評価点:84点/2023年/日本/124分
監督・脚本:ヴィム・ヴェンダース
美しき日常の日々。
平山(役所広司)は東京の公共トイレの清掃員だった。
今日も朝目覚めて規則正しくあてがわれたトイレの清掃に向かった。
ほとんど人と話すこともない平山は夕方には仕事を終えて、近所の銭湯に向かい、浅草の小さな居酒屋でチューハイをあおる。
毎日同じような生活だが、少しずつ変化が起こる。
ドイツ人映画監督ヴィム・ヴェンダースが、東京の公共トイレのPR短編映画のために企画され、制作された映画。
カンヌ国際映画祭で主演男優賞を受賞したことでも話題になった。
平日の映画館にもかかわらず、劇場内はほぼ満員で、暇な中年以上の観客で賑わっていた。
小さい劇場だったこともあるだろうが、日本にはこんなに暇な(?)人々がいることに驚いた。
話題になったのもあるだろうが、この映画は万人受けするようなキャッチーな映画ではない。
また、今話題になっている二倍速で楽しむような作品でもない。
時代に逆行するとも言える映画が、しっかりと評価されていることは喜ばしいことだ。
若い世代がどのようにこの映画を見るのか(いや、見ないのか)、興味のあるところでもある。
アメリカのアカデミー賞の外国語長編映画にもノミネートされた。
いま、見るべき映画であることは間違いない。
▼以下はネタバレあり▼
筋らしい筋はほとんどない。
説明らしい説明もほとんどない。
見る人によっては非常に退屈な映画である。
独身を貫いている平山に、観客が期待するような非日常的な恋の予感も訪れない。
それでも最後まで見させるだけの魅力がある。
それが、この映画のすべてであり、監督の力量そのものを示している。
下手な映画監督ではおそらくこんな映画は撮れない。
同じ時間におきて、同じルーティンで仕事を丁寧にこなして、同じ店で食事をとって、同じ休日を過ごす。
手元に大きなお金もなく、神社で見つけた小さな苗木を毎日育てるくらいが、彼の楽しみだ。
しかし、毎日同じではない。
疎遠になった姪が家でしてきたり、気にかけていた後輩が突然仕事を辞めたり。
5年通っていた料理屋の女将の過去を不意に知ってしまったり。
少しずつ変化があり、毎日同じではない。
あるとき、後輩のタカシが平山に尋ねる。
「なんでこんな仕事をやっているんですか」
「なぜそんなに熱心にできるんですか」
平山は答えない。
家出してきた姪が、見違えるほど大きくなっていた。
姪を迎えに来た妹が、つぶやく。
「本当に、トイレ掃除やってるんだ」
平山は恥ずかしそうにうなずく。
平山はおそらくかなりよい家柄で、世間から疎まれるようなトイレ掃除に身をやつすような環境で育ってきたのではないのだろう。
それは妹が運転手付きの黒塗りの車で訪れたことでうかがい知ることができる。
彼は過去があり、選択して今の仕事をやっている。
他の選択肢がなかったわけではない。
それでもなぜ彼は【こんな仕事】をしているのか。
私たちは安易にこのような問いを立てる。
まるで価値のある仕事をすることが重要で、言語化できる、あるいは大きなお金に換算しうる仕事以外は重要でないかのような価値体系の中に落とし込む。
トイレを掃除していても、誰も彼を気遣う市民はいない。
挨拶されることもまれで、感謝の言葉を言ってもらえることなどほぼない。
実際そうだろう。
会社の清掃員ならともかく、公営トイレの清掃員に声をかけるものなどそうそういない。
しかし、彼は生きがいをもって生きている。
手を抜いたりしない。
不満を口にしたりしない。
日常の変化に気づき、そのことにささやかな感情の起伏とともに生きている。
私たちは日常の蓄積と、非日常の蕩尽を繰り返しながら生きている。
しばしば物語にされるのは蕩尽であり、変化であり、ドラマチックな事件である。
私たちは日常を、ありのままに愛おしく愛することができない。
たんたんと日常を描きながら、その些細な変化を説明なしに描いている。
下手な映画監督なら、ナレーションを入れたくなるし、必要以上に説明的台詞を言わせたくなる。
だが、ヴィム・ヴェンダースは最後にたった一つの説明だけですべてを完結させる。
「木漏れ日とは、太陽からこぼれる木々の影であり、どの瞬間も同じものはない」と。
私たちは木漏れ日のような人生を送りながら、その時の光に思いをはせている。
そこに貴賤や成否、勝敗、甲乙、美醜はない。
「影が重なりあうのに、何も変化がないわけがない」
そう信じる平山は、無価値なのだろうか。
私たちは多かれ少なかれ、平山のような生き方をしている。
子どもの頃夢見ていたような、世界のヒーローにはなれない。
ともすれば「どこにでもいるような奴」なのかもしれない。
それを肯定するのは、やはり「どこにでもいるような周りの人」なのだろう。
ここまで書いて、この映画を言語化するのはやはり難しいと感じている。
だからこそ、この映画は私たちにとって見るべき映画であり、こんな短い批評記事ではとうてい説明がつかない何かが描かれている。
人生の秘密、ともいうべき何かが。
監督・脚本:ヴィム・ヴェンダース
