17日(土)は滋賀県高月町で、朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会高月大会が開かれました。全国各地で朝鮮通信使に関連する調査研究や地域づくりにかかわる人々が年に1度集まる大会で、今回で16回目を数えます。
私が参加するのは2007年の静岡大会&彦根大会以来。この年は徳川家康駿府入城400年祭と彦根築城400年祭が重なったので、春と秋に2回行ったのでした。春に清水テルサで開かれた大会で、映像作品『朝鮮通信使』が初上映されたのをきっかけに、朝鮮通信使の研究者や関連団体が全国にこんなにたくさんいるんだと知り、しかも脚本執筆時にお世話になった研究者や博物館学芸員の方々が清水に一堂に集まってくださったので、大感激ですぐさま私も仲間に入れていただき、秋の彦根大会に喜び勇んで参加したのでした。
滋賀県高月町は、過去ブログでも紹介したとおり、対馬藩お抱えの儒学者で朝鮮王朝との外交は「誠信の交わりこそ第一」と述べた雨森芳洲の出身地。朝鮮通信使は瀬戸内海&東海道を往来したので、琵琶湖湖北の高月町に直接足跡を残したわけではありませんが、芳洲ゆかりの地という一点で、全国の朝鮮通信使研究家から注目され、地元でも地域を挙げて日韓交流を行っています。それほど芳洲の功績は偉大だったというわけです。
私は映画制作時はもちろんですが、学生時代から高月町の渡岸寺十一面観音像に親しみ、現在、観音の里として地域づくりが行われていることを好感を持って見守り続けてきました。
渡岸寺に隣接する高月町観音の里歴史民俗資料館の学芸員佐々木悦也さん(写真左)は、映画制作時にひとかたならぬお力添えをいただき、さらに今年8月には「静岡に文化の風をの会」の招きで静岡まで来てくださり、高月町の地域づくりについて丁寧に解説されました。私の中では、高月町イコール佐々木さん、みたいな感じなんですね。「人」で「地域」が語れるってとても分 かりやすいし、親しみも格別だし、いいことだと思います。
今回は、昨春、やはり朝鮮通信使つながりの京都・高麗美術館の花文字体験ワークショップにお誘いした静岡新聞の平野斗紀子さん(写真右)を、ふたたびお誘いしました。
話は逸れますが、静岡新聞農林水産面(毎週金曜夕刊)を担当する平野さんは、高麗美術館の学芸員片山真理子さんに、韓国の茶文化について原稿をお願いしたそうで、今週23日(金)夕刊には掲載予定です。ぜひご覧くださいね!
17日高月大会の話に戻ります。この日は朝、「静岡に文化の風をの会」のみなさんの貸切バスに便乗させてもらい、11時前には高月町に到着。私は早速平野さんを渡岸寺と民俗資料館にご案内し、午後からの基調講演会やパネルディスカッションを聴講しました。
基調講演は京都大学名誉教授でアジア史学会長の上田正昭先生による『朝鮮通信使と雨森芳洲』。高麗美術館の館長でもある先生のお話は、過去2回ぐらい拝聴していますが、芳洲に対するその熱い思いは、何度うかがっても感動します。
この日の講演では、
◎芳洲の存在を知ったのは40年ほど前、中央公論社の「日本の名著100シリーズ」で新井白石を担当したとき、幕府の実力者だった彼が、地方の役人にすぎなかった芳洲を異様にライバル視していることを知り、興味を持った。渡岸寺の蔵に保管されていた交隣提醒(1729年に芳洲が記した朝鮮外交の心得書)と出合い、感動した。
◎彼は22歳で対馬藩お抱え儒学者となり、25歳の時長崎に留学。26歳で実際に対馬へ赴任し、29歳でふたたび長崎に留学して中国語を独学でマスター。31歳で朝鮮御用支配方の佐役(補佐役)を兼任。表札方や書札方(表向きの外交官)とは違い、朝鮮王朝との通交にかかわる過去の事例や慣習などを調査し、項目別に書抜き帳を作るという裏方仕事に徹していた。
◎35~36歳、38歳のとき釜山へ留学し、朝鮮語もマスター。54歳まで朝鮮方佐役を務めたあと、本来の儒学者としての任務に戻るが、57歳のとき対馬藩御用人(藩主と年寄・諸役との間を取り持つ秘書役)となり、61歳まで務めた。この間、対馬藩主に藩内に朝鮮語学校を設置するよう働きかけ、実現させ、後継者の育成に努めた。62歳から翌年にかけては、釜山の倭館(対馬藩の領事館)に赴任。
◎88歳で生涯を閉じるが、81歳のとき、日本古来の詩歌を学び直そうと、古今和歌集の千篇読みと和歌一万首作りに挑み、2年で達成した。
・・・という芳洲の生涯を改めて振り返り、朝鮮外交を現場主義に徹して支え、晩年も学ぶ姿勢を貫き、生涯学習を実践し通した彼の人となりを称賛しました。今の外務省の若手職員にでも聞かせたいお話ですよね!
