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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

アバター

2009-12-29 18:05:07 | 映画(あ)
評価点:90点/2009年/アメリカ

監督:ジェームズ・キャメロン

大きな〈物語〉に抱かれたナヴィと、孤独な人間の、物語。

戦争で負傷したジェイク(サム・ワーシントン)は、一卵性の双子の弟がいた。
科学者だった弟は、志半ばで死に、半身不随になっているジェイクにビジネスを持ちかける。
弟が開発していたシステムを代わりに動かせば、足を元通りに治してやる。
生きる意味を見失っていたジェイクは、高額な治療費をまかなうために、詳細を知らずにその話を承けた。
連れて行かれたジェイクは、「パンドラ」と呼ばれる惑星に降り立ち、先住民ナヴィの生態を知るために、ナヴィの遺伝子で培養した肉体に接続することを要請される。
新しい肉体を手に入れたジェイクは、自由闊達に動き回るが、仲間とはぐれてしまい、先住民ナヴィに発見されてしまう。

構想に10年以上、という話はよくある話で、この映画もあの「タイタニック」よりも前に監督が思い描いていた作品であるという。
ジェームズ・キャメロンといえばヒットメーカーとしてその名を知られているエンターテイナーである。
予告編が出始めたのはおそらく半年以上前だろう。
映画館でそれを見るたびに、「駄作だろう」と思っていた。
見にいく予定はまるでなかったのだが、話の詳細が見えてくるに従って興味を抱き、映画館に行くことにした。

圧倒的な映像技術だけではなく、この映画は3Dという映像空間も見所になっている。
一つは、これまでの平面的な映像テクストではなく、まさに縦糸と横糸のテクスト(表象空間)を作り出すための環境として、3Dが選ばれたのだろう。
もう一つは、いかんともしがたい著作権の問題である。
一眼カメラではとらえきれない二重の3D映像にすることで、物理的な盗撮を抑制できる、ということがあるらしい。

けれどもそんなことはどうでもいい。
なぜなら、僕は時間の関係上、2Dで観たからだ。(なんじゃそれ。)
まだまだ3Dが普及していないので、映画としてはかなりの勇気がいっただろう。
僕はミーハーな保守派なので、今回は2D体験としての「アバター」批評で勘弁してほしい。

▼以下はネタバレあり▼

映画を観ながらずっと考えていたことは、この監督が何故何年もこの映画を描きたいと思っていたのか、という一点だった。
そしてそれはそのまま「何故あえてこの世界観を描きたかったのか」という問いだった。
僕がこのブログでも再三書いてきたように、芸術であろうと文学であろうと、そして映画であろうと、すべては表現形式と表現内容の一致に必然性があるかどうか、という一点にある。
もちろんそれは、理解されたり、言葉で説明できたりする必要はない。
ただ、受け手にとってそれが必然であると感じさせるだけのテーマなりモティベーションなりが必要だ。
それは、芸術にとって「意味」ではなく、「形式」が問われることと深い関係がある。

どれだけすばらしいCG技術があろうとも、それが中身を伴わないものであるならば、過剰なだけだ。
奇をてらうと評価されても仕方がない。
真によい物を、ここでよく「完成度が高い」と書くけれども、その完成度なるものを高めるためには、技術におぼれていてはいけないと思う。
特に、昨今はCGだけで魅せられると思っている作り手が多いので、余計にそう思う。

僕が考えていたことは、だからこそ、ジェームズ・キャメロンが何を描こうとしていたのか、それはこの過剰とも思えるほどのCG技術が必要なものだったのだろうか、と考えていた。

あとで読んだパンフレットにも僕が鑑賞中に感じていたことが書かれてあった。
「最新の技術によって古典的な物語を描き出す。」
まさにこの映画の意味――中身――であるところの、物語は古典的だった。

わかりやすい往来の物語であり、日常の地球から非日常の惑星パンドラへという物語構造にしても、そうだ。
そこで行われている搾取と抵抗の対立構造も、そうだ。
戦艦を引き連れて搾取をもくろむ白人と、それに抵抗する黒人の構造と何ら変わりはない。
そうであるなら、あえて巨額の資金を投入してまで描く必要性は特にないのだ。
それは技術をひけらかすだけの、クリエイターとしての欺瞞でしかない。
この映画を観る前から、そして観ながら、もっとも注意すべき点――観るべき点――はそこだろうと考えていた。
結果、その通りだった。

この映画で監督は何を描きたかったのだろうか。
結論から言えば、つながりを失った人間と、つながりに抱かれたナヴィとの闘いを描いた物語だった、と言えそうだ。

この映画が白人対黒人というこれまでの歴史的、古典的(と言っては語弊があるが)対立構造とは一線を画しているのは、ジェイクがナヴィの体を手に入れ、ネイティリ(ゾーイ・サルダナ)に狩りの手ほどきを受けているときに示される。
ネイティはパンドラの馬であるダイアホースに乗る際に、自分の髪の毛にある触覚とダイアホースとをつなぐことで「絆」を示すのだと説明する。
この映画の主題はこの絆にある。
それはダイアホースだけではない。
鳥のようなバンシーや、伝説の飛行生物レオノプテリクスに乗る際も、乗るものと乗せるものが絆で結ばれる。
これが決定的な世界観の違いだ。
もちろん、この象徴的な行動は、神としてあがめられている生命の源である「エイワ」とのつながりと無関係ではない。

自然を馬鹿にするな、というようなポストモダニズム的なメッセージが込められている。
だが、ここにはただの自然の勝利というような紋切り型のメッセージ以上の意味が込められている。

