評価点:43点/2010年/日本
監督:松山博昭
能弁すぎるギャンブラー。
ファイナルステージを降りる決心をしていた神崎直(戸田恵梨香)の元に、またしてもライアーゲームの案内が届く。
秋山(松田翔太)を救うために、と説得された直は、ファイナルステージのある島へ向かうことになる。
そこにいたのは11人のプレイヤーたちで、それぞれ赤、金、銀のリンゴを投票し、その投票結果を元に賞金が上下するというゲームに参加することになる。
全員が赤を投票すれば全員が一億円儲けられるが、一人でも金か銀を投票すると自動的に赤は一億円負債を抱えることになる。
裏切れば儲けられるが、裏切られると損をする。
人を信じるかどうかを試すゲームに参加者たちはそれぞれの選択を迫られる。
テレビドラマで成功した結果、映画化となるケースが急増している。
その要因は、日本映画でコンスタントに成功するためには、映画ファンの新規獲得よりも、ドラマファンの固定客を映画館に呼び込む方がリスクが低いからだ。
不況なのはテレビ業界や映画業界も同じ。
メディアのあり方が変化している中で、日本の映画業界は苦境に立たされている。
確実に売れるものを、確実に制作し、そして客を呼ぶ。
アメリカも同様の状況にあるが、それでも市場が膨大なため変な映画も制作できる。
日本はそれができない。
仕方がないことは、仕方がないのだ。
この映画はそんな文脈の中で制作、公開された映画の一つである。
当然多くの観客たちはテレビシリーズを見慣れた人々である。
僕は、もちろん、そんな大多数の人ではなく、マイノリティな「完全無予習」の観客として座っていた。
客足は最終回上映とあって、今ひとつ。
僕の帰る足取りも、今ひとつ。
やはり初心者お断りの映画であったことは間違いない。
▼以下はネタバレあり▼
ということで、この批評が参考になる人は少ないかもしれない。
僕としては前日にDVDで観た「トレインスポッティング」のほうが数倍衝撃的だったしおもしろかった。
それはまた後日アップしよう。
それはともかく、僕はこの映画を一本の作品として鑑賞した。
周りで話題になっていたことは知っていたし、本屋で原作マンガが平積みされていたことも知っていた。
だが、手をつけていない。
よって、制作陣としてはアンフェアな状況で鑑賞したことは認めざるを得ない。
映画を観た原作、テレビドラマファンの方々も、僕の批評を見てもしかしたら「それは違う!」とお思いになるかもしれない。
まあ、それは個人の主観としてご了承願いたい。
言い訳はこれくらいにして、話を進めよう。
まず、この映画に感情移入できなかった一つは、誰一人「ファイナルステージ」なるものに勝ち上がってきた手練れのギャンブラーに見えなかったことだ。
ゲームのルールは非常にシンプルなものだ。
中学生でも判る。
小学生はちょっとわからないが。
そして、誰もが解る禁忌は、自分の考えを述べることだ、ということだろう。
多数決で勝者が決まり、そして最終的に多数を選び続けた人間が勝者となるゲームである以上、自分の考えを語ることがいかに危険であるかは、容易に想像がつく。
戸田恵梨香が雄弁に自分の考えを語るのは、物語上必然的であっても、他のプレイヤーが語ることは不自然きわまりない。
話せば話すほど、自分が不利になることは明白だからだ。
例えば早い段階で彼らは徒党を組むことを思いつく。
銀か金かに投票することを、5対6で決するように仕向ける。
だが、考えてみれば、それをどの6人か、ということを明らかにすることは、非常にリスキーであることは明白だ。
たった1票の差で勝者か敗者かが決まるのであれば、最終的に投票する人間が最も有利であるからだ。
この時点で票の読み合いは破綻してしまう。
そして、それを明かすのが早すぎる。
勝者は13回にわたって勝ったものである。
2、3回投票した時点で誰がどっち派であるかを語ってしまっては、徒党を組んでいる意味がない。
