評価点:79点/2018年/日本/120分
監督・脚本・編集:是枝裕和
家族とはなにか。
万引きを常習としている治(リリーフランキー)は、いつものようにスーパーで息子の祥太(城桧吏)とともに適当なものを万引きして帰った。
冬、帰り際子どもの泣き声がして、ふと見ると女の子が玄関の前に震えていた。
見かねた治は、女の子を連れて帰ると、妻の信代(安藤サクラ)や、義理の祖母初枝(樹木希林)は、温かく彼女を迎えた。
この家族は、奇妙な縁でつながった、いびつな家族だった。
言わずもがな、2018年のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、最高賞のパルムドールを受賞した。
「そして父になる」などで家族に焦点を当てた作品を数多く撮ってきた是枝監督にとっては、得意分野と言えるのだろう。
私は、パルムドールを受賞するような作品で、しかもこれだけたくさんの人が見に行っているというこの矛盾に、興味を引かれた。
マニアックな映画でなければ、映画賞は取れないし、マニアックであれば話題になっても見に行かない(理解できない)からだ。
周りに少し、見に行ったという人がいて、「よくわからなかった」と話していた。
「そして父になる」があまりにも一本筋でなるほど売れるのだろうが、そこに物語としての「揺らぎ」がなさ過ぎて、私は評価しなかった。
だから、少し不安に思いながら、それでも話題になっているので見に行こうと心に決めて、映画館に向かった。
二人の子どもとその母親を残して。
▼以下はネタバレあり▼
見に行った理由の一つは、松岡茉優が出ているという話を聞いたからだ(全く情報を集めていないので、予備知識なしで見た)。
ほとんど役どころも分からず、でも出ているなら見てみようと、評判の悪い「ハン・ソロ」を蹴って見に行った。
(「勝手にふえてろ」以来の、ほとんど唯一名前と顔が一致する最近の若い女優)
この映画が面白いのは、彼女がインタビューで答えていた、「演じているというより日常の一コマのような空間が楽しかった」という言葉に象徴されているような気がする。
悪く言えば、説明不足で、ほとんど彼らの人間関係、つながりがわからないようになっている。
約一年間の同居生活を、拾われてきた子、ゆり(りん)を通じて描かれていく。
だが、祥太にしても、治にしても、どういう経緯で家族になったのかよくわからない。
映画に慣れていない人は、その緩いテンポもあって、うまくつなぎ合わせられないかもしれない。
一方で、そのために家族の空気感が、「映画として見せる物語」ではなく、「日常の一コマ」を見せている。
「万引き家族」というタイトル通り、家族であることを、具体的に描いている。
だから説明的な台詞は一切無いし、台詞の裏側にある、それぞれの物語を読んでいくことで、物語が一定の方向に導かれていく姿を捉えていく必要がある。
端的に言えば、「映画賞審査委員」受けする映画だと言える。
浮気相手とともに元夫を殺した柴田信代。
彼女の言動から、彼女もDVや虐待に苦しんでいたのだろう。
それが原因かどうか、彼女は子どもが産めない。
それでも愛してくれる治と暮らすことで、彼女は自分の家族を見いだした。
より深く家族のことを思っていたのは彼女だろう。
「私たちじゃだめなんだ。祥太には」その言葉の重みが突き刺さる。
結婚という形は取らずに、同居人として生きる、怠惰な治。
できれば働きたくない、できれば簡単に生きていきたい。
けがが治っても働きたくない、だから万引きをして生きていた。
だが、彼は祥太と離れて初めて気づく。
ほしかったのはカネじゃなかった、お金のために同居していたのではなく、家族のために生きていたのだ、ということを。
後でも触れるが、初めて彼が父親になるのは、祥太と別れることを決意したバスを追いかける場面だ。
このとき初めて失ったものが、かけがえのないものであることを知るのだ。
治たちに拾われた、パチンコ店の駐車場に置き去りにされていた祥太。
祥太は物心がついたころから治たちに育てられた。
本当の親は知らない。
祥太がいなくなったことを問題にならないのだから、そういう親なのだろう。
この物語の大きな変化は、彼が善悪の判断が身についていくことにある。
だから、りんではなく、自分が捕まるべきだと思った。
万引きを辞めなきゃならない、そのためにはどこかで行動を起こさなければならない。
もしかしたら彼は治を止めたかったのかもしれない。
治たちに取り入れられて、依存され依存する関係の柴田初枝。
二人がどうやってこの家にやってきたのか、そのあたりは定かではない。
恐らく亜紀よりも先に治がこの家に転がり込んできたはずだ。
年金目当て、住む家の頼りにしていたことは確かだが、彼女もただ年金を使われているわけではなく、家族にあこがれていたのだろう。
そのおばあちゃんと唯一の血縁関係(実際には義理としてだが)がある、亜紀(さやか)。
彼女は「さやか」という源氏名でJKリフレでアルバイトをしている。
