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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ターミナル

2009-02-01 21:46:38 | 映画(た)
評価点:67点/2004年/アメリカ

監督:スティーブン・スピルバーグ

「竜頭蛇尾」の映画。

東ヨーロッパのクラコウジアからアメリカ・ニューヨークに降り立った、ビクター・ナボルスキー(トム・ハンクス)は、パスポートを見せたとたん、いきなり警備室に連れて行かれた。
言葉が通じないビクターに対して、ディクソン警備主任(スタンリー・トゥッチ)は、「祖国がクーデターが起こって無政府状態になったので、パスポートを発行できない」と必死に説明する。
一向に理解できないビクターは、空港ターミナルから一歩も出られないという、「法の隙間」でパスポートが下りるまで待ち続けることになる。

「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」で組んだ、トム・ハンクスとスティーブン・スピルバーグが、再び主演と監督で映画を撮った。
それに加えて、キャサリン・ゼタ・ジョーンズがヒロイン役を演じる。
日本で数多く公開される中でも、今冬(2004-2005)の目玉の映画の一つであると言える。

安定して楽しめる映画を作り続けるスピルバーグは、映画職人であり、本当にエンターテイメントを理解している、
数少ない人物であると思える。本作も、安定感抜群の展開とユーモアで、観客をグイグイ引き込んでいく。
さらにトム・ハンクスの好演によって、空港内部だけの映画でありながら、最後まで飽きさせない映画となっている。
ちなみに、舞台となったターミナルは、すべてセットで、まるまるこの映画のために組み立てたものだそうだ。
さすがハリウッド、さすがスピルバーグである。
 
▼以下はネタバレあり▼

この映画のうまさの一つに、視点というファクターがある。
物語の大半が、ニューヨークの空港の中で展開されている。
その模様は、すべてビクターという一個の人間からの視点に限定されている。
それが象徴的にあらわれているのが、空港を外側から眺めるカメラアングルが一切ないことである。
これは、ニューヨークに実在するJFK空港が、外側から撮らないでくれ、と言ったのかもしれないが、
恐らくスピルバーグは、計算して撮らなかったのであろう。
また、ターミナルから眺めた風景や情報(テレビ)などは見せるが、それ以外の情報は全く見せない。
それでも人の動きや心理、外の状況が、よく見える。
空港のターミナルという人々が往来する場所の特性を、きちんと理解して撮られているのである。

また、空港で働く人々の設定も、かなりうまい。
ニューヨークという、アメリカでもっとも多民族が集まる都市の空港だけあり、アジア人、白人、黒人など様々な従業員が働く。
インド人のグプタのような、後ろめたい過去をもった人物も登場する。
単なる都市の空港というだけではなく、正に「世界」がそこではひしめき合っているのである。

だが、気になるのは、敵を具体的に仮構してしまったことだ。
ビクターが陥った危機に対して、一人だけが躍起になって彼の行く手を阻もうとする。
空港の警備主任のディクソンである。
長年主任を目指してきたディクソンは、ちょうど上司が引退することを聞き、不安要素となりうる、ビクターを何とか空港から追い出そうとする。
そのやりかたが余りにオバカなために、そこで笑いうまれることも確かだ。
しかし、彼の内面が大して立体的に提示されないので、主要人物の中で、一人だけ感情移入できない人物になってしまっている。
なぜそこまでビクターにこだわるのか、という点が弱い。

ドジで全てが裏目に出ることで、かわいらしさや間抜けさが見えて、面白いキャラクターではある。
しかし、それだけに、最後の最後まで改心しないのは、感心できない(最後は結局あきらめただけでディクソン自身に変化はない)。
敵であることを明確にしたいなら、彼を改心させるように描けば、ラストのカタルシスが倍増しただろう。
それでこそ、ビクターの人間性のすごさがあらわれるのであり、敵を仮構する物語的な、映画的な意味であったはずだ。
それを、ただ笑いをとるだけのキャラクターに仕立て上げてしまったのは、スピルバーグらしくない。

