評価点:50点/2008年/アメリカ
監督:オーレン・ペリ
いかにして売れたか、という物語を体験する物語。
ミカとケイティは部屋で起こる怪現象について調査、証明するために、ビデオカメラを買った。
給料の半分を費やしたというカメラで自分の部屋を撮りはじめた彼らは、夜中に起こる怪現象に巻き込まれていく…。
アメリカでわずか1万5千ドルという少額の制作費で、莫大な興行収入を記録したという話題作だ。
「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」も似たような作品として話題になったことは記憶の片隅にある人も多いだろう。
スピルバーグに売り込んで、絶賛されたという制作秘話も、もはや有名になってしまった。
オカルトがそもそも好きになれない、怖くない僕としては、なぜこんな映画を観に行ったのかといわれるかもしれないが、時間があわなかったので、とりあえず観ることにした。
今年これが初めての劇場鑑賞映画となってしまった。
滑り出しとしては心許ない作品ではある。
あまりおすすめはできない。
特にオカルトで恐がれない人は、観に行く価値はないだろう。
映画関係者の人、すみません。
▼以下はネタバレあり▼
「ブレアウィッチ」でも同様のことを感じたが、この物語は入れ子型構造をもつ物語としてでしか体験できない。
たとえば、この映画がもしレンタルビデオ屋で、借りたDVDに間違って違う映画が入っていて、それを知らずに観た中身が「パラノーマル・アクティビティ」のような作品であれば、きっとおもしろかっただろう。
だが、アメリカで話題になり、かつ、撮影に携わった人間たちがすべて健在であることをすでに知っている日本の観客は、この内容がリアルであるとは考えない。
本当でないことを本当であるかのように撮った、ということを知りながら観るこうしたドキュメンタリータッチの映画は、物語そのものを体験することはむずかしい。
僕たちが体験するのは、この映画がいかに話題をさらったかという点であり、いかに本物っぽく撮ったかというその制作秘話に過ぎない。
ここにはリアルとフィクションの逆説的な関係が、問題として横たわっている。
普通、どんな映画もフィクションである。
それは議論の余地はない。
いや、すでにそれは議論の的として扱っているので、そちらを読んでほしい。
表現である以上フィクションであることを免れないので、僕たち観客はそれを知りながら、なおもリアルだと感じて感情移入する。
「ダークナイト」なんていう荒唐無稽な話を、誰も事実として起こった物語だとは思っていない。
だが、涙したり、感動したり、緊張したり、興奮したりする。
それは僕たちが、映像作品を作った作り手(制作者)の存在を感じさせずに物語に没頭するからだ。
文学で言うなら、語り手の存在を感じないので、物語を体験しやすくなる。
それを「描写」だと呼んだ人もいる。
対して、語り手が全面に出てきて解説するような物語も存在する。
たとえば、「ショーシャンクの空に」などは、語り手が全面に登場する。
そうなると、語り手が語る時空間と、語り手に語られる物語の時空間とで祖語が生まれる。
語り手のナレーション(=語り)が入ると、物語において語る時空間が重要視されるべきだと言うことは他の映画でもさんざん述べたはずだ。
語る時間と語られる時間との間隙に、僕たちは物語のテーマを見いだそうとする。
「めぐりあう時間たち」などがいい例だ。
この映画も同じ事が言える。
すでにこの物語が売れてしまっているという現実を知っている僕たち日本の観客は、この映画が巧妙にリアリティを生み出したフィクションであることを知っている。
だから、いかにリアリティを感じさせるかという点を追求した映画だということを知りながら物語を体験する。
リアリティある映像であっても、それはやはり作られた映像=語られた物語にすぎない。
よって、僕たちがこの映画を楽しむ余地は、この映画がいかに低予算で作られたか、いかに多くに人に指示されるようになったかという点を観ることになる。
そして、この映画は実によく巧妙に撮られている。
冒頭の自己紹介や撮影動機に始まり、他者である博士を呼び、彼に「手に負えない」といわせ、そしてクライマックスに導かれていく。
次第に明確になる「悪意」が緩急上手く計算されて描かれる。
それはまさに計算されたリアルであり、起こっている超常現象そのものよりも、それをいかにリアリティあるかのように撮ろうとしている態度が見え隠れしてしまう。
よって、全く感情移入できなくなってしまう。
パンフレットが秀逸だ。
パンフレットの半分以上は、この映画がいかに話題になっていったのかを解説した、映画紹介の紹介みたいな妙な内容になっている。
なぜか。
それ以外に僕たちが楽しめる余地はないからだ。
高校生1000円キャンペーンを開催中! とポスターがあった。
このキャンペーンの焦りがこの映画の全てだ。
例え20代にそれを呼びかけても話題にもならないし、観てもくれないだろう。
「高校生くらいなら気軽に来て、ちょっと怖がってもらって帰ってもらおうか」という安易で、消極的な配給会社の意図が透けて見える。
正直、このパンフレットなら600円は高すぎるし、この程度の内容の映画なら1000円でも高すぎる。
この映画を象徴するようなパンフレットである。
これだけ話題になってしまったこの映画に、もはや鑑賞する余地はない。
ずっと先の未来、誰もこの映画を紹介しなくなって、そのときの高校生が知らずに借りると、ちょっと内輪でブームになるかも知れない。
その程度の映画だ。
監督:オーレン・ペリ