大学に進学して、オーストラリアで留学していることになっているが、フェードアウトしてこの家にすんでいる。
頼るところがなかった彼女にとって、祖父の元妻である初枝は遠いけれど無関係ではない、というちょうど良い距離の親族だったのだろう。
あまり治たち夫婦にはなじめていなかった彼女も、祖母だけにはべったりだった。
そして、りんがそこに加わることで、絆はよりいっそう強まることになる。
物語が急転する一つは、初枝が死んでしまうことだ。
そのことで家族のバランスが壊れる。
そして、祥太が大人になっていく。
社会化された彼は、善悪の判断に基づいて行動できるようになる。
ばらばらにされた彼らは、社会というメスで断罪されることになる。
この物語にあった、謎がここで明かされていくという描き方は見事だった。
独白する、語るということを、このような物語で入れ込むのは難しい。
本音を語るというのを終盤にもってきて、設定が明らかにされることで、この家族の異常さ、そして結束の強さが分かってくる。
この物語を端的に言い表すなら、りんの誘拐、初枝の死体遺棄が発覚することで、はじめて彼らは家族になるのだ。
終盤で、それぞれが家族について思い描く。
りんは、居場所のない家の玄関先で教えてもらった歌を歌い、亜紀はあの家に戻ってみる。
治は泣きながらバスを追い、祥太は初めて小声でおとうさんと呼ぶ。
単なる経済共同体だったはずの、奇妙な縁でつながった6人は、離ればなれになることで、初めて家族になる。
家族とはなんなのか。
そこに下ろされる外部からのメスだけでは、割り切れない何かがある。
安藤サクラはおそらく初めて画面で見た。
話題の女優だが、本当に素晴らしかった。
刑事から問われて、思わず答えられなかったあの表情は、賞賛に値するだろう。
こういう、社会的な視座を持ちながら個に迫る映画が、もっと日本で評価されてもいいと思う。
監督・脚本・編集:是枝裕和
家族とはなにか。
万引きを常習としている治(リリーフランキー)は、いつものようにスーパーで息子の祥太(城桧吏)とともに適当なものを万引きして帰った。
冬、帰り際子どもの泣き声がして、ふと見ると女の子が玄関の前に震えていた。
見かねた治は、女の子を連れて帰ると、妻の信代(安藤サクラ)や、義理の祖母初枝(樹木希林)は、温かく彼女を迎えた。
この家族は、奇妙な縁でつながった、いびつな家族だった。
言わずもがな、2018年のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、最高賞のパルムドールを受賞した。
「そして父になる」などで家族に焦点を当てた作品を数多く撮ってきた是枝監督にとっては、得意分野と言えるのだろう。
私は、パルムドールを受賞するような作品で、しかもこれだけたくさんの人が見に行っているというこの矛盾に、興味を引かれた。
マニアックな映画でなければ、映画賞は取れないし、マニアックであれば話題になっても見に行かない(理解できない)からだ。
周りに少し、見に行ったという人がいて、「よくわからなかった」と話していた。
「そして父になる」があまりにも一本筋でなるほど売れるのだろうが、そこに物語としての「揺らぎ」がなさ過ぎて、私は評価しなかった。
だから、少し不安に思いながら、それでも話題になっているので見に行こうと心に決めて、映画館に向かった。
二人の子どもとその母親を残して。
▼以下はネタバレあり▼
見に行った理由の一つは、松岡茉優が出ているという話を聞いたからだ(全く情報を集めていないので、予備知識なしで見た)。
ほとんど役どころも分からず、でも出ているなら見てみようと、評判の悪い「ハン・ソロ」を蹴って見に行った。
(「勝手にふえてろ」以来の、ほとんど唯一名前と顔が一致する最近の若い女優)
この映画が面白いのは、彼女がインタビューで答えていた、「演じているというより日常の一コマのような空間が楽しかった」という言葉に象徴されているような気がする。
悪く言えば、説明不足で、ほとんど彼らの人間関係、つながりがわからないようになっている。
約一年間の同居生活を、拾われてきた子、ゆり(りん)を通じて描かれていく。
だが、祥太にしても、治にしても、どういう経緯で家族になったのかよくわからない。
映画に慣れていない人は、その緩いテンポもあって、うまくつなぎ合わせられないかもしれない。
一方で、そのために家族の空気感が、「映画として見せる物語」ではなく、「日常の一コマ」を見せている。
「万引き家族」というタイトル通り、家族であることを、具体的に描いている。
だから説明的な台詞は一切無いし、台詞の裏側にある、それぞれの物語を読んでいくことで、物語が一定の方向に導かれていく姿を捉えていく必要がある。
端的に言えば、「映画賞審査委員」受けする映画だと言える。
浮気相手とともに元夫を殺した柴田信代。
彼女の言動から、彼女もDVや虐待に苦しんでいたのだろう。
それが原因かどうか、彼女は子どもが産めない。
