評価点:78点/2006/アメリカ
監督:トニー・スコット
こいつ、サスペンスをわかっている!
10時50分、海兵隊を乗せたフェリーが突然爆破される。
蒸発した燃料に引火したため、死者が500人を超える大惨事となった。
アルコール・たばこ・火器局、ATFのダグ(デンゼル・ワシントン)は、現場を回り、テロであることをつきとめた。
同じ時期に若い女性の遺体が発見される。
爆破の被害者のように巧みに工作されているが、実は爆破前に殺されていることがわかった。
爆破前に爆破の被害者のように工作されているということは、同一人物が犯人であり、彼女の動向を探ることが解決へのてがかりであると知る。
FBIに呼び止められたダグは、政府の秘密機関に案内される。
そこには四日半前の現実が忠実に再現された装置があった。
「パールハーバー」や「アルマゲドン」、近いところでは「トランスフォーマー」のプロデューサーのジェリー・ブラッカイマーがてがけたSFサスペンスである。
話題になるかと思ったがそれほどでもなかった。
間口の広さでいえば、「トランスフォーマー」が勝るが、映画としてのうまさ、おもしろさでいえば、はるかにこちらに軍配があがる。
「デジャヴ」というタイトルから、〈時〉をあつかった作品だということは、想像できるだろう。
あまりタイムトラベルとかが得意でない人も、この映画ならすんなりのめり込めるはずだ。
超能力的な「デジャヴ」を期待してしまうと逆に期待はずれに終わる。
あくまで「SFサスペンス」なのだと思ってみてもらいたい。
▼以下はネタバレあり▼
「デジャヴ」とは既視感とかいわれるやつだ。
「あれ? この景色、場面どこかでみたことがある」と感じる、あれだ。
どこかの映画では「マトリックス世界が書き換えられたときに起こる」というような説明もされていた。
実際には夢や思い出せない記憶の中で体験していたことを、不意に同じような場面に遭遇して、「同じ体験をしている」と感じるものらしい。
予知夢のたぐいもこれでだいたいは説明できるのだと、どこかのガリレオ先生が言っていた。
それはおいておいて、そのいわゆる既視感とはあまりかかわりがない。
だが、このタイトルのおかげで、僕たちは既視感にさいなまれることになる。
伏線として機能するはずの様々な不自然な点が、後にすべて説明されていく感覚は、まさに既視感なのかもしれない。
タイトルの意味深な飛躍のおかげで、この映画はサスペンスとして一流の映画になった。
SFということで科学的に説明がつかないところがいくつかあるが、それを問題にさせない強さとうまさがこの映画にはある。
ここがおかしいと、いうことがなぜだか野暮のような気がしてくるから不思議だ。
ネタバレしないと話にならないので、映画の肝である「タイムウィンドウ」の設定をざっくり説明しておこう。
僕たちの感覚だと時間は矢のように一直線に進んでいるような気がする。
だけれど、量子力学的に、あるいは相対性理論的に考えると、そうではないらしい。
時が一定方向に進み、またそれを戻すことができないというのは、正しいとしても、「過去に戻れない」というのは理論的には違うようだ。
宇宙にはたくさんの世界があるという多宇宙の考え方によれば、今と同じような世界がこの世界にはいくつもあって、
今の僕らがいる世界とほんの少し違う、少し前の宇宙をのぞくことも可能らしい。
映画でいえば、「タイム・ライン」や「ザ・ワン」などと同じ考え方だ。
「タイムウィンドウ」は、つまり四日と六時間前の過去をのぞき見ることができる装置なのだ。
すでに起こってしまった事件ではあるが、過去の様子を知ることで、犯人を割り出そうというのだ。
過去をのぞき見る、という設定のため、制限がつく。
1)巻き戻しができない
現実と同じ世界の少し過去が平行しているだけなので、巻き戻しできない。
ただし、録画することはできる。
2)地域が限られている
のぞける窓の領域が限られているため、あまりに遠い位置をのぞき見できない。
3)生命体を送ることはできない
のぞき見ているだけであって、そこを生命体が通ると、生命維持できなくなってしまう。
また、メモ用紙を送るだけでも大きなエネルギーが必要となる。
