評価点:88点/2023年/アメリカ/141分
監督:ヨルゴス・ランティモス
彼女に欠落しているもの。私たちに欠落しているもの。
外科医で全身傷だらけの男、ゴッドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)は、不思議な女性を自宅で育てていた。
医学会でゴッドウィン医師に尊敬の眼差しを向けるマックス・マッカンドルス(ラミー・ユセフ)を見つけたため、自宅に呼び、ベラ(エマ・ストーン)を紹介する。
ベラは、自殺した女性に子どもの脳を移植することで誕生した「実験体」だった。
マックスが観察する中、赤ん坊のような振る舞いだった彼女は、次第に外の世界に憧れるようになる。
そこに弁護士のダンカン・ウェダバーン(マーク・ラファロ)が現れて、ベラの生活が急変していく。
オスカーノミネートも納得の映画だ。
SFなのか、コメディなのか、ファンタジーなのか、ジャンル分けに困る作品である。
好き嫌いが分かれる作品で、18歳未満は鑑賞させさせてもらえない。
映画に何を求めるかによって、大きく見方が異なってしまうだろう。
こういうのは「正しい理解」などというものは存在しないので、とにかく体験するしかない。
もうすでに鑑賞できる映画館も回数もほとんどないこともあり、私が行ったときは完売していた。
絶対に見るべき映画であり、恍惚感も嫌悪感も、この映画の体験による醍醐味であると、心してみよう。
▼以下はネタバレあり▼
ちなみに、私は原作を読んでいない。
読む予定もない。
タイトルは「POOR THINGS」であり、貧しいものたち、欠乏するものたち、哀れなものたち、ということになる。
《ベラの冒険》
外の世界を全く知らないベラは、その美しさから弁護士ダンカン・ウェダバーンに駆け落ちするように迫られる。
駆け落ちの意味もいまいち分かっていなかったベラは二つ返事で外の世界を体験するべく、家を飛び出してしまう。
ダンカンは彼女を単に性の対象としか見て折らず、ひたすら性行に励む。
ベラはそんななか少しずつ冒険することで、世界を理解していく。
都市が何度かテロップに流されるが、そのたびに彼女は外界を知っていく。
性欲の喜び、哲学・思索の喜び、貧困の哀しみ、労働の仕組み。
外界を理解していくことで、彼女は「自分は何ものか」というごく当たり前の疑問に行き着く。
他者や社会を理解していけば、当然自分自身にも同じ問いを向けることになる。
そして「あなたは帝王切開したことがあるの?」と娼婦に言われ、自分への疑問を抱く。
折しも、ゴッド=ゴッドウィンが死に瀕していることを知らされて、ロンドンへ戻る。
そこで、彼女が自分の体にいた子どもの脳を、自分に移植されたことを知る。
彼女の体は、彼女であり、心は子どもでもあるという二重の存在であることを知ったわけだ。
しかし、彼女には欠落したものがあった。
それは、社会的ルールや法律という「目に見えないが他の人は、決定的なものとして振る舞っている何か」だった。
彼女は、ところ構わず性欲をあらわにし、それが社会として暗黙の了解で「口にしない」というルールを知らない。
欲望に合理的な彼女は、なぜそれを皆が公にしないのか、ということが全く理解できない。
その姿は滑稽に見えるが、その視線はスクリーンを超えて、私たちにこそ向けられている。
私たちが信じているルールは、果たして蓋然性のあることなのか。
まったく恥じらいもなくたくさんの男と関係を持つ彼女は、私たちの生活様式がいかにもアポステリオリなものであるかを訴えかける。
彼女の目を通して、私たちは自分自身を語り直すことを迫られる。
美しいもの、おいしいもの、嬉しいこと、楽しいこと、そういう快楽に直結することを理解しながらも、それを阻むしきたりなるものは、本当に必要なのかどうか。
赤ん坊の目で見ていくベラの姿は、いかにも「哀れなるもの」である。
しかし、その眼差しで見つめられた観客は、「哀れなるもの」ではない確証はどこにもない。
なぜ目の前で人が死んでいるのに助けようともしないのか。
なぜ自分の欲望のまま振る舞うということを我々はせずに、嘘をついたり我慢したりするのか。
私たちはベラとともに冒険することで、私たちがいかに「不自然な社会」で生きているかを突きつけられる。
また、おもしろいのは彼女はイエス・キリストのようにまったくの「無」から生まれたという自己完結した存在であるということだ。
彼女は赤ん坊でありながら、母親でもあるという記号を負っている。
親子、先生生徒というような上下の関係性を持たずに生まれてきた唯一無二の存在なのだ。
だから、彼女を従わせることはできず、彼女を社会的な習慣に基づいて「所有」しようとしても、うまくいかない。
ダンカンが破滅に追いやられるのは、彼女を「普通の女性」として所有しようとしたからだ。
破滅したのは、人を人として扱うことなく欲望の対象としてみていたからに他ならない。
彼女は女性だが、いわば社会の宙に浮いた存在である。
