遊びとはいったいなんなのか。
私たちは遊びに追われるようになるという〈転倒〉しているような気がする。
遊びとは自由になる時間であったはずだ。
だが、遊びを外部委託してしまったときから、遊びはエンターテイメント、娯楽となった。
それゆえ、遊び(娯楽)のために遊び(自由さ)がなくなってしまった。
古い話だが、典型的なのがバスの運転手がポケモンGOをして事故を起こしたことだろう。
私たちは、外部に委託した遊びによって本来の遊びを失った。
自由さではなく、誰かに与えられたものを必死になって取り組むという不思議な事態に発展している。
それはすなわち本来あるべき自由さという主体性の欠如だ。
人間性と言い換えてもいい。
遊びにさえ追われる私たちに、自由さを感じるだけの人間性を復興できるか。
それはますます不自由さを極めるこの社会での、重要なファクターになることだろう。
仕事をするように遊んでいる。
遊んでいるよに仕事をしている。
パブリックになることを要求される仕事で何かに追われる時間をすごす。
そしてプライベートでも、娯楽に追われることで、作業のような時間をすごす。
だから、スマホから逃れることができない。
近所の公園に行くと、小学生くらいの子どもたちがゲーム機を持ち込んで遊んでいる。
一心不乱になって何かのやりとりをしている。
彼らは自分たちの主体性と引き換えに、誰かに遊ばせてもらうことで時間を費やしている。
しかし、それは異様な光景ではなくなった。
誰もが自由と引き換えに、不自由さを手に入れようとする。
偉そうに私だってその異様さを他人事として語ることはできない。
作業が嫌だと仕事で嘆いている私が、喜んで誰かが用意した作業に没頭する。
我々のかなしみは根深い。
私たちは遊びに追われるようになるという〈転倒〉しているような気がする。
遊びとは自由になる時間であったはずだ。
だが、遊びを外部委託してしまったときから、遊びはエンターテイメント、娯楽となった。
それゆえ、遊び(娯楽)のために遊び(自由さ)がなくなってしまった。
古い話だが、典型的なのがバスの運転手がポケモンGOをして事故を起こしたことだろう。
私たちは、外部に委託した遊びによって本来の遊びを失った。
自由さではなく、誰かに与えられたものを必死になって取り組むという不思議な事態に発展している。
それはすなわち本来あるべき自由さという主体性の欠如だ。
人間性と言い換えてもいい。
遊びにさえ追われる私たちに、自由さを感じるだけの人間性を復興できるか。
それはますます不自由さを極めるこの社会での、重要なファクターになることだろう。
仕事をするように遊んでいる。
遊んでいるよに仕事をしている。
パブリックになることを要求される仕事で何かに追われる時間をすごす。
そしてプライベートでも、娯楽に追われることで、作業のような時間をすごす。
だから、スマホから逃れることができない。
近所の公園に行くと、小学生くらいの子どもたちがゲーム機を持ち込んで遊んでいる。
一心不乱になって何かのやりとりをしている。
彼らは自分たちの主体性と引き換えに、誰かに遊ばせてもらうことで時間を費やしている。
しかし、それは異様な光景ではなくなった。
誰もが自由と引き換えに、不自由さを手に入れようとする。
偉そうに私だってその異様さを他人事として語ることはできない。
作業が嫌だと仕事で嘆いている私が、喜んで誰かが用意した作業に没頭する。
我々のかなしみは根深い。
なんとなく公園っていうのが違和感なのかな?
言語化できないけど
夏バテ、夏風邪、熱中症。
今年の夏は本当に厳しい。
体調不良のまっただ中です。
>せがーるさん
返信遅くなりました。
昔熱中したゲームは、「レディプレイヤー1」にもあったように、クリエイターに近づいていくという意味合いが強かったような気がします。
攻略方法を自分で見つけていくことそのものを楽しむ、という楽しみ方です。
それは、ある意味映画の面白さに迫ろうとする営みに似ています。
しかし、今は用意されたものを、用意されたようにこなしていくことがゲームになってきている気がします。
攻略本通りに操作して、隠しエンディングにたどり着く。
それは作業であり、似て非なる営みではないかと思います。
だから面白くない。飽きてしまう。
せがーるさんの言う、公園についての説明が余りにもないので、想像の域で言えば、公園も用意されたものを用意されたように楽しむ作業のようなところかもしれません。
広場や空き地といった「遊び」の要素はあまりありません。