この制限があるために、単なるSF映画の、よくあるタイムトラベルものとは一線を画している。
わかっていても救えない、わかっていても変えられない。
また、時間の推移が現実と同じであるため、こちら側とのリンクが重要になり、現在で得た情報を過去の検索で活かす、というようなアナログ的な要素もある。
同じ時間で複数の場所をみることができないため、人間的な知識や勘が必要になるというのも説得力がある。
こうなると、SF映画によるあるような、観客が取り残されるということが少なくなる。
あまりにもハイテクで、世界観に入り込めない、というような、疎外感が少なくなり、やりとりの中心的な話題だけを純粋に追うことができる。
緊迫感と、臨場感が生まれ、観客が参加できる余地を十分に残したままで、話が展開される。
SF映画の致命的な欠点も補完しているのだ。
だが、この映画がおもしろくなってくるのは、デンゼル・ワシントンが過去に行ってからだ。
そこまでの流れは至極自然で、わかりやすい。
たとえば、自分のせいで相棒が事件に巻き込まれていたことを知ったり、犯人を逮捕したところで、現実を変えられない無念さにふれたりすることで、彼がリスクを冒してまでも過去に行こうとする伏線が十分に張られている。
その伏線は物語的なものだけではない。
現在と過去とがリンクしていることを、教えている。
相棒が事件に巻き込まれてしまった理由が実は自分が送ったメモによるものだった、とか。
こうした伏線の楽しみを教えておくことによって、過去に行ったときに発見する、現在での不自然さを解消するための事実が、楽しみでしょうがなくなるのだ。
アジトになぜか救急車がつっこんでいたり、
クレアの家にダグの指紋が大量に発見されたり、
血をぬぐったあとのタオルがなぜか落ちていたり。
こうした現在からは説明できないことが、過去に行くことで、説明がついていく。
ああ、あの留守電は、そのために入れたのか、とか。
この楽しみは非常に大きい。
しかも、それが現在をなぞるものであれば、あるほど、「やはり変えられないのか」という緊迫感も生む。
事態が好転しているように見えても、それが本当にハッピーエンドに向かうのか、観客は読めなくなる。
それもこれも、緻密に練られた伏線にある。
伏線が印象的に、これ見よがしに不自然におかれるから、観客は記憶する。
なぜそんな伝言があったのか、なぜ冷蔵庫にそんなメモが残されていたのか。
それが後半になって一気に解決していく快感は絶大だ。
「デジャヴ」というタイトルの意味深さ(強引だけど)にも気づくのだ。
既視感とは、観客である僕たちにとっての「既視感」であり、時間の流れを逆転させた既視感なのだ。
本来過去でみているはずの「見たこと」は現在(未来)で「見たこと」の既視感であることに気づかされる。
「なんかこのシーン見たことがあるぞ」……「だからか!」となるのだ。
実はこの映画、かなり矛盾がある。
決定的なのが「タイムパラドックス」。
彼が死んでしまうと、彼を送り込む未来はどうなってしまうのか。
あまり説明がされていない。
多宇宙という考え方なら説明できるものの、
多宇宙でも、お互いが関連しあった関係であるはずなので、未来(元の現在)にも何らかの影響があるはずだ。
それなのに、そこはばっさり問題にされない。
光が通るなら、それで何とかメッセージを送れるのではないか、とか。
「見られている」というのなら、「タイムウィンドウ」には物理的質量があるのか、とか。
地域が限られている理由はなんなのか、とか。
だから、この映画の矛盾に気づいてしまった人は、興ざめだったかもしれない。
だが、この映画にはその矛盾を問題にさせないような強さがある。
どんどんまくし立てられて進む展開の速さや、それによって明らかにされていく楽しみなど、矛盾を補うための工夫がある。
観客に考えさせるポイントをうまく操作している。
そのために多少の矛盾があっても、観客は楽しめてしまう。
サスペンスとしての押さえどころを理解している、そんな映画だ。
SFにしては、満足度の高い映画だと思う。
(2007/11/28)
監督:トニー・スコット
こいつ、サスペンスをわかっている!