自己完結しているベラを、上下の関係でつなぎ止めておくことはできない。
いや、ダンカンだけではない。
彼女はことごとく社会的な「合理的でない習慣」を破壊していく。
超然的な彼女は、社会的な習慣にまみれた人間が思うような関係性を結ぼうとしない。
終盤、権力で執事たちをねじ伏せるアルフィー・ブレシントンというベラの法律上の旦那が登場する。
彼は嫌悪感の象徴のような、すなわち自分には何もないのに、【社会的権威のみ】をまとっている男である。
そのような彼が劇中の最後に出てきたということが重要である。
ベラからすれば、なぜ彼の言うことを執事たちが聞いているのかわからなかっただろう。
見ている私も分からなかった。
「こんな役立たずの言うことを聞かずに、反抗すれば良いのに。」と。
しかし、そう考えるのはベラを通して世界を体験してきたからに他ならない。
アルフィーは当然のようにベラを所有物として自分の言うことを聞かせようとする。
しかし、これもまた当然、ベラは彼の言うことを聞かない。
ベラは彼の策略を逆手にとって、彼を【誘拐】してしまう。
そして、ゴッドウィンの手術を施し、家畜のように飼い慣らしてしまうのだ。
家畜に成り下がった彼は、名実ともに【何も持たない男(であったもの)】になる。
まさに、彼こそが「哀れなるもの」であるというように。
この映画はハッピーエンドだろうか。
もちろんベラにとっては安息の地を手に入れたということだろう。
しかし、私たちはベラのような自己完結した存在にはなれない。
すなわち、権威にまみれた男が、法律という不平等のシステムを剥奪されたことによって家畜にまでその存在を落とされる、私たちを発見する物語だ。
この映画は、いったん見てしまうとそれより前の自分に戻れないほどの強力なパワーを持っている。
アルフィーは観客自身である。
私自身であるのだ。
権威を振りかざし、自分がどのような存在であるのかを問い詰めもせずに、社会的習慣をアプリオリなものであると勘違いしている、「哀れなるもの」。
この映画が暴くのは、そういう当たり前を疑うこともできない愚か者たちの存在だ。
いや、違う、と否定したくなる。
けれども、愛する女性が他の男と寝ること、それを瑕疵であると判断する合理的な理由はあるだろうか。
それは、戸籍という巧妙な所有欲を満たす、一方向的な権威ではないか。
全編を通して、妖しさと不穏な感情を呼び起こす。
その不安さこそが、私たちが立脚しているシステムという不確かな土台を照らしている。
監督:ヨルゴス・ランティモス
彼女に欠落しているもの。私たちに欠落しているもの。
外科医で全身傷だらけの男、ゴッドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)は、不思議な女性を自宅で育てていた。
医学会でゴッドウィン医師に尊敬の眼差しを向けるマックス・マッカンドルス(ラミー・ユセフ)を見つけたため、自宅に呼び、ベラ(エマ・ストーン)を紹介する。
ベラは、自殺した女性に子どもの脳を移植することで誕生した「実験体」だった。
マックスが観察する中、赤ん坊のような振る舞いだった彼女は、次第に外の世界に憧れるようになる。
そこに弁護士のダンカン・ウェダバーン(マーク・ラファロ)が現れて、ベラの生活が急変していく。
オスカーノミネートも納得の映画だ。
SFなのか、コメディなのか、ファンタジーなのか、ジャンル分けに困る作品である。
好き嫌いが分かれる作品で、18歳未満は鑑賞させさせてもらえない。
映画に何を求めるかによって、大きく見方が異なってしまうだろう。
こういうのは「正しい理解」などというものは存在しないので、とにかく体験するしかない。
もうすでに鑑賞できる映画館も回数もほとんどないこともあり、私が行ったときは完売していた。
絶対に見るべき映画であり、恍惚感も嫌悪感も、この映画の体験による醍醐味であると、心してみよう。
▼以下はネタバレあり▼
ちなみに、私は原作を読んでいない。
読む予定もない。
タイトルは「POOR THINGS」であり、貧しいものたち、欠乏するものたち、哀れなものたち、ということになる。
《ベラの冒険》
外の世界を全く知らないベラは、その美しさから弁護士ダンカン・ウェダバーンに駆け落ちするように迫られる。
駆け落ちの意味もいまいち分かっていなかったベラは二つ返事で外の世界を体験するべく、家を飛び出してしまう。
ダンカンは彼女を単に性の対象としか見て折らず、ひたすら性行に励む。
ベラはそんななか少しずつ冒険することで、世界を理解していく。
都市が何度かテロップに流されるが、そのたびに彼女は外界を知っていく。
性欲の喜び、哲学・思索の喜び、貧困の哀しみ、労働の仕組み。
外界を理解していくことで、彼女は「自分は何ものか」というごく当たり前の疑問に行き着く。
他者や社会を理解していけば、当然自分自身にも同じ問いを向けることになる。
そして「あなたは帝王切開したことがあるの?」と娼婦に言われ、自分への疑問を抱く。
