評価点:79点/2006年/アメリカ
監督:メル・ギブソン(「パッション」ほか)
実は予想外の結末がウリ。
ジャガー・パウは、メキシコ南部のジャングルに住むマヤ文明周辺に住む狩人。
ある日、狩りをしていると、森にほかの村の者が現れた。
村を襲われたから新しい場所を探し求めているというのだ。
不安を覚えるジャガーたちは、村に帰ったが、ジャガーたちの村まで襲われてしまう。
捕虜となったジャガーは、いけにえの儀式にかけられてしまう。
メル・ギブソンも、すっかり監督業に専念するようになってしまった。
四本の映画をとっているが、どれも(処女監督作は見ていないんだけど)、一流の映画を撮っていると僕は思う。
少なくとも、彼の言う
「観客を楽しませること」
「観客に何かを教えること」
「観客を一段上の感情まで引き上げること」
という三つはどれもある程度満たしているように思う。
彼はむしろ俳優業よりも、こちらのほうが向いているのかもしれない。
今思えば「サイン」などの映画も、彼に重要な仕事をプレゼントしたのかもしれない。
この「アポカリプト」は全編マヤ語で展開されている。
アメリカでは英字幕で放映されたらしい。
そこまでのリスクを冒しながら描きたかったこととは何なのか。
映画館にまで足を運ぶ価値はある映画だと思う。
▼以下はネタバレあり▼
パンフレットにあった監督のインタビューを読んだ。
最初の出発点は「人間が人間を追う映画」を撮りたいと思ったという。
生身の人間が追い、逃げる映画とはどんなものか。
その設定として不自然でないように考えていくと、思い至ったのが、この映画だというのだ。
人が走るだけの映画で、迫力を出すためにデジタルカメラで撮影したり、動物をCGなしで演出したりと工夫が凝らされている。
監督の意図からいえば、ストーリーを無視しても楽しめる映画になっているはずだ。
一方で、この映画はそういった映像的な迫力だけに終始した映画ではない。
「ブレイブハート」にせよ「パッション」にせよ社会的な視点を持つ映画を撮影してきたメル・ギブソンだけあって、この映画も個と個の争いを描きながら、巨視的で社会的、歴史的視座をもつ映画となっている。
マヤ文明についてほとんど知らない僕にとっては、この映画が本当に歴史的史実に基づいているか、研究結果などを反映したものになっているのか、残念ながら僕には判断できない。
監督自身は研究に基づいた映画だと信じているが、問題はこの映画は研究のためのドキュメンタリーではないということだ。
多くの人がマヤについて知らない者をターゲットとしている映画だということだ。
この映画が史実かどうかを議論しても、あまり意味がない。
というか、マヤ文明なんて、欧米人が興味を持っているとさえ思えない。
映画として問題にすべきは「ある文明がある文明に飲み込まれてしまうことの意味」を描こうとしている、という点にあるだろう。
よって、マヤ文明に基づいていないというつっこみは空虚でしかない。
(専門家や詳しい人はどうしてもつっこみたくなるのは仕方がないけれどね。
知っていたら僕もつっこんでいただろう。)
映画のテーマは「文明が崩壊するときは常に内側からである」というテロップにある。
これはマヤでなければならなかったと言えば、そうではないだろう。
それでもマヤであった理由は、いくつか考えられる。
全編がマヤ語で語られることから、その文明がまだ生きているということ。
人間が人間を追うというより自然との距離が近い文明であること。
そして、欧米人にとってあまり深いなじみのない「知らない」文明であること。
なぜなら、物語で最終的に大きな「ひっくり返し」があるが、これはなじみ深い文明だとひっくり返しきれなくなってしまうからだ。
それについて後述しよう。
映画のテーマがダイレクトに描かれるのは実は映画の最初と最後の数分間だけだ。
それ以外は「個」を描くことに終始している。
つまり「人が人を追う」ということを描くための補完的なシーンということだ。