10時50分、海兵隊を乗せたフェリーが突然爆破される。
蒸発した燃料に引火したため、死者が500人を超える大惨事となった。
アルコール・たばこ・火器局、ATFのダグ(デンゼル・ワシントン)は、現場を回り、テロであることをつきとめた。
同じ時期に若い女性の遺体が発見される。
爆破の被害者のように巧みに工作されているが、実は爆破前に殺されていることがわかった。
爆破前に爆破の被害者のように工作されているということは、同一人物が犯人であり、彼女の動向を探ることが解決へのてがかりであると知る。
FBIに呼び止められたダグは、政府の秘密機関に案内される。
そこには四日半前の現実が忠実に再現された装置があった。
「パールハーバー」や「アルマゲドン」、近いところでは「トランスフォーマー」のプロデューサーのジェリー・ブラッカイマーがてがけたSFサスペンスである。
話題になるかと思ったがそれほどでもなかった。
間口の広さでいえば、「トランスフォーマー」が勝るが、映画としてのうまさ、おもしろさでいえば、はるかにこちらに軍配があがる。
「デジャヴ」というタイトルから、〈時〉をあつかった作品だということは、想像できるだろう。
あまりタイムトラベルとかが得意でない人も、この映画ならすんなりのめり込めるはずだ。
超能力的な「デジャヴ」を期待してしまうと逆に期待はずれに終わる。
あくまで「SFサスペンス」なのだと思ってみてもらいたい。
▼以下はネタバレあり▼
「デジャヴ」とは既視感とかいわれるやつだ。
「あれ? この景色、場面どこかでみたことがある」と感じる、あれだ。
どこかの映画では「マトリックス世界が書き換えられたときに起こる」というような説明もされていた。
実際には夢や思い出せない記憶の中で体験していたことを、不意に同じような場面に遭遇して、「同じ体験をしている」と感じるものらしい。
予知夢のたぐいもこれでだいたいは説明できるのだと、どこかのガリレオ先生が言っていた。
それはおいておいて、そのいわゆる既視感とはあまりかかわりがない。
だが、このタイトルのおかげで、僕たちは既視感にさいなまれることになる。
伏線として機能するはずの様々な不自然な点が、後にすべて説明されていく感覚は、まさに既視感なのかもしれない。
タイトルの意味深な飛躍のおかげで、この映画はサスペンスとして一流の映画になった。
SFということで科学的に説明がつかないところがいくつかあるが、それを問題にさせない強さとうまさがこの映画にはある。
ここがおかしいと、いうことがなぜだか野暮のような気がしてくるから不思議だ。
ネタバレしないと話にならないので、映画の肝である「タイムウィンドウ」の設定をざっくり説明しておこう。
僕たちの感覚だと時間は矢のように一直線に進んでいるような気がする。
だけれど、量子力学的に、あるいは相対性理論的に考えると、そうではないらしい。
時が一定方向に進み、またそれを戻すことができないというのは、正しいとしても、「過去に戻れない」というのは理論的には違うようだ。
宇宙にはたくさんの世界があるという多宇宙の考え方によれば、今と同じような世界がこの世界にはいくつもあって、
今の僕らがいる世界とほんの少し違う、少し前の宇宙をのぞくことも可能らしい。
映画でいえば、「タイム・ライン」や「ザ・ワン」などと同じ考え方だ。
「タイムウィンドウ」は、つまり四日と六時間前の過去をのぞき見ることができる装置なのだ。
すでに起こってしまった事件ではあるが、過去の様子を知ることで、犯人を割り出そうというのだ。
過去をのぞき見る、という設定のため、制限がつく。
1)巻き戻しができない
現実と同じ世界の少し過去が平行しているだけなので、巻き戻しできない。
ただし、録画することはできる。
2)地域が限られている
のぞける窓の領域が限られているため、あまりに遠い位置をのぞき見できない。
3)生命体を送ることはできない
のぞき見ているだけであって、そこを生命体が通ると、生命維持できなくなってしまう。
また、メモ用紙を送るだけでも大きなエネルギーが必要となる。
この制限があるために、単なるSF映画の、よくあるタイムトラベルものとは一線を画している。
