評価点:53点/2022年/アメリカ/192分
監督:ジェームズ・キャメロン
世界観の微妙な変更が、決定的な瑕疵となる。
スカイピーブルと呼ばれる人間からの侵略を退けたナヴィたちは慎ましくエイワに見守られながら生活していた。
しかし、人間はこの星を諦めたわけではなかった。
人間による大規模な再侵略が行われて1年後、ジェイク・サリー(サム・ワーシントン)を中心としてナヴィは人類に反抗していた。
押されていた人間達は、マイルズ大佐(スティーヴン・ラング)は記憶と意識をナヴィの体に移植することで復活させ、ナヴィに紛れて惑星を再侵略する計画を実行する。
危機感をもったサリーは、森の民の元を離れ、新しい生活の場所を探す旅に出る。
世界的大ヒットとなった前作「アバター」から13年ほど経ち、続編として再びお披露目となった。
監督は前作に引き続きジェームズ・キャメロンだ。
3D映画として一つの新しい時代を切り開いたこのシリーズは、さらに映像技術を高めて満を持して公開された。
三部作と言われていたのに、いつの間にか五部作にまで膨らんでいるようだ。
もともとは人間だったサリーがナヴィのアバターに記憶と意識を入れ込んだことで、惑星パンドラでも生活できるようにすることが設定だった。
だから、「アバター」なのだ。
このあたりは前作を復習してから見た方がより楽しめるはずだ。
しかし、日本ではあまり話題になっておらず、スマッシュヒットになっていない。
192分というありえない長時間の上映のため、観客動員数も伸びないのだろう。
また、13年という時間の隔たりはファンを待たせるには大きすぎた。
あのとき0歳だった子どもはもう中学生だということだから。
(それでも、それより隔世のある「スラムダンク」のほうは売れているという不思議な国)
映像体験としては映画館で楽しむべき映画ではある。
▼以下はネタバレあり▼
字幕で見に行ったが、3Dでは時間が合わなかった。
公開されている映画館は多いが、結局公開回数が少ないのでどうしても見たい形式では見られない。
盛りだくさんにしたかったのだろうが、いかんせんまず上映時間が長すぎるのはそれだけでマイナスだ。
さて、これだけ映像革新がめざましいのに、まだ映像だけで3時間を引っ張ることができるということ、それだけでこの映画は鑑賞に値すると言える。
映像だけで映画を見せる時代は終わった、と何度も言われているけれども、それでもこの映画は大きな山もない場面でしっかり映像として見せている。
それは本当に監督のイマジネーションのすごさと言えるだろう。
長い上映時間は、この世界観に没頭させるには十分な時間だ。
一つの時代を築いた、一つのファンタジーのあり方を示したと言える。
だが、特筆すべきなのはその点だけで、あとは何も面白くない。
13年前の「アバター」は新しいと感じたのに、続編のこの作品はむしろ時代が後退している。
前作は、自然とのつながりを失ってしまった人間が、惑星パンドラ全体で一つの意識を共有しているエイワとの対峙に野望がくじかれるというテーマだった。
そのエイワ=自然とは、ナヴィの都合の良い自然ではなく、あらゆる事象をそのままに提示する自然だった。
その自然とは、ナヴィにとっても理解しがたい、まして自然とのつながりを失ってしまった人間には障害にしか思えないものものだった。
いわゆる他者としての自然だった。
しかし、この作品ではそのエイワを支配してしまう世界観に変更されている。
微妙な差が、作品全体のテーマや世界観が壊れてしまっている。
わかりやすいのはアバターとなったマイルズ大佐である。
生前の記憶を注入されたマイルズ大佐は好き勝手に、人間のままにナヴィとしてふるまう。
サリーがナヴィとして転生するとき、大仰な儀式を行って一回性の出来事として描かれていたのにもかかわらず、マイルズは他の部下とともに復活してしまう。
タイトルがアバターなので、確かにこの要素は不可欠だったのだが、それが可能なら交換可能なナヴィがいくらでも量産できるということになってしまう。
そうなれば、ナヴィとはどういう存在なのだろう。
人間のクローンを作ることも難しいのに、ナヴィはただの入れ物として乗りこなす物質になってしまう。