それは少数派だった秋山にも言える。
秋山は自分の考えを披露しまくる。
それでも隠し手を持っているから披露するわけだが、そこまでの隠し手を持っているなら、最後まで披露する必要性はない。
特にリップによるトリックは、最後まで言わなくてもよかったはずだ。
Xをあぶり出すためとはいえ、自分の札をすぐに切るのはギャンブラーとしては素直すぎる。
「お前たちがどれに投票したかは俺は見抜けるのだ」という特性は誰かに指摘されるまで明かす必要はなかったはずだ。
また、だましていたことを告白するプレイヤーも愚かすぎる。
なぜ表情を豹変させてまで自分の裏切りや考えを吐露するのか理解できない。
確かに10億円の負債を抱えることになるなら、自分の考えを言うのも無理はない。
だが、1億ほどの負債なら残りのベット(bet)で取り返す可能性は十分に残されている。
それなのに、裏切りが発覚するごとに、表情を変えて自分の考えを洗いざらい告白してしまう。
この勝敗を決めるのは、自分の考えを最後まで読ませないポーカーフェイスにあるはずなのに、である。
それが1億円という大金の勝負だから、というのも抗弁にはならないだろう。
なぜなら、単位がどうであれ、彼らは最高のギャンブラーであるはずだからだ。
直に限らず、全員が素直すぎるのだ。
もちろん、話さないとこのゲームは映画として成り立たない。
それならば、表情や仕草で相手の行動が読めるような別のゲームを設定した方がよかった。
これだけ本音を吐露するならば、もっとラストへの伏線を張り巡らしておくべきだったし、そうでなければ、僕たち観客がゲームから解放されるカタルシスとともに得る「だまされた」という爽快感は得られない。
一投目の秋山の「なるほど」という台詞だけで、銀のリンゴトリックは成立しないし、やられた感は薄い。
それもこれも、全体として彼らの人間性が描けていないせいだ。
能弁に語る彼らは、特定の人間以外は、ほとんどのっぺらぼうだ。
キャラクターの描き分けができていないため、プレイヤー同士のせめぎ合いが見えてこない。
「JOJO」第3部のダービーとのギャンブル合戦のほうが、よほど手に汗握るというものだ。
票の読み合いには、様々な思惑が絡んでくる。
誰がどのタイミングで裏切るのか、誰を巻き込むのか、リスクとリターンをどのように考えるのか。
13回もあるのだから、どの段階で誰を陥れるのか、といった流れを読む必要性もある。
それなのに、キャラクターたちはその場、その場の一人の意見に流されすぎている。
映画という枠の問題もあるが、それ以上に、脚本家の手を、キャラクターたちが離れていない。
よって、人間としての「迷い」が脚本に感じられない。
各キャラクターがせめぎ合っているのようには見えないのだ。
一本のシナリオを、そのまま突き進んでいるような印象を受ける。
だからラストで赤リンゴがそろうのも、「鳥肌が立つ」というような印象を受けない。
そこに向かうように作られているし、1回目の投票によって、それは誰にでも読めてしまう。
読めることがいけないのではない。
ただ、そこに至る過程の中で、一瞬たりともその最初の読みが揺るぎそうもないことが、サスペンスとして評価できないということなのだ。
ゲームを見つめる執行人や、主催者の裏側など、蛇足の描写も目立つ。
彼らの余計な説明により、ほとんどオチが確定してしまう。
僕たちを惑わすどころか、一方向へと導いてしまう。
それさえもすべてが僕たち観客をだます手法であれば、と期待したがそれはなかった。
全体のテンポが完全に映画ではない。
CMが挿入されていても不思議ではないほど、短絡的に観客を引っ張ろうとする。
だから、この映画に乗れなかった人の多くは、「2時間ドラマくらいの作品でもよかったんじゃない?」とつぶやくはずだ。
同じ“ゲーム”なら、残念ながら似たような仮面をかぶっている(?)「SAW」のほうが数倍おもしろい。
監督:松山博昭
能弁すぎるギャンブラー。