いかにして売れたか、という物語を体験する物語。
ミカとケイティは部屋で起こる怪現象について調査、証明するために、ビデオカメラを買った。
給料の半分を費やしたというカメラで自分の部屋を撮りはじめた彼らは、夜中に起こる怪現象に巻き込まれていく…。
アメリカでわずか1万5千ドルという少額の制作費で、莫大な興行収入を記録したという話題作だ。
「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」も似たような作品として話題になったことは記憶の片隅にある人も多いだろう。
スピルバーグに売り込んで、絶賛されたという制作秘話も、もはや有名になってしまった。
オカルトがそもそも好きになれない、怖くない僕としては、なぜこんな映画を観に行ったのかといわれるかもしれないが、時間があわなかったので、とりあえず観ることにした。
今年これが初めての劇場鑑賞映画となってしまった。
滑り出しとしては心許ない作品ではある。
あまりおすすめはできない。
特にオカルトで恐がれない人は、観に行く価値はないだろう。
映画関係者の人、すみません。
▼以下はネタバレあり▼
「ブレアウィッチ」でも同様のことを感じたが、この物語は入れ子型構造をもつ物語としてでしか体験できない。
たとえば、この映画がもしレンタルビデオ屋で、借りたDVDに間違って違う映画が入っていて、それを知らずに観た中身が「パラノーマル・アクティビティ」のような作品であれば、きっとおもしろかっただろう。
だが、アメリカで話題になり、かつ、撮影に携わった人間たちがすべて健在であることをすでに知っている日本の観客は、この内容がリアルであるとは考えない。
本当でないことを本当であるかのように撮った、ということを知りながら観るこうしたドキュメンタリータッチの映画は、物語そのものを体験することはむずかしい。
僕たちが体験するのは、この映画がいかに話題をさらったかという点であり、いかに本物っぽく撮ったかというその制作秘話に過ぎない。
ここにはリアルとフィクションの逆説的な関係が、問題として横たわっている。
普通、どんな映画もフィクションである。
それは議論の余地はない。
いや、すでにそれは議論の的として扱っているので、そちらを読んでほしい。
表現である以上フィクションであることを免れないので、僕たち観客はそれを知りながら、なおもリアルだと感じて感情移入する。
「ダークナイト」なんていう荒唐無稽な話を、誰も事実として起こった物語だとは思っていない。
だが、涙したり、感動したり、緊張したり、興奮したりする。
それは僕たちが、映像作品を作った作り手(制作者)の存在を感じさせずに物語に没頭するからだ。
文学で言うなら、語り手の存在を感じないので、物語を体験しやすくなる。
それを「描写」だと呼んだ人もいる。
対して、語り手が全面に出てきて解説するような物語も存在する。
たとえば、「ショーシャンクの空に」などは、語り手が全面に登場する。
そうなると、語り手が語る時空間と、語り手に語られる物語の時空間とで祖語が生まれる。
語り手のナレーション(=語り)が入ると、物語において語る時空間が重要視されるべきだと言うことは他の映画でもさんざん述べたはずだ。
語る時間と語られる時間との間隙に、僕たちは物語のテーマを見いだそうとする。
「めぐりあう時間たち」などがいい例だ。
この映画も同じ事が言える。
すでにこの物語が売れてしまっているという現実を知っている僕たち日本の観客は、この映画が巧妙にリアリティを生み出したフィクションであることを知っている。
だから、いかにリアリティを感じさせるかという点を追求した映画だということを知りながら物語を体験する。
リアリティある映像であっても、それはやはり作られた映像=語られた物語にすぎない。
よって、僕たちがこの映画を楽しむ余地は、この映画がいかに低予算で作られたか、いかに多くに人に指示されるようになったかという点を観ることになる。
そして、この映画は実によく巧妙に撮られている。
冒頭の自己紹介や撮影動機に始まり、他者である博士を呼び、彼に「手に負えない」といわせ、そしてクライマックスに導かれていく。
次第に明確になる「悪意」が緩急上手く計算されて描かれる。
それはまさに計算されたリアルであり、起こっている超常現象そのものよりも、それをいかにリアリティあるかのように撮ろうとしている態度が見え隠れしてしまう。
よって、全く感情移入できなくなってしまう。
パンフレットが秀逸だ。
パンフレットの半分以上は、この映画がいかに話題になっていったのかを解説した、映画紹介の紹介みたいな妙な内容になっている。
なぜか。
それ以外に僕たちが楽しめる余地はないからだ。
高校生1000円キャンペーンを開催中! とポスターがあった。
このキャンペーンの焦りがこの映画の全てだ。
例え20代にそれを呼びかけても話題にもならないし、観てもくれないだろう。
「高校生くらいなら気軽に来て、ちょっと怖がってもらって帰ってもらおうか」という安易で、消極的な配給会社の意図が透けて見える。
正直、このパンフレットなら600円は高すぎるし、この程度の内容の映画なら1000円でも高すぎる。
この映画を象徴するようなパンフレットである。
これだけ話題になってしまったこの映画に、もはや鑑賞する余地はない。
ずっと先の未来、誰もこの映画を紹介しなくなって、そのときの高校生が知らずに借りると、ちょっと内輪でブームになるかも知れない。
その程度の映画だ。
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