評価点:81点/2003年/アメリカ
監督:アラン・パーカ
観客を罠にかける一流の「サスペンス・ドラマ」。
アメリカ・テキサス州はまだ死刑制度が存在している。
そのテキサスで、レイプ殺人を犯した、元大学教授デビッド・ゲイル(ケビン・スペイシー)は、四日後に死刑執行を控えていた。
そんな彼は100万ドルで、雑誌記者ビッツィ(ケイト・ウィンスレット)のインタビューに独占で受けると申し込んできた。
戸惑うビッツィは刑務所で、デビッドにあう。
デビッドは自分は無罪であり、その冤罪を証明していほしいと彼女に頼む。
やがて彼は「真実」を語り始める。
死刑反対主義者が、死刑にされる。その真相は?
このエキサイティングな設定は、それだけでサスペンス効果を存分に発揮する。
しかも主演はケビン・スペイシー。期待は高まるばかりである。
しかし、この映画は、そんな期待を見事に裏切ってくれる。
日本でそれほど話題にならなかったことも大きい。
ラストでどんどんひっくり返されていく真相は、誰もが舌を巻くだろう。
映画館で観られなかったことを後悔しながら、この文章を書いている。
ケビンには「ユージュアル・サクペクツ」でも「裏切られた」が今回もものの見事に観客を「裏切って」くれる。
▼以下はネタバレあり▼
この映画の肝は、冒頭の15分とラストの30分にある。
比較的長い映画であるが、この45分をきちんと把握できなければ、ぞんぶんに楽しむことが出来ない。
冒頭の15分では、畳み掛けるように現在の設定が提示されていく。
レイプ殺人で元大学教授が死刑囚として執行を目前に控えていること。
その元大学教授は死刑反対主義者であったこと。
そのデビッド・ゲイルが、一人の女性記者にインタビューを受けることになったこと。
デビッドは非常に優秀な研究者であり、テレビに出演するほどであったこと。
など、多くの情報が提示される。
時間構成として、死刑執行目前の現在から始まり、現在と過去(デビッドの回想)とが交互に展開されるため、どうしても冒頭の情報量が多くなってしまう。
しかし、回想でデビッドに感情移入させることに成功しているため、見逃しても、映画として苦痛な展開ではない。
逆に、きちんと把握できれば、切れ切れだった情報がどんどんつながっていくため、サスペンス効果は増大する。
もともと、はじめの設定は非常におおきなサスペンス効果を生んでいる。
以後、観客は、それを「客観的事実」しか信じないビッツィとともに、「過去に何があったのか」「死刑を免れることができるのか」という疑問を追うことになる。
ラスト30分で、真相が死刑反対主義の殉教者としての「自殺」であること、全てはカウボーイが仕組んだことであることが明かされると、ビデオの捜索と、死刑執行の阻止をめぐっての緊迫感で展開される。
「死刑賛成」「死刑反対」というデモの様子や、「最後の晩餐」のメニューなどを断片的に挿入することによって、緊迫感をあおる。
ここで、観客の興奮は最高潮に達するのである。
ちょうど「隣人は静かに笑う」の主人公が息子を載せた車を追跡する場面と同じような興奮である。
そして執行されたことを告げる政府の発表。
誰もが、「隣人~」のように「後味の悪い」結末を予想する。
しかし、その衝撃の後に続く、不可思議なシーンの連続。
弁護士のお金がカウボーイの手に渡り、そのお金がスペインの妻のいるマンションに届けられる。
そして、もう一つの包みがビッツィに届くと、一本のビデオテープ。
そこに「真相」があり、実は全ては四人(デビッド、コンスタンス、カウボーイ、弁護士)が仕組んだことであり、二人ともが自殺であったことが判明するのである。
彼らの目的は大きくは二つあり、一つは、「死刑判決に対しての冤罪があった場合、それを覆すことが出来ない」ということを証明する為。
一つは、デビッド・ゲイルの学生へのレイプが、冤罪であったことを息子に証明し、息子が成長するまでお金に不自由しないための養育費を渡す為。
そのために、手段として、のこり四日となった時点で「口の堅い」女性記者を雇い(おそらくレイプに同情させるため女性記者を選んだ)、四人で作り上げた「真相」をつかませたのである。
口が堅く(自分が逮捕されても情報提供者の名前を明かさなかった)、「客観的事実」のみを信じる(「真相」が客観的であることの証明)者をしかも三日前にインタビュアーに選んだことも計画のうちであったのだ。
その結末への伏線は、かなり多い。
例えば、上にあげたこともそうだが、弁護士が冒頭で「これからが勝負だ」というような台詞を言うことや、デビッド・ゲイルの台詞、
「自由への鍵はここにあるのだ、という犯人のメッセージだ」
「彼女は自分の命を犠牲にしながら人命の救済を優先させた」
「重要なのは息子の父親がどんな人間だったかだ」などである。
また、カウボーイの執拗な尾行や、カウボーイが弁護士事務所に出入りしていたことなども伏線だろう。