ファイナルステージを降りる決心をしていた神崎直(戸田恵梨香)の元に、またしてもライアーゲームの案内が届く。
秋山(松田翔太)を救うために、と説得された直は、ファイナルステージのある島へ向かうことになる。
そこにいたのは11人のプレイヤーたちで、それぞれ赤、金、銀のリンゴを投票し、その投票結果を元に賞金が上下するというゲームに参加することになる。
全員が赤を投票すれば全員が一億円儲けられるが、一人でも金か銀を投票すると自動的に赤は一億円負債を抱えることになる。
裏切れば儲けられるが、裏切られると損をする。
人を信じるかどうかを試すゲームに参加者たちはそれぞれの選択を迫られる。
テレビドラマで成功した結果、映画化となるケースが急増している。
その要因は、日本映画でコンスタントに成功するためには、映画ファンの新規獲得よりも、ドラマファンの固定客を映画館に呼び込む方がリスクが低いからだ。
不況なのはテレビ業界や映画業界も同じ。
メディアのあり方が変化している中で、日本の映画業界は苦境に立たされている。
確実に売れるものを、確実に制作し、そして客を呼ぶ。
アメリカも同様の状況にあるが、それでも市場が膨大なため変な映画も制作できる。
日本はそれができない。
仕方がないことは、仕方がないのだ。
この映画はそんな文脈の中で制作、公開された映画の一つである。
当然多くの観客たちはテレビシリーズを見慣れた人々である。
僕は、もちろん、そんな大多数の人ではなく、マイノリティな「完全無予習」の観客として座っていた。
客足は最終回上映とあって、今ひとつ。
僕の帰る足取りも、今ひとつ。
やはり初心者お断りの映画であったことは間違いない。
▼以下はネタバレあり▼
ということで、この批評が参考になる人は少ないかもしれない。
僕としては前日にDVDで観た「トレインスポッティング」のほうが数倍衝撃的だったしおもしろかった。
それはまた後日アップしよう。
それはともかく、僕はこの映画を一本の作品として鑑賞した。
周りで話題になっていたことは知っていたし、本屋で原作マンガが平積みされていたことも知っていた。
だが、手をつけていない。
よって、制作陣としてはアンフェアな状況で鑑賞したことは認めざるを得ない。
映画を観た原作、テレビドラマファンの方々も、僕の批評を見てもしかしたら「それは違う!」とお思いになるかもしれない。
まあ、それは個人の主観としてご了承願いたい。
言い訳はこれくらいにして、話を進めよう。
まず、この映画に感情移入できなかった一つは、誰一人「ファイナルステージ」なるものに勝ち上がってきた手練れのギャンブラーに見えなかったことだ。
ゲームのルールは非常にシンプルなものだ。
中学生でも判る。
小学生はちょっとわからないが。
そして、誰もが解る禁忌は、自分の考えを述べることだ、ということだろう。
多数決で勝者が決まり、そして最終的に多数を選び続けた人間が勝者となるゲームである以上、自分の考えを語ることがいかに危険であるかは、容易に想像がつく。
戸田恵梨香が雄弁に自分の考えを語るのは、物語上必然的であっても、他のプレイヤーが語ることは不自然きわまりない。
話せば話すほど、自分が不利になることは明白だからだ。
例えば早い段階で彼らは徒党を組むことを思いつく。
銀か金かに投票することを、5対6で決するように仕向ける。
だが、考えてみれば、それをどの6人か、ということを明らかにすることは、非常にリスキーであることは明白だ。
たった1票の差で勝者か敗者かが決まるのであれば、最終的に投票する人間が最も有利であるからだ。
この時点で票の読み合いは破綻してしまう。
そして、それを明かすのが早すぎる。
勝者は13回にわたって勝ったものである。
2、3回投票した時点で誰がどっち派であるかを語ってしまっては、徒党を組んでいる意味がない。
それは少数派だった秋山にも言える。
秋山は自分の考えを披露しまくる。
