評価点:85点/2020年/アメリカ/113分
監督:エメラルド・フェネル
彼女は何と戦うのか。
キャシーこと、カサンドラ・トーマス(キャリー・マリガン)は、30歳になろうとしていた。
医大を中退して、実家に居座り、カフェで働いていた。
友達も彼氏もいない。
しかし、そんな彼女には裏の顔があり、夜な夜なバーに行っては泥酔したふりをして、「お持ち帰り」しようとする男に制裁を加えていたのだ。
両親は定職に就かない、交流の極端に少ない娘を心配していた。
そんなある日、医大のころの同級生がたまたまカフェを訪れ、デートに誘ってきた。
一念発起し、彼女は彼とのランチに応じるのだが……。
女優のエメラルド・フェネルの監督デビュー作。
主演は「私を離さないで」のキャリー・マリガン。
あの、かわいらしい女性だった彼女が、思い切った女性を演じている。
あまり予備知識はなかったが、アマゾンで見られたので、再生ボタンを押した。
お盆休みに映画の一本も見ないなんて、という焦りもあった。
日付をまたぐくらいに見たので、1時間くらいでとめて後日、と考えていたが、一気に見てしまった。
読後感が筆舌に尽くしがたいものなので、見るには結構注意が必要だ。
年齢制限もPG12だが、実際にはR18でもおかしくない。
直接的な描写は少ないか、だから余計に重たい。
けれどもすべての男は見るべきだ。
自分を相対化するために。
▼以下はネタバレあり▼
全く話を知らなかったので、本当にどういう話になっていくのか読めずにいた。
物語の中盤、ライアンとの関係が深まっていくあたりまで、私は「このままハッピーエンドになればいいな」という漠然とした期待を胸に抱いていた。
だが、そんなわけはないのだ。
この映画は、私たちが一般的に描く「ハッピーエンド」や恋愛への期待に対する、強い警告なのだから。
脚本まで手がけている監督のエメラルド・フェネルは、この作品でオスカーの脚本賞も受賞している。
秀逸で、そして正しく映像に起こしていると感じた。
決定的で、テーマを精確に、貫徹している。
こういう映画が社会的な題材を好む日本人が作れないということが、本当に悲しい。
最初のストーリーのところでは、「裏の顔」というような言い方をしたが、適切ではないかもしれない。
裏の顔に見えていたのは、他の人からの目線であって、彼女は一つの役割を徹底しているに過ぎない。
他の人は、その役割に気づいたとき、彼女が豹変したかのように見えてしまうだけだ。
もったいぶっても仕方がないので、彼女のこの数年間の生き方を確認しておこう。
大学生の時に、親友であったニーナは、同級生にレイプされてしまう。
成績優秀で、自分というものをしっかり持っていたニーナが、標的の対象になったのはそれほど不思議なことではなかったのかもしれない。
その様子を周りの同級生は面白がり、ニーナは心を病んでしまう。
大学に訴えたが、信じてもらえず、彼女は大学を去る。
その親友であったカサンドラもまた、彼女に寄り添うために、そして同級生の誰も信用できなくなってしまい、大学を辞める。
どれくらいの時が経ったのか、その後ニーナは自殺する。
カサンドラはその怒りを、女性を軽々しく扱う男たちに対して復讐するという日課を続けていたのだ。
しかし、社会的地位があれば難しい。
そこで、カフェの店員というどこにでもいるような女性を仮の姿として、夜な夜なクラブやバーに出かけていたのだ。
そういう生い立ちの彼女にとって、だが、女性に危害を加えたり、直接相手に暴力行為を働くことはしなかった。
できなかった、というほうが正しいだろう。
どれだけ相手が女性を蔑視した悪漢であったとしても、彼女は痛めに遭わせるだけで直接的な犯罪行為はしていなかった。
それは途中でコカイン中毒の男ニール(クリストファー・ミンツ=プラッセ)とのやりとりでもわかる。
冒頭血だらけになった様子で徘徊するカサンドラの描写はあるが、もし彼女自身が犯罪に手を染めるようなことをしていればすぐに捕まってしまうからだ。
教授の娘や同級生のフィッシャーに対しても何もしなかったのはそういうことだろう。
さて、そういう彼女が武器にしていたのは何か。
特に犯罪行為や特殊な護身術に長けていたわけでもないのに。