わかっていても救えない、わかっていても変えられない。
また、時間の推移が現実と同じであるため、こちら側とのリンクが重要になり、現在で得た情報を過去の検索で活かす、というようなアナログ的な要素もある。
同じ時間で複数の場所をみることができないため、人間的な知識や勘が必要になるというのも説得力がある。
こうなると、SF映画によるあるような、観客が取り残されるということが少なくなる。
あまりにもハイテクで、世界観に入り込めない、というような、疎外感が少なくなり、やりとりの中心的な話題だけを純粋に追うことができる。
緊迫感と、臨場感が生まれ、観客が参加できる余地を十分に残したままで、話が展開される。
SF映画の致命的な欠点も補完しているのだ。
だが、この映画がおもしろくなってくるのは、デンゼル・ワシントンが過去に行ってからだ。
そこまでの流れは至極自然で、わかりやすい。
たとえば、自分のせいで相棒が事件に巻き込まれていたことを知ったり、犯人を逮捕したところで、現実を変えられない無念さにふれたりすることで、彼がリスクを冒してまでも過去に行こうとする伏線が十分に張られている。
その伏線は物語的なものだけではない。
現在と過去とがリンクしていることを、教えている。
相棒が事件に巻き込まれてしまった理由が実は自分が送ったメモによるものだった、とか。
こうした伏線の楽しみを教えておくことによって、過去に行ったときに発見する、現在での不自然さを解消するための事実が、楽しみでしょうがなくなるのだ。
アジトになぜか救急車がつっこんでいたり、
クレアの家にダグの指紋が大量に発見されたり、
血をぬぐったあとのタオルがなぜか落ちていたり。
こうした現在からは説明できないことが、過去に行くことで、説明がついていく。
ああ、あの留守電は、そのために入れたのか、とか。
この楽しみは非常に大きい。
しかも、それが現在をなぞるものであれば、あるほど、「やはり変えられないのか」という緊迫感も生む。
事態が好転しているように見えても、それが本当にハッピーエンドに向かうのか、観客は読めなくなる。
それもこれも、緻密に練られた伏線にある。
伏線が印象的に、これ見よがしに不自然におかれるから、観客は記憶する。
なぜそんな伝言があったのか、なぜ冷蔵庫にそんなメモが残されていたのか。
それが後半になって一気に解決していく快感は絶大だ。
「デジャヴ」というタイトルの意味深さ(強引だけど)にも気づくのだ。
既視感とは、観客である僕たちにとっての「既視感」であり、時間の流れを逆転させた既視感なのだ。
本来過去でみているはずの「見たこと」は現在(未来)で「見たこと」の既視感であることに気づかされる。
「なんかこのシーン見たことがあるぞ」……「だからか!」となるのだ。
実はこの映画、かなり矛盾がある。
決定的なのが「タイムパラドックス」。
彼が死んでしまうと、彼を送り込む未来はどうなってしまうのか。
あまり説明がされていない。
多宇宙という考え方なら説明できるものの、
多宇宙でも、お互いが関連しあった関係であるはずなので、未来(元の現在)にも何らかの影響があるはずだ。
それなのに、そこはばっさり問題にされない。
光が通るなら、それで何とかメッセージを送れるのではないか、とか。
「見られている」というのなら、「タイムウィンドウ」には物理的質量があるのか、とか。
地域が限られている理由はなんなのか、とか。
だから、この映画の矛盾に気づいてしまった人は、興ざめだったかもしれない。
だが、この映画にはその矛盾を問題にさせないような強さがある。
どんどんまくし立てられて進む展開の速さや、それによって明らかにされていく楽しみなど、矛盾を補うための工夫がある。
観客に考えさせるポイントをうまく操作している。
そのために多少の矛盾があっても、観客は楽しめてしまう。
サスペンスとしての押さえどころを理解している、そんな映画だ。
SFにしては、満足度の高い映画だと思う。
(2007/11/28)
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