記憶や意識を、手の中に収まるデータとして扱われてしまえば、人間としての尊厳やナヴィとしての世界観は、単なる技術や物質的なものになる。
これでは、今私たちが直面している現実と何らかわらない。
エイワは単なる人間が利用できるだけの素材であり、無機質な物質ということになる。
さらにいただけなかったのは、そのナヴィのマイルズが、動物たちを手なずけてしまったところだ。
エイワに抱かれているという尊厳がなければ、動物たちはその乗り手とともにすることはないはずだ。
そうでなければ前作で示されたパンドラの世界観が壊れてしまう。
舞台はパンドラだとしても、結局地球で行われてきた論理が、そのままこの惑星でも行われているに過ぎない。
そこにあるのは、利用可能な自然としてのエイワであり、神聖性が漂白されてしまった利用対象としての自然だ。
ひょっとすれば人類は侵略という野心をもったままエイワと調和を結んでしまうかもしれない。
他者としての自然ではなく、そこには人間の都合の良い自然(=資源)として描かれてしまっている。
だから、むしろアバターとなったマイルズが、その自然の偉大さに気づくという筋にしなければ世界観は保たれない。
依然として人間の論理に染まっているマイルズは、ナヴィとして周りの動植物に受け入れられては世界が壊れる。
(それだと前作のサリーと同じになってしまうわけだが)
これは些細なことのようにみえて、実はこの映画では根源的な問題だ。
最終的に人類は青いナヴィになってしまえばすべてが解決するという解答が見えてしまうからだ。
そこには、パンドラを他者として描き、人類にある根本的な論理の矛盾を突くことなく、乗り越えてしまうからだ。
そして残念なのは、海を侵略するものと戦争を同一視してしまったことだ。
ナヴィと人間の争いは、帝国主義的な近代の論理をもつ人間と、それとは全く異なる論理の世界でいきるナヴィとの争いだった。
そこには今までの歴史では経験したことがなかった論理が存在するからこそ、人間にとっての他者として対峙していた。
しかし、この映画では利用可能な自然をどれだけ食い尽くすかという人間と、自然ととにも生きるべきだという近代以前の人間の生活を対比させただけになっている。
時代が後退してしまったというのはそのためだ。
明らかに捕鯨を意識した男たちが、自然をわずかな利益のためにむさぼろうとする姿が描かれる。
わざわざその船に「日浦」と書いたのは、瞬時であっても日本を意識した皮肉として受け取るべきだろう。
ここにあるのは、野蛮な文明を持つ人間たちと、より客観的で聡明な知性を持つナヴィとの対比なのだ。
わざわざトゥルクンを殺す姿を克明に詳細に、そして劇的に描くのは、戦争と捕鯨がほとんど同一視しているからにほかならない。
この映画はだから、侵略することへの強い警告だけではなく、自然に対するあり方を問う物語でもある。
しかしそれは、そこにある文化性や歴史性を全く無視したものとして描く、一元的な欧米の世界観である。
だからやたらと美しい自然も、たんなる「私たちはこういう自然が美しいと思う」という一方的な美的価値観を押しつけるだけになってしまう。
それは、ほとんど自然を利用しようという発想と同じであり、それが善悪どちらに働くかという点だけなのだ。
エイワの怖さや理不尽さが、前作にましてほとんど見られないのはその端的な例だろう。
(人間に都合の良い自然なら、それは自己愛にすぎない)
私はこの映画をみて、「わざわざパンドラを舞台にする必要はない」という印象を受けた。
こうあってほしいという理想をそのまま形にしたのであれば、それは侵略する側もされる側も同じベクトル(=同じ競技での優劣を争っている)にいる。
そもそも違う競技をしている、という点に、SFとしての面白さがあるはずなのに。
青い人間だからSFっぽくなっているだけで、すべてを黒人に置き換えても物語が通用するなら、正直こんな冗長な物語を作る必然性はない。
日本でアニメばかりが売れるのはちょっと哀しいが、この映画が売れる(=支持される)必然性は特に思い浮かばない。
黒人なら目くじらを立てるのに、青いCGになったらそれが急に忘れられるとしたら、今の欧米の潮流は薄っぺらいと言わざるを得ない。
監督:ジェームズ・キャメロン