一つの村が文明に飲み込まれ、「国」化していくというプロセスの中で、しっかりと〈個〉が戦う理由を描いている。
主人公のジャガー・パウの家族構成や森に対する考えなどを、丁寧すぎるほどしっかりと描く。
異文化であるにも拘わらず、しっかりとキャラクターを描き分けることに成功しているのは、前半に彼らの生活ぶりを丁寧に描いているからだ。
そのぶんだけ上映時間が長くなってしまったのは残念だが、それでも映像から受けるパワフルさは、それを補ってあまりある。
ある意味、異文化であるために、ここまで丁寧に描かなければラストへ向けての「追いかけっこ」が迫力ある映像に仕上がらなかったという読みがあったのかもしれない。
前半が村が国家へと飲み込まれていく地方から中央へという流れであるとすれば、後半は完全に〈個〉と〈個〉の戦いになっている。
しかも、それはエディプス・コンプレックスの父親殺しの話へと転換しているところが、この映画の肝だ。
父親を殺された男が、息子を殺された相手に追われる。
滝の下から「この森は俺が父親から受け継いだ森だ」と宣言する。
これは、父親を殺された息子が復讐するぞという宣言に見える。
本当は、父親を殺した相手を克服することで、父親を乗り越えようとする父親殺しの話への転換を意味している。
よって、追う側の父親には実は勝ち目はない。
息子を殺した相手に殺されることで、逆説的に息子を肯定することになるからだ。
敵味方に分けておきながら、実は本当の親子の戦いへと転換してしまうところが、この映画の最大の見所の一つなのだ。
そして敵味方が一体化したときに、冒頭のテロップの「内部」の意味が確定する。
すなわち、この二人(村と国家、地方と中央)が一体化すると言うことは、この両者が敵味方なのではなく、内部にすぎないということだ。
だから、ラストでは外部であるスペインの船が上陸するシーンがあるのだ。
これは、外部からの圧力を意味し、今までの個と個、地方と中央との戦いが、一気に相対化され、観客は巨視的な視座を持たされる。
いわば、顕微鏡でのぞいていた微生物どうしの戦いを、宇宙規模の戦いまで視野が広がってしまうのだ。
もちろん、それも実は内部に過ぎないと言うことを、暗に意味している。
この落差が、実は映画のテーマを示している。
そのテーマを隠すために、それまでの〈個〉と〈個〉をしっかりと描くことをしていたのだと、気づかされるのだ。
だから、このひっくり返しが、この映画の肝であり、見所と言えるのだ。
シャマランの映画にはいつもどんでん返しがあるが、この映画にも、どんでん返しがある。
それまでのマヤの儀式がかわいく思えるのはそのためだ。
あれだけ「恐れるな」などと〈個〉を徹底的に描こうとしていたはずなのに、その内面が一気に拡張するとは、誰も思うまい。
映画を観て鳥肌が立つ経験は何度もがあるが、この映画もハッピー・エンドかバッド・エンディングかを超越した鳥肌が立つ。
この体験ができなかったとしたら、監督の負けだろう。
できたとすれば、完全に監督の思うつぼだということだ。
マヤ文明の描き方が、それまでの村の描き方との粗密の落差がありすぎて、あまりに表層的にしか描写されない。
よって、〈個〉と〈個〉との戦いへの伏線としては弱いし、対等でない。
やはり上映時間がどう考えても長すぎる。
もっとスリムに、適確に描けたはずであることは明白だ。
だが、それを度外視しても、最後の個から全体へという流れは壮大だ。
う~ん、期待していなかっただけに楽しめた。
(2007/6/27執筆)
監督:メル・ギブソン(「パッション」ほか)
実は予想外の結末がウリ。
ジャガー・パウは、メキシコ南部のジャングルに住むマヤ文明周辺に住む狩人。
ある日、狩りをしていると、森にほかの村の者が現れた。
村を襲われたから新しい場所を探し求めているというのだ。
不安を覚えるジャガーたちは、村に帰ったが、ジャガーたちの村まで襲われてしまう。