折しも、ゴッド=ゴッドウィンが死に瀕していることを知らされて、ロンドンへ戻る。
そこで、彼女が自分の体にいた子どもの脳を、自分に移植されたことを知る。
彼女の体は、彼女であり、心は子どもでもあるという二重の存在であることを知ったわけだ。
しかし、彼女には欠落したものがあった。
それは、社会的ルールや法律という「目に見えないが他の人は、決定的なものとして振る舞っている何か」だった。
彼女は、ところ構わず性欲をあらわにし、それが社会として暗黙の了解で「口にしない」というルールを知らない。
欲望に合理的な彼女は、なぜそれを皆が公にしないのか、ということが全く理解できない。
その姿は滑稽に見えるが、その視線はスクリーンを超えて、私たちにこそ向けられている。
私たちが信じているルールは、果たして蓋然性のあることなのか。
まったく恥じらいもなくたくさんの男と関係を持つ彼女は、私たちの生活様式がいかにもアポステリオリなものであるかを訴えかける。
彼女の目を通して、私たちは自分自身を語り直すことを迫られる。
美しいもの、おいしいもの、嬉しいこと、楽しいこと、そういう快楽に直結することを理解しながらも、それを阻むしきたりなるものは、本当に必要なのかどうか。
赤ん坊の目で見ていくベラの姿は、いかにも「哀れなるもの」である。
しかし、その眼差しで見つめられた観客は、「哀れなるもの」ではない確証はどこにもない。
なぜ目の前で人が死んでいるのに助けようともしないのか。
なぜ自分の欲望のまま振る舞うということを我々はせずに、嘘をついたり我慢したりするのか。
私たちはベラとともに冒険することで、私たちがいかに「不自然な社会」で生きているかを突きつけられる。
また、おもしろいのは彼女はイエス・キリストのようにまったくの「無」から生まれたという自己完結した存在であるということだ。
彼女は赤ん坊でありながら、母親でもあるという記号を負っている。
親子、先生生徒というような上下の関係性を持たずに生まれてきた唯一無二の存在なのだ。
だから、彼女を従わせることはできず、彼女を社会的な習慣に基づいて「所有」しようとしても、うまくいかない。
ダンカンが破滅に追いやられるのは、彼女を「普通の女性」として所有しようとしたからだ。
破滅したのは、人を人として扱うことなく欲望の対象としてみていたからに他ならない。
彼女は女性だが、いわば社会の宙に浮いた存在である。
自己完結しているベラを、上下の関係でつなぎ止めておくことはできない。
いや、ダンカンだけではない。
彼女はことごとく社会的な「合理的でない習慣」を破壊していく。
超然的な彼女は、社会的な習慣にまみれた人間が思うような関係性を結ぼうとしない。
終盤、権力で執事たちをねじ伏せるアルフィー・ブレシントンというベラの法律上の旦那が登場する。
彼は嫌悪感の象徴のような、すなわち自分には何もないのに、【社会的権威のみ】をまとっている男である。
そのような彼が劇中の最後に出てきたということが重要である。
ベラからすれば、なぜ彼の言うことを執事たちが聞いているのかわからなかっただろう。
見ている私も分からなかった。
「こんな役立たずの言うことを聞かずに、反抗すれば良いのに。」と。
しかし、そう考えるのはベラを通して世界を体験してきたからに他ならない。
アルフィーは当然のようにベラを所有物として自分の言うことを聞かせようとする。
しかし、これもまた当然、ベラは彼の言うことを聞かない。
ベラは彼の策略を逆手にとって、彼を【誘拐】してしまう。
そして、ゴッドウィンの手術を施し、家畜のように飼い慣らしてしまうのだ。
家畜に成り下がった彼は、名実ともに【何も持たない男(であったもの)】になる。
まさに、彼こそが「哀れなるもの」であるというように。
この映画はハッピーエンドだろうか。
もちろんベラにとっては安息の地を手に入れたということだろう。
しかし、私たちはベラのような自己完結した存在にはなれない。
すなわち、権威にまみれた男が、法律という不平等のシステムを剥奪されたことによって家畜にまでその存在を落とされる、私たちを発見する物語だ。
この映画は、いったん見てしまうとそれより前の自分に戻れないほどの強力なパワーを持っている。
アルフィーは観客自身である。
私自身であるのだ。
権威を振りかざし、自分がどのような存在であるのかを問い詰めもせずに、社会的習慣をアプリオリなものであると勘違いしている、「哀れなるもの」。
この映画が暴くのは、そういう当たり前を疑うこともできない愚か者たちの存在だ。
いや、違う、と否定したくなる。
けれども、愛する女性が他の男と寝ること、それを瑕疵であると判断する合理的な理由はあるだろうか。
それは、戸籍という巧妙な所有欲を満たす、一方向的な権威ではないか。
全編を通して、妖しさと不穏な感情を呼び起こす。
その不安さこそが、私たちが立脚しているシステムという不確かな土台を照らしている。
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