評価点:79点/2015年/アイルランド・カナダ/119分
監督:レニー・アブラハムソン
「部屋」の中から出たとき、人はどんなことに直面するのか。
ジャックは5歳になった。
ジャックの母親は、ジャックに様々なことを教えていたが、一つ嘘をついていた。
それはこの「部屋」の外には「世界」が広がっていると言うこと。
そして、この「部屋」は男に誘拐されて無理矢理ここに連れてこられて、7年にもなるということ。
男は週に1度日曜日だけ差し入れをしてくれるが、それは監禁されているからだった。
脱出するには、ジャックの力が必要だと訴え、脱出を試みるが……。
オスカーの作品賞にノミネートされた作品だ。
それで日本でもロングラン上映となっている。
私はすでに単館上映になった時期に見にいった。
既に見た人の方が多いだろう。
小さい子どもが出ている映画に対して、もはや私は父親という役割や立場を超えて見ることが難しくなった。
この映画ももし、自分の子が、というタラレバを抜きにしては見られなかった。
この映画をどう捉えるかは立場を離れては考えにくいだろう。
私はとてもくるしくなった。
それはジャックに同情したからではない。
母親に同情したからでもない。
これは特殊を描きながら、普遍に触れているからだ。
ぜひ、親であるなら見て頂きたい。
きっと何か触れるものがあるだろうから。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を見終わった後、パンフレットを買い、パンフレットの記事を斜め読みしていた。
最後の方に書いてある大日向雅美のコラムが秀逸だ。
ほとんど私が言うべきことを簡潔に述べている。
この映画がすばらしいのは、この映画が普遍的ななにかを言い得ているからだと思う。
これが監禁されたり、レイプされたり、そして解放されたりするという特殊な状況を描きながら、それでも誰にでもある衝突、不安、葛藤、疑問を扱っている。
そうでなければ、オスカー(候補)は無理だ。
そしてそれは「よくあるお涙ちょうだい映画」でもない。
鋭すぎる視点から、残酷すぎる状況を描いている。
だから私は涙した。
のだと思う。
人間は、アプリオリに人間ではない。
様々な通過儀礼を経て、「人間」になるのだ。
社会的な存在になるためには、さまざまな部屋を出る必要がある。
最初は母親の子宮。
次に、家。
そして、地域…。
とにかく、私が息子を見ていると、勝手に大きくなっていくことはありえないことを知る。
この映画は徹底してジャックの視点から描かれる。
ジャックが知り得ないことは描かれない。
だが、ジャックの視点なのに、私たち観客はきちんと状況を把握していく。
ジャックと同じように、この世界、物語を体験していくことになる。
この映画の構成はいつも通りだ。
往来の物語である。
部屋の中からはじまり、部屋を再訪して終わる。
往って帰る型の物語である。
そこでジャックは自分の世界が広がったことを知る。
「部屋が縮んでしまった」とはそういうことだ。
当然物語の多くの点は部屋の中と外での変化を中心に描かれることになる。
だが、不思議なことに、そしてジャックの視点なのだから当然のように、ここで行われていた極めて悪質な犯罪については描かれない。
どちらかというと、この映画は、ジャックと母親の物語になっている。
よしもとばななが言うように、帰ってきたほうが「しんどい」状況になる。
なぜなのか。
母親は突きつけられる。
自分がしてきたことが正しいのかどうか。
自分が本当によい母親であるのかどうか。
部屋から出たとき、母親は他者にさらされる。
子ども以外の他者に。
いや、厳密に言えば、やがて子どもも他者になるだろう。
しかし、すべて自分としかやりとりしてこなかったジャックは、他者ではない。
部屋から出ることによって他者に出会うことで、自分がどういう母親だったのかを問い直すように求められる。
あたかも、どんな母親も直面する疑問を投げかけられたようだ。
なぜ完全母乳じゃないの?
なぜまだ歩かないの?
なぜまだ自分でご飯を食べられないの?
なぜこんなに甘えん坊なの?
なぜアレルギー体質に生まれてしまったの?
なぜこんなにこの子は我慢ができないの?
なぜこんなに話が下手なの?
なぜいまだにおトイレできないの?
それはすべて、あなたが母親としてしっかりしていないからでしょう?
そこに父親の責任を問う声はない。
なぜなら父親は「生ませるだけの役割」しか与えられていないからだ。
殴り、たまにおもちゃを買ってくる存在に過ぎないからだ。
いや、誰もそんなことをにはしないかもしれない。
だが、ジャックの母親にはきこえる。
自分を否定する声が。
この映画は子どもの目線で描かれ、ジャックがどのように成長していくか(世界を知っていくか)を描いているように見える。
だが、その実、突きつけられるのは大人たちだ。
部屋が開かれたとき、子どもを受け止めるのは、大人たちだ。
多くの人が、監禁されたり、不幸な境遇の中生まれるわけではないだろう。
ほとんどが望まれて生まれてきたに違いない。
だが、この映画が突きつけるのは、そんなレベルの問いではない。
だから私は、俺は、幸せなのだと切り捨てられるほど、この映画は易しくない。
特殊な状況なのに、私たちはなぜか「自分が置かれた状況だ」と思わざるを得ない。
なぜなのか。
これが普遍的なことだからだ。
私たちはみな、社会という常識という部屋の中に閉じ込められている。
その部屋を出ることは許されない。
その中で子どもを育て、そして問われる。
「あなたは(完璧な)いい母親なのか」と。
都合の良い描写や設定は多い。
5歳にしてはジャックは大きすぎるとか。
包丁があるなら後ろから刺せばいいとか。
男が子どもの死体を確認しなかったとか。
ジェイソン・ボーンを追っていたCIA職員がばぁばだったとか。
けれども、些細なことに過ぎない。
だってテーマはそこにはないのだから。
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