それは、男が、あるいは女が、社会的に身にまとっている役割を剥奪することにある。
男は常に女のためにある、というふうに私たちは無意識に信じている。
だから泥酔した女性をみたら、「お持ち帰りしてもいい」と勝手に解釈して男たちは声をかける。
ノートに数が数えられていたが、すべて男たち(一部女も)を成敗した数だ。
そしてそれは、社会的に与えられた、男は女に幸せを与えてあげる、女性よりも優位に立っている、という思い込みを剥奪した数でもある。
だから、車で立ち往生していたカサンドラに対して、通りがかった運転手は罵詈雑言で彼女をからかう。
そのとき彼女は工具で応戦する。
そうして初めて男は自分が一人の人間であり、女性と対等であるということを知るのだ。
車を壊されなければ、男は自分が無意識に女性より優位に立っていると思い込んでいることを意識できないのだ。
そういう意味で、彼女は相手から女性は我慢すべき、男は社会的に守られている、という社会的な役割を剥奪することで相手を個にしてしまう。
ラストで、アル・モンローが泣いて許しを請う。
医者で、これから結婚するという社会的に絶大な成功を収めている男でさえ、彼女の前では矮小な自分をさらけ出す。
それは彼女が強いからではない。
一人の人間として対等に割り合えば、そこに上下などないからだ。
しかし、男たちは常に自分の方が優位に立っていると勘違いしている。
だからこそ、対等になった瞬間、恐れを抱くのだ。
この映画に出てくる人間はその意味で弱者ばかりだ。
自分ではなにもできないような矮小な人間たちだ。
個人になれば判断力がなくなり、生きることさえままならなくなる。
彼女はそれに気づかせる。
だから裏の顔をもつように感じられるのだ。
アルやその親友たちは言うまでもなくクズだが、もっとクズなのはライアンだ。
ライアンは成績優秀で美人だった、とカサンドラを口説き落とす。
しかし、ライアンはニーナと勘違いしている。
カサンドラはそれほど優秀でもなかった。
カサンドラとニーナを完全に混同してしまうほど、彼はあの事件について「なんでもない」と思っていたのだ。
カサンドラはあの動画を見ることで、ライアンもまた同じクズであることを知る。
けれども私の読みでは、この映画のテーマから考えても、彼女が気づいたのはそれだけではなかったはずだ。
恋愛が素敵なものかもしれない、ニーナのことを忘れてライアンと結ばれる未来もあるかもしれない。
そう考えた彼女は、ライアンがこの事件に関わっていることを知り目が覚める。
こういうハッピーエンドに思う結末こそ、結局男尊女卑の極めて高度に隠蔽された権力の象徴なのだということに。
そもそも、事件に関わっていたこの映画の登場人物たちは、みな一様に加害者なのだ。
両親はニーナの事件を知りながら、それでも娘には男と幸せになって欲しいと願っている。
ニーナの母親は、戦うことを諦めて、それぞれが新しい人生を見つけることを望んでいる。
けれども、それは結局ニーナの無念を無視することに他ならない。
カサンドラの復讐の相手は、男ではない。
社会的な制度そのものなのだ。
だから、ライアンとのハッピーエンドなんてあり得ない。
それは、ニーナを忘れて社会的な大きなうねりに身を任せて、ニーナをなかったことにしてしまうことに他ならないから。
男女が結婚して結ばれる、そして子どもができて……という流れそのものが社会に巣くう「男尊女卑の制度」を生み出す装置なのだ。
カサンドラはそれに気づいたのかもしれない。
「そうなるのも幸せ」かもしれないと感じた自分を恥じたのかもしれない。
このあたりは私の解釈だが、そうでなければ父親の「ニーナは娘同然だった」というあの言葉は不要だった。
あの一言で父親は戦うことを辞めてしまったことがわかるのだから。
この映画をただ単に「悲しい話」として終わらせるのはちょっと無邪気すぎる。
誰にでもある男と女に対する偏見や差別を、見事なまでに物語化(昇華)している。
そして私もまたその加害者なのだ。
その意識がなければ、おそらくこのようなクソみたいな話は、日本でも起こり続けるだろう。
見終わったあと、怒りが収まらない。
その怒りはアルやライアンに対してではない。
こういう決定的な映画を、日本も目指すべきだ。
監督:エメラルド・フェネル