捕虜となったジャガーは、いけにえの儀式にかけられてしまう。
メル・ギブソンも、すっかり監督業に専念するようになってしまった。
四本の映画をとっているが、どれも(処女監督作は見ていないんだけど)、一流の映画を撮っていると僕は思う。
少なくとも、彼の言う
「観客を楽しませること」
「観客に何かを教えること」
「観客を一段上の感情まで引き上げること」
という三つはどれもある程度満たしているように思う。
彼はむしろ俳優業よりも、こちらのほうが向いているのかもしれない。
今思えば「サイン」などの映画も、彼に重要な仕事をプレゼントしたのかもしれない。
この「アポカリプト」は全編マヤ語で展開されている。
アメリカでは英字幕で放映されたらしい。
そこまでのリスクを冒しながら描きたかったこととは何なのか。
映画館にまで足を運ぶ価値はある映画だと思う。
▼以下はネタバレあり▼
パンフレットにあった監督のインタビューを読んだ。
最初の出発点は「人間が人間を追う映画」を撮りたいと思ったという。
生身の人間が追い、逃げる映画とはどんなものか。
その設定として不自然でないように考えていくと、思い至ったのが、この映画だというのだ。
人が走るだけの映画で、迫力を出すためにデジタルカメラで撮影したり、動物をCGなしで演出したりと工夫が凝らされている。
監督の意図からいえば、ストーリーを無視しても楽しめる映画になっているはずだ。
一方で、この映画はそういった映像的な迫力だけに終始した映画ではない。
「ブレイブハート」にせよ「パッション」にせよ社会的な視点を持つ映画を撮影してきたメル・ギブソンだけあって、この映画も個と個の争いを描きながら、巨視的で社会的、歴史的視座をもつ映画となっている。
マヤ文明についてほとんど知らない僕にとっては、この映画が本当に歴史的史実に基づいているか、研究結果などを反映したものになっているのか、残念ながら僕には判断できない。
監督自身は研究に基づいた映画だと信じているが、問題はこの映画は研究のためのドキュメンタリーではないということだ。
多くの人がマヤについて知らない者をターゲットとしている映画だということだ。
この映画が史実かどうかを議論しても、あまり意味がない。
というか、マヤ文明なんて、欧米人が興味を持っているとさえ思えない。
映画として問題にすべきは「ある文明がある文明に飲み込まれてしまうことの意味」を描こうとしている、という点にあるだろう。
よって、マヤ文明に基づいていないというつっこみは空虚でしかない。
(専門家や詳しい人はどうしてもつっこみたくなるのは仕方がないけれどね。
知っていたら僕もつっこんでいただろう。)
映画のテーマは「文明が崩壊するときは常に内側からである」というテロップにある。
これはマヤでなければならなかったと言えば、そうではないだろう。
それでもマヤであった理由は、いくつか考えられる。
全編がマヤ語で語られることから、その文明がまだ生きているということ。
人間が人間を追うというより自然との距離が近い文明であること。
そして、欧米人にとってあまり深いなじみのない「知らない」文明であること。
なぜなら、物語で最終的に大きな「ひっくり返し」があるが、これはなじみ深い文明だとひっくり返しきれなくなってしまうからだ。
それについて後述しよう。
映画のテーマがダイレクトに描かれるのは実は映画の最初と最後の数分間だけだ。
それ以外は「個」を描くことに終始している。
つまり「人が人を追う」ということを描くための補完的なシーンということだ。
一つの村が文明に飲み込まれ、「国」化していくというプロセスの中で、しっかりと〈個〉が戦う理由を描いている。
主人公のジャガー・パウの家族構成や森に対する考えなどを、丁寧すぎるほどしっかりと描く。
異文化であるにも拘わらず、しっかりとキャラクターを描き分けることに成功しているのは、前半に彼らの生活ぶりを丁寧に描いているからだ。