この映画のすごいところは、その真相が、ラストに一気に次々と明かされていくことである。
また、緊迫感のあとに違和感をあたえ、一気に真相に向かわせるという観客の心理をコントロールしたことも完成度の高さをうかがわせる。
しかし、惜しい点はいくつかある。
CMや予告編で言われているような、「死刑制度」を見直した作品ではないことである。
この映画を「デッドマン・ウォーキング」のような、死刑制度に対する問いかけの映画と考えて観た人にとっては、疑問点が多い作品になるだろう。
それが象徴的に表れているのは、テレビ討論会での知事とデビットとのやりとりだ。
「ではこれまで死刑執行された者の中で冤罪だった人が、どれくらいいるんです? 具体的に言ってみて下さい(知事)」
「……(デビット)」
この知事の質問は、死刑制度のを肯定するための決定的な根拠のようになっている。
また、同時にこの知事の質問が、この映画の事件を引き起こした動機となっている。
しかし、冤罪であった人が証明されない事と、死刑制度の是非を問うということは全く問題が違う。
むしろ、冤罪かどうかもはや証明する事が出来なくなってしまった、ということが、受刑者を死刑に追いやる最大の問題なのである。
その点を言わなければ、死刑制度を直視したことにはならない。
このシーンで僕はかなり違和感を持ったが、それがこの映画の死刑制度への考え方を表わしているのだ。
そもそも、人間の命の尊厳、という点を問題にしないという時点で、すでに本質を見失っているのである。
このように、この映画はあくまで「サスペンス」であると捉えなければならない。
その意味では、社会的に突っ込んだ映画として惜しい部分がある。
また、四人中の二人の目的が不透明なのが気になる。
弁護士とカウボーイである。
特に後者は、いわば無実の罪で追われることになる。
そこまで彼に決断させた理由は何なのか。
ただ単に死刑反対が目的だったというには、先ほど言ったように、社会的に問いかける力は小さい。
いたずらに司法を混乱させただけのようにさえ思える。
彼のリスクを犯した動機が見えないことは、すこし残念である。
余談だが、ケイト・ウィンスレットはご存知「タイタニック」のヒロイン。
……ちょっと太っちゃった?
しかし、まあ、いい映画に出たね、と思う。
(2003/10/8執筆)
監督:アラン・パーカ
観客を罠にかける一流の「サスペンス・ドラマ」。
アメリカ・テキサス州はまだ死刑制度が存在している。
そのテキサスで、レイプ殺人を犯した、元大学教授デビッド・ゲイル(ケビン・スペイシー)は、四日後に死刑執行を控えていた。
そんな彼は100万ドルで、雑誌記者ビッツィ(ケイト・ウィンスレット)のインタビューに独占で受けると申し込んできた。
戸惑うビッツィは刑務所で、デビッドにあう。
デビッドは自分は無罪であり、その冤罪を証明していほしいと彼女に頼む。
やがて彼は「真実」を語り始める。
死刑反対主義者が、死刑にされる。その真相は?
このエキサイティングな設定は、それだけでサスペンス効果を存分に発揮する。
しかも主演はケビン・スペイシー。期待は高まるばかりである。
しかし、この映画は、そんな期待を見事に裏切ってくれる。
日本でそれほど話題にならなかったことも大きい。
ラストでどんどんひっくり返されていく真相は、誰もが舌を巻くだろう。
映画館で観られなかったことを後悔しながら、この文章を書いている。
ケビンには「ユージュアル・サクペクツ」でも「裏切られた」が今回もものの見事に観客を「裏切って」くれる。
▼以下はネタバレあり▼
この映画の肝は、冒頭の15分とラストの30分にある。
比較的長い映画であるが、この45分をきちんと把握できなければ、ぞんぶんに楽しむことが出来ない。
冒頭の15分では、畳み掛けるように現在の設定が提示されていく。
レイプ殺人で元大学教授が死刑囚として執行を目前に控えていること。
その元大学教授は死刑反対主義者であったこと。
そのデビッド・ゲイルが、一人の女性記者にインタビューを受けることになったこと。
デビッドは非常に優秀な研究者であり、テレビに出演するほどであったこと。
など、多くの情報が提示される。
時間構成として、死刑執行目前の現在から始まり、現在と過去(デビッドの回想)とが交互に展開されるため、どうしても冒頭の情報量が多くなってしまう。
しかし、回想でデビッドに感情移入させることに成功しているため、見逃しても、映画として苦痛な展開ではない。
逆に、きちんと把握できれば、切れ切れだった情報がどんどんつながっていくため、サスペンス効果は増大する。
もともと、はじめの設定は非常におおきなサスペンス効果を生んでいる。
以後、観客は、それを「客観的事実」しか信じないビッツィとともに、「過去に何があったのか」「死刑を免れることができるのか」という疑問を追うことになる。
