secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

新劇場版エヴァンゲリオンの考察 その1

2021-07-12 19:35:01 | 表現を考える
この文章は新劇場版のエヴァンゲリオンの一連の作品についてのものです。
4作品のネタバレ前提としていますので、未見の方はご注意ください。
未見の方がこのタイトルに惹かれるかどうかは不透明ですが。

とはいうものの、テレビシリーズの影を踏んでいることは確かですが、基本的にはテレビシリーズと切り離して新劇場版の4作品のみをその対象としています。
私自身もキレイに分離できているとは言い切れないので、そこはご容赦いただきたいと思います。

また、各メディアで明かされる制作秘話のようなものはほとんど仕入れずに書いています。
他人の分析や考察も読んでいません。
ここに示す以外にも、この一連の作品には謎や読解すべき記号に満ちあふれています。
ですが、私の一定の読み、ということで書いてみました。

温かい目で、「こういう読み方もあるいは可能かもしれない」程度の眼差しで、よろしくお願いします。


●〈他者〉としての使徒

はじめに、エヴァにおいての使徒とは何か、ということを考えていきたい。
使徒とはどういう存在なのか、ほとんど説明がない。
テレビ版よりもさらにそのあたりがそぎ落とされている。
ただ、使徒とネルフ本部にあるセントラルドグマの奥深くに眠るアダム(リリス?)と引き合わせることでサードインパクトが起こる、ということは明確に説明されている。
が、それとて本当のことだったのかミサトをはじめとしたネルフの職員に伝えられていた建前だったのかは分からない。

使徒のその特徴は、
突然やって襲ってくる
なぜ襲ってくるのかその目的は不明(少なくとも説明はされない)
時にエヴァが暴走して相手を仕留める
コアを擁しており、コアの破壊が使徒の殲滅となる

私は当初からこの存在がいきなり自分に襲ってくる〈他者〉のメタファーであると考えていた。
シンジは自分と現実世界との交渉を要求される年齢である14歳に達している。
この年齢はもちろん個人差があるにしても、〈他者〉を強く意識させられる年齢である。
彼は自分という世界から無理やり引き裂かれるもう一つの存在〈他者〉=使徒に出会う。

使徒は何故襲ってくるのかわからない。
「そういうものである」という意味のわからないものを押しつけてくるのが、人間にとって初めて出会う〈他者〉ではないのか。
そのあり方は個人で大きく異なる。
いじめられた経験がある人なら、いじめてくる相手だろうし、挫折を味わわせる相手が教師であればそれはその教師だろう。
とにかく自分が自分ままに置くことを許さない、変革をもたらすものとして人間の成長(=社会化)に欠かせないものが〈他者〉である。

シンジはエヴァに乗り、意味も分からず他者を排除していくことで成長していく。
自分を守るためには、戦って相手を倒す以外に方法はない。
それはまさに、使徒であり〈他者〉そのものではないか。


●仕組まれた子ども達とのダイアローグ

では、仕組まれた子ども達、すなわちエヴァンゲリオンのパイロットとはどういう存在なのか。
「シン劇場版」まで鑑賞すれば、この一連の最初の三作品はパイロット同士のダイアローグ(対話)であったことに気づかされる。
すなわち、
序 綾波レイ
破 アスカ
Q 渚カヲル
というそれぞれのチルドレンたちと、シンジが深い対話を行うべく展開される。
そして、それぞれのパイロット開放することが「シン劇場版」で完遂される。
すなわちその対話の相手は、碇ゲンドウその人である。

彼らはもう一人のシンジとしての影の役割を与えられている。
すなわち、綾波レイは母親の影であり、アスカは虚栄心や周りからの期待に応えようとする自分であり、カヲルは等身大として父親が投影された自分である。

アスカのエヴァに乗ることで自分を褒めてもらいたかった、という感情は幼少期によくある感情で、それははっきり言えば非常に稚拙な感情だ。
だが、それは誰にでもある。
小学校に行ったとき自分が誰かに認めてもらいたいという感情は恐らく多く人が持つものだろう。
なぜ小学校か。
成績という目に見える指標を、しかも一斉授業という形で競争させられ始めるのが小学校であるからだ。

序・破・Qそれぞれがもう一人の自分としての人物像として、対話する展開であった。
だから「破」で残酷な仕打ちを受けるのは、テレビ版とは違ってアスカでなければならなかった。
シンジはアスカの幼稚な思い上がった虚栄心を使徒として倒すことが、彼の成長には不可欠だった。
当たり前だ。
いつまでも自分の虚栄心や褒めてもらいたいという承認欲求だけで生きていくことはできないからだ。

ラストの反対側のホームでは、ユイを彷彿とさせるレイと、ゲンドウの影であるカヲルが一緒にいる。
ゲンドウとユイはそれぞれカヲルとレイをシンジの等身大に収めることで、シンジと対話する対象として描かれることになる。
彼らはそれぞれ庇護されたい自分と、自己利益を追求する(=自分を救いたい)自分という原始的な欲求を象徴している。
彼らと対話すること、それが序・破・Qで描かれていた物語であったのだ。
(渚カヲルは加持リョウジから「司令」と呼ばれていることから碇ゲンドウのもう一人の側面であることがうかがえる。
始まりと終わりの使徒、とあったように最初の他者でありそして最後の乗り越えるべき他者としての父親という記号が付されている。
そう考えるとニアサードインパクトで綾波(母親)を助けようとしたシンジを寸前でカヲル(父親)が止めるというのはよくできた展開だった)

しかし、ここまで考えると、一人だけ浮いている登場人物がいる。
それがマリである。
マリは何者なのか。
私はこの「浮いている」という点が非常に重要なのではないか、と考えている。
すなわち、この描かれていない二人のやりとりは、「シン劇場版」の「終劇」の後にこそスタートする物語だからだ。
エヴァに乗ることを卒業できたシンジは、エヴァに乗らずに〈他者〉と対話することができるようになる。
もう一人の自分であった、レイ、アスカ、カヲルを乗り越えて、マリと出会う。
マリとのダイアローグ、すなわち対話は、あの駅を飛び出した先にある。

このエヴァンゲリオンという物語は、「シンジがエヴァンゲリオンを降りる」物語ということだ。

マリの名前を冬月は「マリア」と呼ぶ。
それはイエスを産んだ母親を容易に意識させる。
すなわち、マリは母親になることが示唆されている。
シンジはマリと対話の果てに、新しい物語を紡ぐということだ。
だからタイトルには、繰り返しを示す記号が付けられている。
つまり、シンジとマリが次に父親と母親になり、その子は再びエヴァンゲリオンに乗る物語が繰り返されるのだ。

ここにあるのはエヴァンゲリオンという物語が何度も繰り返して起こってきた、普遍性の物語である、という庵野の自負だろう。
テレビ版から新たにもう一度語り直した、ということが何よりの証左である。
物語は繰り返されてきたし、そして今後も繰り返されていく。
この4作品に描かれた物語は、通過儀礼としての成長譚そのものだからだ。


その2(後半)に続く

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ゴジラVSコング | トップ | 新劇場版エヴァンゲリオンの... »

コメントを投稿

表現を考える」カテゴリの最新記事