そのぶんだけ上映時間が長くなってしまったのは残念だが、それでも映像から受けるパワフルさは、それを補ってあまりある。
ある意味、異文化であるために、ここまで丁寧に描かなければラストへ向けての「追いかけっこ」が迫力ある映像に仕上がらなかったという読みがあったのかもしれない。
前半が村が国家へと飲み込まれていく地方から中央へという流れであるとすれば、後半は完全に〈個〉と〈個〉の戦いになっている。
しかも、それはエディプス・コンプレックスの父親殺しの話へと転換しているところが、この映画の肝だ。
父親を殺された男が、息子を殺された相手に追われる。
滝の下から「この森は俺が父親から受け継いだ森だ」と宣言する。
これは、父親を殺された息子が復讐するぞという宣言に見える。
本当は、父親を殺した相手を克服することで、父親を乗り越えようとする父親殺しの話への転換を意味している。
よって、追う側の父親には実は勝ち目はない。
息子を殺した相手に殺されることで、逆説的に息子を肯定することになるからだ。
敵味方に分けておきながら、実は本当の親子の戦いへと転換してしまうところが、この映画の最大の見所の一つなのだ。
そして敵味方が一体化したときに、冒頭のテロップの「内部」の意味が確定する。
すなわち、この二人(村と国家、地方と中央)が一体化すると言うことは、この両者が敵味方なのではなく、内部にすぎないということだ。
だから、ラストでは外部であるスペインの船が上陸するシーンがあるのだ。
これは、外部からの圧力を意味し、今までの個と個、地方と中央との戦いが、一気に相対化され、観客は巨視的な視座を持たされる。
いわば、顕微鏡でのぞいていた微生物どうしの戦いを、宇宙規模の戦いまで視野が広がってしまうのだ。
もちろん、それも実は内部に過ぎないと言うことを、暗に意味している。
この落差が、実は映画のテーマを示している。
そのテーマを隠すために、それまでの〈個〉と〈個〉をしっかりと描くことをしていたのだと、気づかされるのだ。
だから、このひっくり返しが、この映画の肝であり、見所と言えるのだ。
シャマランの映画にはいつもどんでん返しがあるが、この映画にも、どんでん返しがある。
それまでのマヤの儀式がかわいく思えるのはそのためだ。
あれだけ「恐れるな」などと〈個〉を徹底的に描こうとしていたはずなのに、その内面が一気に拡張するとは、誰も思うまい。
映画を観て鳥肌が立つ経験は何度もがあるが、この映画もハッピー・エンドかバッド・エンディングかを超越した鳥肌が立つ。
この体験ができなかったとしたら、監督の負けだろう。
できたとすれば、完全に監督の思うつぼだということだ。
マヤ文明の描き方が、それまでの村の描き方との粗密の落差がありすぎて、あまりに表層的にしか描写されない。
よって、〈個〉と〈個〉との戦いへの伏線としては弱いし、対等でない。
やはり上映時間がどう考えても長すぎる。
もっとスリムに、適確に描けたはずであることは明白だ。
だが、それを度外視しても、最後の個から全体へという流れは壮大だ。
う~ん、期待していなかっただけに楽しめた。
(2007/6/27執筆)
マヤはあんな残酷な民族ではありません。
興味のない人たちにはどうでもいいことは確かですが、中国映画でチベット人を残酷に描く・・・程度の信憑性と思ってください。
近況報告たる出来事がありません。
ただ仕事に追われる日々です。
精神と肉体を壊さないように自衛をはかる毎日です。
>りりさん
NHKの特集で、マヤ文明についての番組をちらりとみました。
高度な天文知識があったという話はありましたが、こんな残虐な描写は確かにありませんでしたね。
描きたかったのは「外部の圧力と内部の崩壊」という普遍的な共同体の亀裂のようなものだったと好意的に解釈しています。
経済の破綻や原発事故、環境問題なんかを見ているとそろそろ全世界規模でその内部からの崩壊がうかがえますね。
そろそろサイバトロンがおそってくるかもしれません……。