世界観の微妙な変更が、決定的な瑕疵となる。
スカイピーブルと呼ばれる人間からの侵略を退けたナヴィたちは慎ましくエイワに見守られながら生活していた。
しかし、人間はこの星を諦めたわけではなかった。
人間による大規模な再侵略が行われて1年後、ジェイク・サリー(サム・ワーシントン)を中心としてナヴィは人類に反抗していた。
押されていた人間達は、マイルズ大佐(スティーヴン・ラング)は記憶と意識をナヴィの体に移植することで復活させ、ナヴィに紛れて惑星を再侵略する計画を実行する。
危機感をもったサリーは、森の民の元を離れ、新しい生活の場所を探す旅に出る。
世界的大ヒットとなった前作「アバター」から13年ほど経ち、続編として再びお披露目となった。
監督は前作に引き続きジェームズ・キャメロンだ。
3D映画として一つの新しい時代を切り開いたこのシリーズは、さらに映像技術を高めて満を持して公開された。
三部作と言われていたのに、いつの間にか五部作にまで膨らんでいるようだ。
もともとは人間だったサリーがナヴィのアバターに記憶と意識を入れ込んだことで、惑星パンドラでも生活できるようにすることが設定だった。
だから、「アバター」なのだ。
このあたりは前作を復習してから見た方がより楽しめるはずだ。
しかし、日本ではあまり話題になっておらず、スマッシュヒットになっていない。
192分というありえない長時間の上映のため、観客動員数も伸びないのだろう。
また、13年という時間の隔たりはファンを待たせるには大きすぎた。
あのとき0歳だった子どもはもう中学生だということだから。
(それでも、それより隔世のある「スラムダンク」のほうは売れているという不思議な国)
映像体験としては映画館で楽しむべき映画ではある。
▼以下はネタバレあり▼
字幕で見に行ったが、3Dでは時間が合わなかった。
公開されている映画館は多いが、結局公開回数が少ないのでどうしても見たい形式では見られない。
盛りだくさんにしたかったのだろうが、いかんせんまず上映時間が長すぎるのはそれだけでマイナスだ。
さて、これだけ映像革新がめざましいのに、まだ映像だけで3時間を引っ張ることができるということ、それだけでこの映画は鑑賞に値すると言える。
映像だけで映画を見せる時代は終わった、と何度も言われているけれども、それでもこの映画は大きな山もない場面でしっかり映像として見せている。
それは本当に監督のイマジネーションのすごさと言えるだろう。
長い上映時間は、この世界観に没頭させるには十分な時間だ。
一つの時代を築いた、一つのファンタジーのあり方を示したと言える。
だが、特筆すべきなのはその点だけで、あとは何も面白くない。
13年前の「アバター」は新しいと感じたのに、続編のこの作品はむしろ時代が後退している。
前作は、自然とのつながりを失ってしまった人間が、惑星パンドラ全体で一つの意識を共有しているエイワとの対峙に野望がくじかれるというテーマだった。
そのエイワ=自然とは、ナヴィの都合の良い自然ではなく、あらゆる事象をそのままに提示する自然だった。
その自然とは、ナヴィにとっても理解しがたい、まして自然とのつながりを失ってしまった人間には障害にしか思えないものものだった。
いわゆる他者としての自然だった。
しかし、この作品ではそのエイワを支配してしまう世界観に変更されている。
微妙な差が、作品全体のテーマや世界観が壊れてしまっている。
わかりやすいのはアバターとなったマイルズ大佐である。
生前の記憶を注入されたマイルズ大佐は好き勝手に、人間のままにナヴィとしてふるまう。
サリーがナヴィとして転生するとき、大仰な儀式を行って一回性の出来事として描かれていたのにもかかわらず、マイルズは他の部下とともに復活してしまう。
タイトルがアバターなので、確かにこの要素は不可欠だったのだが、それが可能なら交換可能なナヴィがいくらでも量産できるということになってしまう。
そうなれば、ナヴィとはどういう存在なのだろう。
人間のクローンを作ることも難しいのに、ナヴィはただの入れ物として乗りこなす物質になってしまう。
記憶や意識を、手の中に収まるデータとして扱われてしまえば、人間としての尊厳やナヴィとしての世界観は、単なる技術や物質的なものになる。