彼女は何と戦うのか。
キャシーこと、カサンドラ・トーマス(キャリー・マリガン)は、30歳になろうとしていた。
医大を中退して、実家に居座り、カフェで働いていた。
友達も彼氏もいない。
しかし、そんな彼女には裏の顔があり、夜な夜なバーに行っては泥酔したふりをして、「お持ち帰り」しようとする男に制裁を加えていたのだ。
両親は定職に就かない、交流の極端に少ない娘を心配していた。
そんなある日、医大のころの同級生がたまたまカフェを訪れ、デートに誘ってきた。
一念発起し、彼女は彼とのランチに応じるのだが……。
女優のエメラルド・フェネルの監督デビュー作。
主演は「私を離さないで」のキャリー・マリガン。
あの、かわいらしい女性だった彼女が、思い切った女性を演じている。
あまり予備知識はなかったが、アマゾンで見られたので、再生ボタンを押した。
お盆休みに映画の一本も見ないなんて、という焦りもあった。
日付をまたぐくらいに見たので、1時間くらいでとめて後日、と考えていたが、一気に見てしまった。
読後感が筆舌に尽くしがたいものなので、見るには結構注意が必要だ。
年齢制限もPG12だが、実際にはR18でもおかしくない。
直接的な描写は少ないか、だから余計に重たい。
けれどもすべての男は見るべきだ。
自分を相対化するために。
▼以下はネタバレあり▼
全く話を知らなかったので、本当にどういう話になっていくのか読めずにいた。
物語の中盤、ライアンとの関係が深まっていくあたりまで、私は「このままハッピーエンドになればいいな」という漠然とした期待を胸に抱いていた。
だが、そんなわけはないのだ。
この映画は、私たちが一般的に描く「ハッピーエンド」や恋愛への期待に対する、強い警告なのだから。
脚本まで手がけている監督のエメラルド・フェネルは、この作品でオスカーの脚本賞も受賞している。
秀逸で、そして正しく映像に起こしていると感じた。
決定的で、テーマを精確に、貫徹している。
こういう映画が社会的な題材を好む日本人が作れないということが、本当に悲しい。
最初のストーリーのところでは、「裏の顔」というような言い方をしたが、適切ではないかもしれない。
裏の顔に見えていたのは、他の人からの目線であって、彼女は一つの役割を徹底しているに過ぎない。
他の人は、その役割に気づいたとき、彼女が豹変したかのように見えてしまうだけだ。
もったいぶっても仕方がないので、彼女のこの数年間の生き方を確認しておこう。
大学生の時に、親友であったニーナは、同級生にレイプされてしまう。
成績優秀で、自分というものをしっかり持っていたニーナが、標的の対象になったのはそれほど不思議なことではなかったのかもしれない。
その様子を周りの同級生は面白がり、ニーナは心を病んでしまう。
大学に訴えたが、信じてもらえず、彼女は大学を去る。
その親友であったカサンドラもまた、彼女に寄り添うために、そして同級生の誰も信用できなくなってしまい、大学を辞める。
どれくらいの時が経ったのか、その後ニーナは自殺する。
カサンドラはその怒りを、女性を軽々しく扱う男たちに対して復讐するという日課を続けていたのだ。
しかし、社会的地位があれば難しい。
そこで、カフェの店員というどこにでもいるような女性を仮の姿として、夜な夜なクラブやバーに出かけていたのだ。
そういう生い立ちの彼女にとって、だが、女性に危害を加えたり、直接相手に暴力行為を働くことはしなかった。
できなかった、というほうが正しいだろう。
どれだけ相手が女性を蔑視した悪漢であったとしても、彼女は痛めに遭わせるだけで直接的な犯罪行為はしていなかった。
それは途中でコカイン中毒の男ニール(クリストファー・ミンツ=プラッセ)とのやりとりでもわかる。
冒頭血だらけになった様子で徘徊するカサンドラの描写はあるが、もし彼女自身が犯罪に手を染めるようなことをしていればすぐに捕まってしまうからだ。
教授の娘や同級生のフィッシャーに対しても何もしなかったのはそういうことだろう。
さて、そういう彼女が武器にしていたのは何か。
特に犯罪行為や特殊な護身術に長けていたわけでもないのに。
それは、男が、あるいは女が、社会的に身にまとっている役割を剥奪することにある。
