやっていても、いつまでたってもかないません。

 さらにわれわれの県の特徴としては、メーカー全体がまとまり、団結して進んでいるということ。お隣愛知県ではメーカー同士がバラバラで市場も混乱しています。これでは業界は発展しにくい。その点、静岡県は一致協力していますので、安心しています。

(河村傳兵衛氏講演録 タイトル・日時・場所は不明)

 

  ◆

 

 文中に平成5年度という年号が出て来たので、1993年頃の講演録かと思われます。もし内容に記憶のある方がいらっしゃったら、いつどこの講演だったか教えていただけるとありがたいです。また劣化テープの適正な保存法を教えてくださる方がいらっしゃったらお願いします。

 

 



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