ラスト30分で、真相が死刑反対主義の殉教者としての「自殺」であること、全てはカウボーイが仕組んだことであることが明かされると、ビデオの捜索と、死刑執行の阻止をめぐっての緊迫感で展開される。
「死刑賛成」「死刑反対」というデモの様子や、「最後の晩餐」のメニューなどを断片的に挿入することによって、緊迫感をあおる。
ここで、観客の興奮は最高潮に達するのである。
ちょうど「隣人は静かに笑う」の主人公が息子を載せた車を追跡する場面と同じような興奮である。
そして執行されたことを告げる政府の発表。
誰もが、「隣人~」のように「後味の悪い」結末を予想する。
しかし、その衝撃の後に続く、不可思議なシーンの連続。
弁護士のお金がカウボーイの手に渡り、そのお金がスペインの妻のいるマンションに届けられる。
そして、もう一つの包みがビッツィに届くと、一本のビデオテープ。
そこに「真相」があり、実は全ては四人(デビッド、コンスタンス、カウボーイ、弁護士)が仕組んだことであり、二人ともが自殺であったことが判明するのである。
彼らの目的は大きくは二つあり、一つは、「死刑判決に対しての冤罪があった場合、それを覆すことが出来ない」ということを証明する為。
一つは、デビッド・ゲイルの学生へのレイプが、冤罪であったことを息子に証明し、息子が成長するまでお金に不自由しないための養育費を渡す為。
そのために、手段として、のこり四日となった時点で「口の堅い」女性記者を雇い(おそらくレイプに同情させるため女性記者を選んだ)、四人で作り上げた「真相」をつかませたのである。
口が堅く(自分が逮捕されても情報提供者の名前を明かさなかった)、「客観的事実」のみを信じる(「真相」が客観的であることの証明)者をしかも三日前にインタビュアーに選んだことも計画のうちであったのだ。
その結末への伏線は、かなり多い。
例えば、上にあげたこともそうだが、弁護士が冒頭で「これからが勝負だ」というような台詞を言うことや、デビッド・ゲイルの台詞、
「自由への鍵はここにあるのだ、という犯人のメッセージだ」
「彼女は自分の命を犠牲にしながら人命の救済を優先させた」
「重要なのは息子の父親がどんな人間だったかだ」などである。
また、カウボーイの執拗な尾行や、カウボーイが弁護士事務所に出入りしていたことなども伏線だろう。
この映画のすごいところは、その真相が、ラストに一気に次々と明かされていくことである。
また、緊迫感のあとに違和感をあたえ、一気に真相に向かわせるという観客の心理をコントロールしたことも完成度の高さをうかがわせる。
しかし、惜しい点はいくつかある。
CMや予告編で言われているような、「死刑制度」を見直した作品ではないことである。
この映画を「デッドマン・ウォーキング」のような、死刑制度に対する問いかけの映画と考えて観た人にとっては、疑問点が多い作品になるだろう。
それが象徴的に表れているのは、テレビ討論会での知事とデビットとのやりとりだ。
「ではこれまで死刑執行された者の中で冤罪だった人が、どれくらいいるんです? 具体的に言ってみて下さい(知事)」
「……(デビット)」
この知事の質問は、死刑制度のを肯定するための決定的な根拠のようになっている。
また、同時にこの知事の質問が、この映画の事件を引き起こした動機となっている。
しかし、冤罪であった人が証明されない事と、死刑制度の是非を問うということは全く問題が違う。
むしろ、冤罪かどうかもはや証明する事が出来なくなってしまった、ということが、受刑者を死刑に追いやる最大の問題なのである。
その点を言わなければ、死刑制度を直視したことにはならない。
このシーンで僕はかなり違和感を持ったが、それがこの映画の死刑制度への考え方を表わしているのだ。
そもそも、人間の命の尊厳、という点を問題にしないという時点で、すでに本質を見失っているのである。
このように、この映画はあくまで「サスペンス」であると捉えなければならない。
その意味では、社会的に突っ込んだ映画として惜しい部分がある。
また、四人中の二人の目的が不透明なのが気になる。
弁護士とカウボーイである。
特に後者は、いわば無実の罪で追われることになる。
そこまで彼に決断させた理由は何なのか。
ただ単に死刑反対が目的だったというには、先ほど言ったように、社会的に問いかける力は小さい。
いたずらに司法を混乱させただけのようにさえ思える。
彼のリスクを犯した動機が見えないことは、すこし残念である。
余談だが、ケイト・ウィンスレットはご存知「タイタニック」のヒロイン。
……ちょっと太っちゃった?
しかし、まあ、いい映画に出たね、と思う。
(2003/10/8執筆)
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