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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

〈装置〉としての実話 その3

2010-02-23 22:46:47 | 表現を考える

では、人は何によって感動を示すのだろうか。
これは新たな問いになる。

僕はここで、一つの考えを提出したい。
それは、「事実」ということばと、「真実」ということばの違いだ。
「事実」は言ってみれば、実際に起こったこと、客観的に(それもありえないと言えばありえないのだが)、とりだせるもの、ことを指す。
「真実」とは、それが人の心に映ったときの、もの、ことを指す。
つまり、人は「事実」を「真実」として捉えるということだ。

そう考えたとき、映画の中に「事実」はない。
映画の作り手が得た「真実」を元に、映画という表現媒体に載せるのである。

そのために必要になるのは、ストーリーの大枠が「事実」かどうかではなく、その物語に「説得力」があるかどうかである。
「説得」という言い方には幅がある。
ここで言いたい「説得力」は、単に、相手を言い負かしたり、自分の話を納得させるという意味ではない。
もっと広く、自分の物語(ここでは映画でいいが)が「真実」を描いているのだ
という確度を示す、「説得力」である。
ことばの世界では、それはレトリック(修辞法)と呼ばれる問題である。

僕たちが映画を観ていて、この映像は明らかにCGで面白くない、とか、もっとCGに力を入れて、リアルに作れよ、とか、いまどきそんな古くさい映像ではだれも納得しないよ、とか、言うとき、それは「リアル」=「事実」を問題にしているのではないのだ。
実はそれは、「映像に説得力があるか」を問題にしているのだ。

僕たち人間は、あらゆる方法で表現しているが、その表現はおおよそ「あるものごとを伝えたい」という衝動からくる。
勿論それが確固としている場合もあれば、表現者じしんも不明確な場合もあり、さらに、自分の意図したことと違うふうに理解されたりもする。
だが、表現目的・表現意図は常に理論上存在すると考えられる。
その表現目的・意図を達成するためには、相手に自分の物語(考え)を理解し、納得してもらわねばならない。

例えば、「ここは砂浜だ」という設定なのに、都会のど真ん中でそれを撮影しても説得力がない。
だれもが「そこは都会だ」とツッコミをいれてしまうだろう。
およそそんなことは考えにくいが、それで物語が進行してしまったとしたら、おそらく話どころではないだろう。
違和感のかたまりになり、そのような映画が良い映画として評価されることは難しい。

だから映画監督たちは砂浜までロケーション撮影を行ったり、セットに砂浜を形成したり、あるいはCGで重ねて撮ったりするのだ。
CGが発達した昨今では、より説得力あるように、綿密に撮影されるというだけの話だ。
決してそれが「事実」だからではないし、「本当の砂浜」だからではない。
極端な話、そこが本当に砂浜であっても、砂浜に見えない場所を撮影してしまうと説得力に欠けてしまうのだ。
そもそも観客たちにとって、映像が「「現実」っぽい」ものであれば、それでよいということになる。

だから僕たちがよく使う言葉「リアル」というのは、「事実」や「本当」を意味しているのではない。
それは「説得力がある」というシニフィエ(意味内容)を表しているのだ。

もちろんそれは映像だけではない。
役者も、音楽も、脚本も、すべてがその説得力に直結している。
表現目的・意図を達成するために適切な説得力を持っていなければ、良い映画とは言えず、説得力のない映画に人は、当然感動したりしないのだ。

この評論のタイトルは「実話」だった。
映画や小説などに「この話は……」という一文がある理由も同じである。
先に「実話だと表明するのはレトリックだ」と述べたのは、そういう意味だったのだ。

表現の中で「実話だ」と表示するのは、自分の話す物語に説得力を生み出したいために他ならない。
そして「実話だ」と物語の中で定着させることにより、物語全体が「現実」のものへと組み込まれる。
「実話」であると表明することは、――それが実際に「現実」の話かどうかは別にして――、物語が「実話」になるように仕向ける〈装置〉に他ならないのだ。

すべては「説得力」のためである。

人はどこまでも説得力を求める。
「リアル」を追求する心を止めることはしないだろう。
なぜなら、「リアル」であればあるほど、自分たちに切実な問題だと感じ、感情移入して物語を享受するからだ。
そして「リアル」であると、観客ひとりひとりの中で確信できたとき、大きな感動を生み出すのである。

僕が、あるいは誰かが、この映画は面白い、あるいは面白くないと言うとき、それは多くの場合、「説得力に欠ける」と言いかえることができる。
映画を観るとき「実話」かどうかで判断するのではなく、映画の中身そのもので判断して欲しいというのは、それが理由である。

(007/7/31執筆)
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