キャサリン・ゼタ・ジョーンズとのやりとりはうまい。
動き回っている女性が、実は待ち続けるという、皮肉な人生を背負っているというギャップが、人物を立体的に見せている。
トム・ハンクスだけで映画を引っ張っているような映画だが、その中でも、彼女がスパイスをつけることで、「待つ」という物語が、平坦なものではなく、「人生を考えさせる」という深く大きい問題をはらむようになっているのだ。

観客の中には、なぜ二人がくっつかないんだ!
なぜいきなり別れるといった相手が、ヨリを戻すんだ!
と疑問に思った人が居たかもしれない。
だが、僕はこれでよかったのだろうとおもう。

例えば、アメリアとビクターが結ばれてしまうと、かなり微妙な問題が発生する。
アメリアは仕事をやめるのか。
続けるとすれば、ビクターは彼女を自宅で待つのか。
アメリカ人である彼女が、クラコウジアで住むのか。
そうした問題をすっきりさせるためには、ラブ・ストーリーとしての伏線や設定を早い段階から入れていく必要がある。
それでは、本作のテーマ性とは違ってしまう。
それならいっそ結ばれない方が、話は分かりやすく、話のリアリティは保たれる。

また、一端別れを切り出したにも関わらず、ヨリを戻したのは、アメリカの離婚というシステムが関係している、と考えられる。
例えば、アメリアと不倫しているということが、離婚原因であるとすれば、男は多額の賠償金を払うことになる。
金持ちである彼にとって、それは致命的なものだ。
それならば、一端別れを切り出して(本当に別れて)、離婚理由に、彼の不倫ではないほかの原因を挙げることで、ある程度キレイに(支払う金額を少なくして)別れられるのだ。
アメリカの事情に詳しくないので、推測の域は出ないが、おそらくそうだろう。

この映画が面白くないな、と感じたとすれば、問題はアメリアとビクターの恋が破局したからではない。
恋の一つでも成就しないと、映画として「終わらない」からだ。

ビクターは空港の人たちの助けもあって、ついに父親との「約束」を果たす。
そして「家に帰ろう」と言ってエンディングを迎える。
だが、これではあまりにもカタルシスに欠ける。
「ああ終わった」という開放感が得られない。
なぜなら、観客的には解決した問題が小さすぎるからだ。

アメリアとの恋は破局。
敵であるディクソンを変えることもない。
空港に出られたと言っても、あれだけ引っ張っていた父親との「約束」は、ジャズのサックス演奏者のサインを貰う、という非常にささやかなもの。
それが達成されたところで、観客は感情移入しにくい。

「祖国」と「父親」という記号が一致しているところに、彼のアイデンティティや誇りといったものがメタファーになっている。
彼は祖国が平和になりパスポートを待っていたのではない。
父親というもっと具体的なアイデンティティを守るために、あるいはそれを貫くために、彼はターミナルで待っていたのだ。
「ターミナル」という映画の主題を端的に言うなら、その「祖国」と「父親」というところにある。
多種多様な国と人間が行きかう場所で、「祖国」や「家族」という、根源的なテーマを見出したのは、さすがスピルバーグである。
「ヤギの薬」という中盤の見せ場は、言うまでもなくこのテーマを浮かび上がらせるものとなっている。
「約束」を背負うビクターは、どうしてもあの男には、父親を助けるために、薬をもってカナダに言ってもらいたかったのだ。
グプタが故郷へ帰るというシーンも、そうしたテーマにに重なっているところがあるだろう。

しかし、それが分かっていたとしても、感動は薄い。
おそらくそれは、それまでのベタなユーモアや、丁寧な人間描写が、観客に否応なくオチへの期待を膨らまさせるからであろう。

終盤までの展開が立派な竜頭であるからこそ、素朴でじんわりとしたオチが蛇尾に見えてしまう。
もったいない映画である。

(2005/1/29執筆)

日本人にもリアル「ターミナル」がいるらしい。
メキシコかどこかでずっと空港に住む男が前に話題になっていた。
ビザが切れるまではいるらしいが、その経験を元に本でも出して、売れたりしたらちょっといやだなあ。
そういう輩が増えて、変なことや話題性のある、しかも「手軽に」できることをネタにメディアに取り上げられることに悦を感じる人が、日本にはたくさん移送だから。

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