これでは、今私たちが直面している現実と何らかわらない。
エイワは単なる人間が利用できるだけの素材であり、無機質な物質ということになる。
さらにいただけなかったのは、そのナヴィのマイルズが、動物たちを手なずけてしまったところだ。
エイワに抱かれているという尊厳がなければ、動物たちはその乗り手とともにすることはないはずだ。
そうでなければ前作で示されたパンドラの世界観が壊れてしまう。
舞台はパンドラだとしても、結局地球で行われてきた論理が、そのままこの惑星でも行われているに過ぎない。
そこにあるのは、利用可能な自然としてのエイワであり、神聖性が漂白されてしまった利用対象としての自然だ。
ひょっとすれば人類は侵略という野心をもったままエイワと調和を結んでしまうかもしれない。
他者としての自然ではなく、そこには人間の都合の良い自然(=資源)として描かれてしまっている。
だから、むしろアバターとなったマイルズが、その自然の偉大さに気づくという筋にしなければ世界観は保たれない。
依然として人間の論理に染まっているマイルズは、ナヴィとして周りの動植物に受け入れられては世界が壊れる。
(それだと前作のサリーと同じになってしまうわけだが)
これは些細なことのようにみえて、実はこの映画では根源的な問題だ。
最終的に人類は青いナヴィになってしまえばすべてが解決するという解答が見えてしまうからだ。
そこには、パンドラを他者として描き、人類にある根本的な論理の矛盾を突くことなく、乗り越えてしまうからだ。
そして残念なのは、海を侵略するものと戦争を同一視してしまったことだ。
ナヴィと人間の争いは、帝国主義的な近代の論理をもつ人間と、それとは全く異なる論理の世界でいきるナヴィとの争いだった。
そこには今までの歴史では経験したことがなかった論理が存在するからこそ、人間にとっての他者として対峙していた。
しかし、この映画では利用可能な自然をどれだけ食い尽くすかという人間と、自然ととにも生きるべきだという近代以前の人間の生活を対比させただけになっている。
時代が後退してしまったというのはそのためだ。
明らかに捕鯨を意識した男たちが、自然をわずかな利益のためにむさぼろうとする姿が描かれる。
わざわざその船に「日浦」と書いたのは、瞬時であっても日本を意識した皮肉として受け取るべきだろう。
ここにあるのは、野蛮な文明を持つ人間たちと、より客観的で聡明な知性を持つナヴィとの対比なのだ。
わざわざトゥルクンを殺す姿を克明に詳細に、そして劇的に描くのは、戦争と捕鯨がほとんど同一視しているからにほかならない。
この映画はだから、侵略することへの強い警告だけではなく、自然に対するあり方を問う物語でもある。
しかしそれは、そこにある文化性や歴史性を全く無視したものとして描く、一元的な欧米の世界観である。
だからやたらと美しい自然も、たんなる「私たちはこういう自然が美しいと思う」という一方的な美的価値観を押しつけるだけになってしまう。
それは、ほとんど自然を利用しようという発想と同じであり、それが善悪どちらに働くかという点だけなのだ。
エイワの怖さや理不尽さが、前作にましてほとんど見られないのはその端的な例だろう。
(人間に都合の良い自然なら、それは自己愛にすぎない)
私はこの映画をみて、「わざわざパンドラを舞台にする必要はない」という印象を受けた。
こうあってほしいという理想をそのまま形にしたのであれば、それは侵略する側もされる側も同じベクトル(=同じ競技での優劣を争っている)にいる。
そもそも違う競技をしている、という点に、SFとしての面白さがあるはずなのに。
青い人間だからSFっぽくなっているだけで、すべてを黒人に置き換えても物語が通用するなら、正直こんな冗長な物語を作る必然性はない。
日本でアニメばかりが売れるのはちょっと哀しいが、この映画が売れる(=支持される)必然性は特に思い浮かばない。
黒人なら目くじらを立てるのに、青いCGになったらそれが急に忘れられるとしたら、今の欧米の潮流は薄っぺらいと言わざるを得ない。
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