それでも隠し手を持っているから披露するわけだが、そこまでの隠し手を持っているなら、最後まで披露する必要性はない。
特にリップによるトリックは、最後まで言わなくてもよかったはずだ。
Xをあぶり出すためとはいえ、自分の札をすぐに切るのはギャンブラーとしては素直すぎる。
「お前たちがどれに投票したかは俺は見抜けるのだ」という特性は誰かに指摘されるまで明かす必要はなかったはずだ。
また、だましていたことを告白するプレイヤーも愚かすぎる。
なぜ表情を豹変させてまで自分の裏切りや考えを吐露するのか理解できない。
確かに10億円の負債を抱えることになるなら、自分の考えを言うのも無理はない。
だが、1億ほどの負債なら残りのベット(bet)で取り返す可能性は十分に残されている。
それなのに、裏切りが発覚するごとに、表情を変えて自分の考えを洗いざらい告白してしまう。
この勝敗を決めるのは、自分の考えを最後まで読ませないポーカーフェイスにあるはずなのに、である。
それが1億円という大金の勝負だから、というのも抗弁にはならないだろう。
なぜなら、単位がどうであれ、彼らは最高のギャンブラーであるはずだからだ。
直に限らず、全員が素直すぎるのだ。
もちろん、話さないとこのゲームは映画として成り立たない。
それならば、表情や仕草で相手の行動が読めるような別のゲームを設定した方がよかった。
これだけ本音を吐露するならば、もっとラストへの伏線を張り巡らしておくべきだったし、そうでなければ、僕たち観客がゲームから解放されるカタルシスとともに得る「だまされた」という爽快感は得られない。
一投目の秋山の「なるほど」という台詞だけで、銀のリンゴトリックは成立しないし、やられた感は薄い。
それもこれも、全体として彼らの人間性が描けていないせいだ。
能弁に語る彼らは、特定の人間以外は、ほとんどのっぺらぼうだ。
キャラクターの描き分けができていないため、プレイヤー同士のせめぎ合いが見えてこない。
「JOJO」第3部のダービーとのギャンブル合戦のほうが、よほど手に汗握るというものだ。
票の読み合いには、様々な思惑が絡んでくる。
誰がどのタイミングで裏切るのか、誰を巻き込むのか、リスクとリターンをどのように考えるのか。
13回もあるのだから、どの段階で誰を陥れるのか、といった流れを読む必要性もある。
それなのに、キャラクターたちはその場、その場の一人の意見に流されすぎている。
映画という枠の問題もあるが、それ以上に、脚本家の手を、キャラクターたちが離れていない。
よって、人間としての「迷い」が脚本に感じられない。
各キャラクターがせめぎ合っているのようには見えないのだ。
一本のシナリオを、そのまま突き進んでいるような印象を受ける。
だからラストで赤リンゴがそろうのも、「鳥肌が立つ」というような印象を受けない。
そこに向かうように作られているし、1回目の投票によって、それは誰にでも読めてしまう。
読めることがいけないのではない。
ただ、そこに至る過程の中で、一瞬たりともその最初の読みが揺るぎそうもないことが、サスペンスとして評価できないということなのだ。
ゲームを見つめる執行人や、主催者の裏側など、蛇足の描写も目立つ。
彼らの余計な説明により、ほとんどオチが確定してしまう。
僕たちを惑わすどころか、一方向へと導いてしまう。
それさえもすべてが僕たち観客をだます手法であれば、と期待したがそれはなかった。
全体のテンポが完全に映画ではない。
CMが挿入されていても不思議ではないほど、短絡的に観客を引っ張ろうとする。
だから、この映画に乗れなかった人の多くは、「2時間ドラマくらいの作品でもよかったんじゃない?」とつぶやくはずだ。
同じ“ゲーム”なら、残念ながら似たような仮面をかぶっている(?)「SAW」のほうが数倍おもしろい。
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