上田先生がこの日紹介された『交隣提醒』の一節で印象深かったのは、「日本側は、朝鮮の人々に日本の自慢をしようと、大仏を見せたり耳塚(朝鮮侵攻した日本軍が論功行賞目当てに朝鮮人の鼻を削いで塩漬けにして持ち帰った、その慰霊碑)に案内するのはいかがなものか。朝鮮の人々は、そんなものより、日本の街並みが清潔で、街道の樹木の手入れが行き届いているほうに感心するのだ」とはっきり述べているところ。・・・なんだか今でも県外や海外のゲストを迎える時に通用するお話です。
パネルディスカッションでは、ソウルの市立中学や市立高校の校長を歴任された李英煒(イ ヨンウイ)氏が、韓国の歴史教育者の間ではほとんど知られていなかった芳洲の存在を1993年ころ知って、翌94年には教え子たちを高月町に夏期合宿に連れてくるようになり、希望者が年々増え、町民の家にホームステイするようになり、ますます交流が深まっていることを紹介。
元韓国外交官で、長崎県立大学教授の徐賢燮(ソ ヒョンプ)氏は、1990年に当時の廬泰愚(ノ テウ)大統領が来日の折、宮中晩さん会で天皇陛下への返礼の際、芳洲の名を上げ、誠信外交の大切さを述べたそのスピーチ原稿を書かれた方。最初、韓国大使館の上役からは「雨森芳洲なんて聞いたことがない、(もっとメジャーな)新井白石にしろ」と言われたそうですが、上役を説得したという裏話を披露してくれました。このときの廬大統領のスピーチによって、芳洲の存在は広く知られるようになったのです。
徐先生が「1万円札の肖像を福沢諭吉ではなく、芳洲にすべきだ」と語ると、コーディネーター役の平井茂彦さん(高月町東アジア交流ハウス雨森芳洲館長)が、芳洲のイラスト像をはめ込んだ1万円札パネルをタイミング良く披露し、会場は大いに盛り上がりました。
・・・芳洲のごとく、こうして裏方で日韓交流に尽力される方々のお話を直接うかがうと、隣国同士なんだから、こういう方々の活動がいつまでも“特別な話題”扱いされるんじゃなくて当たり前にならなきゃなぁと思います。
夜は、朝鮮通信使縁地連絡協議会のみなさんが一堂に会する懇親会に出席し、静岡から駆け付けた北村欽哉先生に中日新聞取材のお礼をし、ついでに先生に各地の活動家の方々をご紹介していただきました。
二次会では広島県鞆町から参加の池田一彦先生と久しぶりに再会し、滋賀の地酒「七本槍」を酌み交わし、例の、鞆の浦開発裁判の話題になって、「県や市の役人たちは裁判所に行くにも公費で交通費が出るが、反対派の住民は自費で行かないけん。それだけでもハンディがあるんじゃ」と現場ならではの本音をうかがいました。
三次会では佐々木さんに長浜市内の韓国料理店に連れて行ってもらい、薬草たっぷりのヘルシーなサムゲタンと風味抜群の韓国味噌でいただくチヂミ、そして甘くすっきり飲みすぎちゃいそうなマッコリを堪能しました。この店の韓国人のママさんは、高月町で韓国料理教室を開いては地元の皆さんに喜ばれているそうです。
国際交流というよりも、民際交流の価値を実践・発信する高月町の人々と、全国から集う朝鮮通信使ゆかりの人々。わけもわからず参加した平野さんも、北海道や九州から駆け付けた初対面の人々と、和気あいあいと飲んでいます。共有するテーマだけで純粋につながるこういう交流の場は、なんとも得難く、末永く大切にしたいなぁとしみじみ実感します。
お世話になった佐々木さんはじめ、高月町のみなさま、朝鮮通信使縁地連絡協議会のみなさま、静岡に文化の風をの会のみなさま、本当にありがとうございました!