それでも愛してくれる治と暮らすことで、彼女は自分の家族を見いだした。
より深く家族のことを思っていたのは彼女だろう。
「私たちじゃだめなんだ。祥太には」その言葉の重みが突き刺さる。
結婚という形は取らずに、同居人として生きる、怠惰な治。
できれば働きたくない、できれば簡単に生きていきたい。
けがが治っても働きたくない、だから万引きをして生きていた。
だが、彼は祥太と離れて初めて気づく。
ほしかったのはカネじゃなかった、お金のために同居していたのではなく、家族のために生きていたのだ、ということを。
後でも触れるが、初めて彼が父親になるのは、祥太と別れることを決意したバスを追いかける場面だ。
このとき初めて失ったものが、かけがえのないものであることを知るのだ。
治たちに拾われた、パチンコ店の駐車場に置き去りにされていた祥太。
祥太は物心がついたころから治たちに育てられた。
本当の親は知らない。
祥太がいなくなったことを問題にならないのだから、そういう親なのだろう。
この物語の大きな変化は、彼が善悪の判断が身についていくことにある。
だから、りんではなく、自分が捕まるべきだと思った。
万引きを辞めなきゃならない、そのためにはどこかで行動を起こさなければならない。
もしかしたら彼は治を止めたかったのかもしれない。
治たちに取り入れられて、依存され依存する関係の柴田初枝。
二人がどうやってこの家にやってきたのか、そのあたりは定かではない。
恐らく亜紀よりも先に治がこの家に転がり込んできたはずだ。
年金目当て、住む家の頼りにしていたことは確かだが、彼女もただ年金を使われているわけではなく、家族にあこがれていたのだろう。
そのおばあちゃんと唯一の血縁関係(実際には義理としてだが)がある、亜紀(さやか)。
彼女は「さやか」という源氏名でJKリフレでアルバイトをしている。
大学に進学して、オーストラリアで留学していることになっているが、フェードアウトしてこの家にすんでいる。
頼るところがなかった彼女にとって、祖父の元妻である初枝は遠いけれど無関係ではない、というちょうど良い距離の親族だったのだろう。
あまり治たち夫婦にはなじめていなかった彼女も、祖母だけにはべったりだった。
そして、りんがそこに加わることで、絆はよりいっそう強まることになる。
物語が急転する一つは、初枝が死んでしまうことだ。
そのことで家族のバランスが壊れる。
そして、祥太が大人になっていく。
社会化された彼は、善悪の判断に基づいて行動できるようになる。
ばらばらにされた彼らは、社会というメスで断罪されることになる。
この物語にあった、謎がここで明かされていくという描き方は見事だった。
独白する、語るということを、このような物語で入れ込むのは難しい。
本音を語るというのを終盤にもってきて、設定が明らかにされることで、この家族の異常さ、そして結束の強さが分かってくる。
この物語を端的に言い表すなら、りんの誘拐、初枝の死体遺棄が発覚することで、はじめて彼らは家族になるのだ。
終盤で、それぞれが家族について思い描く。
りんは、居場所のない家の玄関先で教えてもらった歌を歌い、亜紀はあの家に戻ってみる。
治は泣きながらバスを追い、祥太は初めて小声でおとうさんと呼ぶ。
単なる経済共同体だったはずの、奇妙な縁でつながった6人は、離ればなれになることで、初めて家族になる。
家族とはなんなのか。
そこに下ろされる外部からのメスだけでは、割り切れない何かがある。
安藤サクラはおそらく初めて画面で見た。
話題の女優だが、本当に素晴らしかった。
刑事から問われて、思わず答えられなかったあの表情は、賞賛に値するだろう。
こういう、社会的な視座を持ちながら個に迫る映画が、もっと日本で評価されてもいいと思う。
どう考えても解せないシナリオの不自然さについて。
治は、どうやって祥太を見つけて育てたのだろうか、という点だ。
治がパチンコ屋に置き去りにされていた祥太を拾って育てたというのなら、りんと二人の行方不明者がいたことになり、大きな事件である。
その場合、きっと親元に帰されるべきで、施設といった中途半端な選択はないはずだ。
もしそういうことがあり得たとして、本人が母親の信代に教えてもらなわなければならないほど幼く、どこに置き去りにされていたかもわからないころに拾われたのなら、「お父さん」と呼ぶことに抵抗があることが解せない。
「おじさん」になるはずがない。
(おじさんと呼べと育てていない限り)
おじさんと呼ぶ程に、お父さんとおじさんの区別がつけられるほどの大きさで拾ったとすれば、祥太の「覚えてない」という台詞は矛盾する。
いずれにしても、あのバスのシーンを撮りたいがために不自然なシナリオになったのではないか、と勘ぐってしまう。
まあ、だからといって評価を変える気はないが、頭をかしげるだけだ。
誰かもしその点について論理的に説明できるなら、教えてほしい。
(小説版からの引用は私としては望まないが)