人間は何度か主人公であることを奪われている。
その一つが、心理なるものを奪ったフロイトの分析である。
人間に把握できる精神なるものは実は幻想であり、そのほとんどは自身では把握できない無意識の塊であることをフロイトは明かした。
また、ニーチェは神から愛されたものとして人間を規定することを放棄させ、神は人間が生み出した幻想であることを明かしてしまった。
そして情報社会は人間が労働から生み出す主体的な動物であるという欺瞞を解き明かし、差異を媒介することでしか人間は経済的な価値を生み出すことができないと解き明かされてしまった。
かくして私たち人間は、世界の主人公であることをやめて、技術や経済、システムの補助的な役割を担っているに過ぎないことを自認するようになった。
しかし、ここ最近の様子を見ていると、そもそもの人間であることさえ私たちは剥奪されつつあるように思う。
人間が人間であることを意識できるのは、人間と対峙している時のみである。
極端に言えば、人間であっても人間社会の中で生活しなければ人間になることはできない。
逆に言えば、精巧なAIやロボットが現れて、それが人間と瓜二つで、人間と同じように意志や認識があるとすれば私たちはそれを人間としか認識できない。
とすれば、店員のいない飲食店に入った私は、もはや人間にではないということだ。
私はだからこの「人件費削減のためのオートフォーメーション化」は人間であることを放棄させる根本的な危機ではないかと考えるのだ。
人間扱いされない人間は人間ではない。
そのことの危うさはもっと議論されてよい。
もちろん飲食店の人件費削減は喫緊の問題であることは疑いない。
人口減少に伴い、担い手が足りないことは確かだろう。
だが、私が問題にしたいのはそのことと観点が異なっている。
タッチパネルで注文を入力し、自動販売機で食券を購入し注文が自動的に厨房に伝えられる。
セルフで呼び出され、客が自分で料理を取りに行き、食べ終わったら食器を返す。
ここにはほとんど人と関わることはない。
私は人間として扱われているのではなく、餌を与えられているだけである。
もちろん店員がそこにいても、人間的な交流が飲食店で毎回起こるわけではない。
いや、むしろ人間的なやりとりはこれまでもほとんど排除されていた。
だから、そこには差異はないと言えるのかもしれない。
だが、食券を購入して誰が作ったのか誰を殺したのかわからない食事を与えられるのは、ブロイラー化した鶏とそれほど変わらない。
盲目的で、システマティックで、個であり、孤である。
私たちは人間として扱われることなく、他者から得た命を奪い、取り込む。
食という極めて人間の本質に関わる行為でさえ、私たちは奪われつつある。
奪われた命の源泉を知ることができないというのと同様に、奪った私たちもまた機能のみを抽出されて、それ以外の要素は捨象される。
この先にあるのは、必要最低限、必要不可欠な人間とのやりとりだけである。
人間が人間たらしめている、あらゆる要素が奪われる時、はたして人間は人間でいられるのだろうか。
結果のみを提供され、過程が徹底的に排除された世界で私たちは人間として生きていけるのか。
人件費を削減する理由は、なるほど少子高齢化して人口減少したからに他ならない。
しかし、子どもがいなくなる前に、日本では「人間」がいなくなるほうが先かもしれない。
資本主義的合理と、生きるという営みとの相剋の中に、そっと今日もまた食券が落ちてくる。
その一つが、心理なるものを奪ったフロイトの分析である。
人間に把握できる精神なるものは実は幻想であり、そのほとんどは自身では把握できない無意識の塊であることをフロイトは明かした。
また、ニーチェは神から愛されたものとして人間を規定することを放棄させ、神は人間が生み出した幻想であることを明かしてしまった。
そして情報社会は人間が労働から生み出す主体的な動物であるという欺瞞を解き明かし、差異を媒介することでしか人間は経済的な価値を生み出すことができないと解き明かされてしまった。
かくして私たち人間は、世界の主人公であることをやめて、技術や経済、システムの補助的な役割を担っているに過ぎないことを自認するようになった。
しかし、ここ最近の様子を見ていると、そもそもの人間であることさえ私たちは剥奪されつつあるように思う。
人間が人間であることを意識できるのは、人間と対峙している時のみである。
極端に言えば、人間であっても人間社会の中で生活しなければ人間になることはできない。
逆に言えば、精巧なAIやロボットが現れて、それが人間と瓜二つで、人間と同じように意志や認識があるとすれば私たちはそれを人間としか認識できない。
とすれば、店員のいない飲食店に入った私は、もはや人間にではないということだ。
私はだからこの「人件費削減のためのオートフォーメーション化」は人間であることを放棄させる根本的な危機ではないかと考えるのだ。
人間扱いされない人間は人間ではない。
そのことの危うさはもっと議論されてよい。
もちろん飲食店の人件費削減は喫緊の問題であることは疑いない。
人口減少に伴い、担い手が足りないことは確かだろう。
だが、私が問題にしたいのはそのことと観点が異なっている。
タッチパネルで注文を入力し、自動販売機で食券を購入し注文が自動的に厨房に伝えられる。
セルフで呼び出され、客が自分で料理を取りに行き、食べ終わったら食器を返す。
ここにはほとんど人と関わることはない。
私は人間として扱われているのではなく、餌を与えられているだけである。
もちろん店員がそこにいても、人間的な交流が飲食店で毎回起こるわけではない。
いや、むしろ人間的なやりとりはこれまでもほとんど排除されていた。
だから、そこには差異はないと言えるのかもしれない。
だが、食券を購入して誰が作ったのか誰を殺したのかわからない食事を与えられるのは、ブロイラー化した鶏とそれほど変わらない。
盲目的で、システマティックで、個であり、孤である。
私たちは人間として扱われることなく、他者から得た命を奪い、取り込む。
食という極めて人間の本質に関わる行為でさえ、私たちは奪われつつある。
奪われた命の源泉を知ることができないというのと同様に、奪った私たちもまた機能のみを抽出されて、それ以外の要素は捨象される。
この先にあるのは、必要最低限、必要不可欠な人間とのやりとりだけである。
人間が人間たらしめている、あらゆる要素が奪われる時、はたして人間は人間でいられるのだろうか。
結果のみを提供され、過程が徹底的に排除された世界で私たちは人間として生きていけるのか。
人件費を削減する理由は、なるほど少子高齢化して人口減少したからに他ならない。
しかし、子どもがいなくなる前に、日本では「人間」がいなくなるほうが先かもしれない。
資本主義的合理と、生きるという営みとの相剋の中に、そっと今日もまた食券が落ちてくる。
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