男は常に女のためにある、というふうに私たちは無意識に信じている。
だから泥酔した女性をみたら、「お持ち帰りしてもいい」と勝手に解釈して男たちは声をかける。
ノートに数が数えられていたが、すべて男たち(一部女も)を成敗した数だ。
そしてそれは、社会的に与えられた、男は女に幸せを与えてあげる、女性よりも優位に立っている、という思い込みを剥奪した数でもある。
だから、車で立ち往生していたカサンドラに対して、通りがかった運転手は罵詈雑言で彼女をからかう。
そのとき彼女は工具で応戦する。
そうして初めて男は自分が一人の人間であり、女性と対等であるということを知るのだ。
車を壊されなければ、男は自分が無意識に女性より優位に立っていると思い込んでいることを意識できないのだ。
そういう意味で、彼女は相手から女性は我慢すべき、男は社会的に守られている、という社会的な役割を剥奪することで相手を個にしてしまう。
ラストで、アル・モンローが泣いて許しを請う。
医者で、これから結婚するという社会的に絶大な成功を収めている男でさえ、彼女の前では矮小な自分をさらけ出す。
それは彼女が強いからではない。
一人の人間として対等に割り合えば、そこに上下などないからだ。
しかし、男たちは常に自分の方が優位に立っていると勘違いしている。
だからこそ、対等になった瞬間、恐れを抱くのだ。
この映画に出てくる人間はその意味で弱者ばかりだ。
自分ではなにもできないような矮小な人間たちだ。
個人になれば判断力がなくなり、生きることさえままならなくなる。
彼女はそれに気づかせる。
だから裏の顔をもつように感じられるのだ。
アルやその親友たちは言うまでもなくクズだが、もっとクズなのはライアンだ。
ライアンは成績優秀で美人だった、とカサンドラを口説き落とす。
しかし、ライアンはニーナと勘違いしている。
カサンドラはそれほど優秀でもなかった。
カサンドラとニーナを完全に混同してしまうほど、彼はあの事件について「なんでもない」と思っていたのだ。
カサンドラはあの動画を見ることで、ライアンもまた同じクズであることを知る。
けれども私の読みでは、この映画のテーマから考えても、彼女が気づいたのはそれだけではなかったはずだ。
恋愛が素敵なものかもしれない、ニーナのことを忘れてライアンと結ばれる未来もあるかもしれない。
そう考えた彼女は、ライアンがこの事件に関わっていることを知り目が覚める。
こういうハッピーエンドに思う結末こそ、結局男尊女卑の極めて高度に隠蔽された権力の象徴なのだということに。
そもそも、事件に関わっていたこの映画の登場人物たちは、みな一様に加害者なのだ。
両親はニーナの事件を知りながら、それでも娘には男と幸せになって欲しいと願っている。
ニーナの母親は、戦うことを諦めて、それぞれが新しい人生を見つけることを望んでいる。
けれども、それは結局ニーナの無念を無視することに他ならない。
カサンドラの復讐の相手は、男ではない。
社会的な制度そのものなのだ。
だから、ライアンとのハッピーエンドなんてあり得ない。
それは、ニーナを忘れて社会的な大きなうねりに身を任せて、ニーナをなかったことにしてしまうことに他ならないから。
男女が結婚して結ばれる、そして子どもができて……という流れそのものが社会に巣くう「男尊女卑の制度」を生み出す装置なのだ。
カサンドラはそれに気づいたのかもしれない。
「そうなるのも幸せ」かもしれないと感じた自分を恥じたのかもしれない。
このあたりは私の解釈だが、そうでなければ父親の「ニーナは娘同然だった」というあの言葉は不要だった。
あの一言で父親は戦うことを辞めてしまったことがわかるのだから。
この映画をただ単に「悲しい話」として終わらせるのはちょっと無邪気すぎる。
誰にでもある男と女に対する偏見や差別を、見事なまでに物語化(昇華)している。
そして私もまたその加害者なのだ。
その意識がなければ、おそらくこのようなクソみたいな話は、日本でも起こり続けるだろう。
見終わったあと、怒りが収まらない。
その怒りはアルやライアンに対してではない。
こういう決定的な映画を、日本も目指すべきだ。
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