搾取とその抵抗という物語展開は、僕たちにとっては退屈なくらい古典的な展開である。
だが、そこに流れているのは、自然とつながっているのだという確信である。
ナヴィは人間ではない。
もう少し厳密に言えばナヴィは近代的な自我を有する人間ではない。
ナヴィは自然とともに生きることを自覚ししているし、それは人間と自然という対立という観点でさえない
共生ということばはよく耳にするようになって久しいが、それとて人間と自然という対立構造で語られる。
ナヴィは、自然の一部であることを自認している。
それは決して対立構造になることのない、エイワとの連続した一部分であることを意味している。

よって、彼らには交渉は必要がない。
彼らはエイワとつながる自然の代表者であり、利益なるものをむさぼる必要さえない。
彼らはやがてエイワに還ることを識っている。
彼らが交渉の必要がないのは、彼らには自分たちを支える、包括する〈物語〉が存在するからだ。
自分は生命そのものであり、生命は単独〈個人〉や〈個体〉で生きているわけではないことを識っている。
だから、狩りをするとき、祈りを込めて殺す。
このあたりの描き方が鋭いのは、彼らが狩りをしても「食事をしない」ことにある。
徹底して命をむさぼることを描かないために、余計に一つであることを際立たせている。
それはともかく、すべての生命とつながっている彼らは恐れを知らない。

人間という〈個人〉で戦おうとする地球人には、それがない。
金を得ることで、欲望に身を焦がすことでしか、〈物語〉を実現できない人間たちは、アプリオリに孤独な存在として在る。
よって自分たちの技術のみで相手を蹂躙し、相手から搾取するしかない。
彼らが孤独なのは、遠いパンドラという惑星にきたからではない。
地球にしても緑を奪い尽くした人間たちは、もはやこの世のどこにいても、人間以外につながりあう者はいない。
もちろん、その人間同士でさえ争いあうのは、自分たちが孤独であるからに他ならない。
今、ケータイ電話やネットで必死でつながりあおうとしていることが、皮肉であるように映る。
人を現在的な意味で孤独にしたのは、近代からだが、そのことをきっちりと描こうとしている。
それは近代への警鐘としての〈共生〉などということばとは決定的に違っている。
一度孤独に至った者たちに、つながりを再度求めることはできない。
なぜなら、孤独であることを怖いと思ってつながりを求めることは、それは単なる打算であり、絆ではないからだ。

近代化という記号の中では、もっと言えば、白人対黒人という対立では描き出せなかった世界観なのだ。
この映画は近代化への警鐘を鳴らす映画ではない。
やはりポストモダニズム以降の時代背景を持つ設定でないと描けなかったのだ。

こうしたことを描き出すために、この映画は巨額の資金と、膨大な時間を使った。
それは、この映画がその二つだけで成立しているのではないことからも伺える。
ジェームズ・キャメロンはこの映画を本気で作りたかったのだ。

たとえば、ナヴィというキャラクターである。
このデザインは、異形だが感情移入できるぎりぎりのラインを狙って構築されている。
よって、当初血の通った生命体とは思えなかった彼らが、次第に人間以上に人間的な生命体であると感じられるようになる。
不思議なことに、全く似つかわしくなかったジェイク本人と、ナヴィのジェイクが後半だと全く同一人物であると疑わなくなっている。
また、役者が必要なくなったかのようなフルCGだが、俳優たちの息づかいが聞こえてくるかのような造形は、この映画が実写映画であることを教えている。
どこまでがCGか、どこまでが現実か判らないほどの完成度の高いCGは、どこまでも計算されている。
CGのごりおし映画だとは誰にも言わせないほどの、高い志がなければ、ここまで緻密にはできなかっただろう。

また、僕が感嘆したのは、この映画のカメラアングルとカメラワークのすごさだ。
巨大な木や飛行石を有したハレルヤ・マウンテンの存在感を示すために、きちんとカメラアングルを計算している。
特に木が倒れるシークエンスでは、その圧倒的な絶望感を下からのアングルが見事に捉えている。
激しい戦闘にも耐えるカメラワークは、違和感がないことで監督の器量がはっきりと意識できる。

長時間にもかかわらずだれずに観られることは、「2012」との差を示している。
何もかもが圧倒的な映画だ。

残念ながら3Dで観ることができなかったことと、途中で腹痛のために席を立ってしまったことだ。
へりで基地から逃げ出すあたりを3分程度抜けてしまった。
抜けてしまったことが残念というよりも、急いでいたので大便をそのまま放置して席に戻ってしまったことだ。
いや、最後に下ネタで済みません。

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4 コメント

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Unknown (まぃく)
2009-12-30 00:46:51
最後の下ネタは、削除希望。

せっかくの映画批評がすべて吹き飛んでしまったよ…
返信する
Unknown (tanasinn)
2010-01-05 01:44:23
いや、難解にも推敲された批評を下ネタで落とす仕掛けは好きw
返信する
全てはつながっている (kusaitati)
2010-01-05 17:47:53
鋭い感性をお持ちのようですね。

自分も、同じ感想を持ちました。

エイワの魂に感謝の心を込めて、うんこも流してね!
返信する
物議(?)を醸しているようですね。 (menfith)
2010-01-05 21:54:24
管理人のmenfithです。
書き込みありがとうございます。
結局放置していたようになって申し訳ありません。

もっと批判をいただいたら訂正しようと思っていましたが、微妙な表現が逆に良いかな、と下品を承知でそのままにしておきます。
不快な思いをされた方は、すみません。

普段はもちろん流していますよ…。

3Dでもう一度見にいこうかと思っていますが、正月第二弾には「かいじゅうたちのいるところ」なども公開予定で、ちょっとどうなるかわかりません。

次回更新は「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の予定です。
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