少し前に読んだ鷲田清一の本に、表題のようなことが書いてあった。
なるほど、語るということは、騙ることになるのか。
私がネットに触れ始めたとき、情報の授業で「インターネットは本音をすぐに出せるようなメディアだ」というようなことを教わった記憶がある。
テレビやラジオは一方向的な表現媒体であるのに対して、インターネットは双方向的で、今まで隠されていたことが気軽に表明できるようになった。
だから、本音が現れるのだ、と。
同時期、すでに「ネカマ」ということばが私たちの間で話題に上っていた。
既に死語になりつつあるのかもしれないが、男が女の口調でネットに情報を書き込む人のことを呼んでいた。
日本でも多くの人がネットに触れるようになって、情報が本当に玉石混淆になってきた。
いや、ほとんどが「石」にすぎない。
どこかの本で、「道を尋ねられてたいていの人は本当のことを教えてあげる」ていどにネットは正直なものだ、というようなことも読んだことがある。
だが、今の状況は、あえて間違えた行き先を教える人がいても不思議ではない状況になっている。
語っていることは、ほとんどが騙っているわけだ。
私はそれを悲観的に指摘したいのではない。
むしろそれは、インターネットという表現が一定のところに落ち着いてきたのではないかとさえ思っている。
私たちは本音を言うときもあれば、誇張したり嘘を言ったりすることもある。
それは小説家が、本を書くときに多分に演出するのと同じで、語ることの特質がネットでも表れているだけなのだろう。
むしろ私たちは、ネットが語られたものであるいじょう、騙られたものでもあるということを知っておくことだろう。
情報という二次的な世界は、装われた世界である。
すべての意味内容は〈 〉にくくった形でしか示されない。
ノリつつシラケつつ、という態度が、本を読まない人にさえ強要されていく時代に突入した、というだけの話だ。
なるほど、語るということは、騙ることになるのか。
私がネットに触れ始めたとき、情報の授業で「インターネットは本音をすぐに出せるようなメディアだ」というようなことを教わった記憶がある。
テレビやラジオは一方向的な表現媒体であるのに対して、インターネットは双方向的で、今まで隠されていたことが気軽に表明できるようになった。
だから、本音が現れるのだ、と。
同時期、すでに「ネカマ」ということばが私たちの間で話題に上っていた。
既に死語になりつつあるのかもしれないが、男が女の口調でネットに情報を書き込む人のことを呼んでいた。
日本でも多くの人がネットに触れるようになって、情報が本当に玉石混淆になってきた。
いや、ほとんどが「石」にすぎない。
どこかの本で、「道を尋ねられてたいていの人は本当のことを教えてあげる」ていどにネットは正直なものだ、というようなことも読んだことがある。
だが、今の状況は、あえて間違えた行き先を教える人がいても不思議ではない状況になっている。
語っていることは、ほとんどが騙っているわけだ。
私はそれを悲観的に指摘したいのではない。
むしろそれは、インターネットという表現が一定のところに落ち着いてきたのではないかとさえ思っている。
私たちは本音を言うときもあれば、誇張したり嘘を言ったりすることもある。
それは小説家が、本を書くときに多分に演出するのと同じで、語ることの特質がネットでも表れているだけなのだろう。
むしろ私たちは、ネットが語られたものであるいじょう、騙られたものでもあるということを知っておくことだろう。
情報という二次的な世界は、装われた世界である。
すべての意味内容は〈 〉にくくった形でしか示されない。
ノリつつシラケつつ、という態度が、本を読まない人にさえ強要されていく時代に突入した、というだけの話だ。
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