美しき日常の日々。
平山(役所広司)は東京の公共トイレの清掃員だった。
今日も朝目覚めて規則正しくあてがわれたトイレの清掃に向かった。
ほとんど人と話すこともない平山は夕方には仕事を終えて、近所の銭湯に向かい、浅草の小さな居酒屋でチューハイをあおる。
毎日同じような生活だが、少しずつ変化が起こる。
ドイツ人映画監督ヴィム・ヴェンダースが、東京の公共トイレのPR短編映画のために企画され、制作された映画。
カンヌ国際映画祭で主演男優賞を受賞したことでも話題になった。
平日の映画館にもかかわらず、劇場内はほぼ満員で、暇な中年以上の観客で賑わっていた。
小さい劇場だったこともあるだろうが、日本にはこんなに暇な(?)人々がいることに驚いた。
話題になったのもあるだろうが、この映画は万人受けするようなキャッチーな映画ではない。
また、今話題になっている二倍速で楽しむような作品でもない。
時代に逆行するとも言える映画が、しっかりと評価されていることは喜ばしいことだ。
若い世代がどのようにこの映画を見るのか(いや、見ないのか)、興味のあるところでもある。
アメリカのアカデミー賞の外国語長編映画にもノミネートされた。
いま、見るべき映画であることは間違いない。
▼以下はネタバレあり▼
筋らしい筋はほとんどない。
説明らしい説明もほとんどない。
見る人によっては非常に退屈な映画である。
独身を貫いている平山に、観客が期待するような非日常的な恋の予感も訪れない。
それでも最後まで見させるだけの魅力がある。
それが、この映画のすべてであり、監督の力量そのものを示している。
下手な映画監督ではおそらくこんな映画は撮れない。
同じ時間におきて、同じルーティンで仕事を丁寧にこなして、同じ店で食事をとって、同じ休日を過ごす。
手元に大きなお金もなく、神社で見つけた小さな苗木を毎日育てるくらいが、彼の楽しみだ。
しかし、毎日同じではない。
疎遠になった姪が家でしてきたり、気にかけていた後輩が突然仕事を辞めたり。
5年通っていた料理屋の女将の過去を不意に知ってしまったり。
少しずつ変化があり、毎日同じではない。
あるとき、後輩のタカシが平山に尋ねる。
「なんでこんな仕事をやっているんですか」
「なぜそんなに熱心にできるんですか」
平山は答えない。
家出してきた姪が、見違えるほど大きくなっていた。
姪を迎えに来た妹が、つぶやく。
「本当に、トイレ掃除やってるんだ」
平山は恥ずかしそうにうなずく。
平山はおそらくかなりよい家柄で、世間から疎まれるようなトイレ掃除に身をやつすような環境で育ってきたのではないのだろう。
それは妹が運転手付きの黒塗りの車で訪れたことでうかがい知ることができる。
彼は過去があり、選択して今の仕事をやっている。
他の選択肢がなかったわけではない。
それでもなぜ彼は【こんな仕事】をしているのか。
私たちは安易にこのような問いを立てる。
まるで価値のある仕事をすることが重要で、言語化できる、あるいは大きなお金に換算しうる仕事以外は重要でないかのような価値体系の中に落とし込む。
トイレを掃除していても、誰も彼を気遣う市民はいない。
挨拶されることもまれで、感謝の言葉を言ってもらえることなどほぼない。
実際そうだろう。
会社の清掃員ならともかく、公営トイレの清掃員に声をかけるものなどそうそういない。
しかし、彼は生きがいをもって生きている。
手を抜いたりしない。
不満を口にしたりしない。
日常の変化に気づき、そのことにささやかな感情の起伏とともに生きている。
私たちは日常の蓄積と、非日常の蕩尽を繰り返しながら生きている。
しばしば物語にされるのは蕩尽であり、変化であり、ドラマチックな事件である。
私たちは日常を、ありのままに愛おしく愛することができない。
たんたんと日常を描きながら、その些細な変化を説明なしに描いている。
下手な映画監督なら、ナレーションを入れたくなるし、必要以上に説明的台詞を言わせたくなる。
だが、ヴィム・ヴェンダースは最後にたった一つの説明だけですべてを完結させる。
「木漏れ日とは、太陽からこぼれる木々の影であり、どの瞬間も同じものはない」と。
私たちは木漏れ日のような人生を送りながら、その時の光に思いをはせている。
そこに貴賤や成否、勝敗、甲乙、美醜はない。
「影が重なりあうのに、何も変化がないわけがない」
そう信じる平山は、無価値なのだろうか。
私たちは多かれ少なかれ、平山のような生き方をしている。
子どもの頃夢見ていたような、世界のヒーローにはなれない。
ともすれば「どこにでもいるような奴」なのかもしれない。
それを肯定するのは、やはり「どこにでもいるような周りの人」なのだろう。
ここまで書いて、この映画を言語化するのはやはり難しいと感じている。
だからこそ、この映画は私たちにとって見るべき映画であり、こんな短い批評記事ではとうてい説明がつかない何かが描かれている。
人生の秘密、ともいうべき何かが。
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