評価点:93点/1995年/アメリカ
監督:ブライアン・シンガー
絶対にだまされる、究極のミス・ディレクション映画。
物語はカリフォルニア州のサンペドロ、昨日麻薬取引があった港で起こった大量殺人からはじまる。
生存者は二人。一人は身体障害者のキント(ケヴィン・スペイシー)。
もう一人は取引をしていた組織の下っ端。
しかし彼は大やけどを負い、たいした証言はできない。
そこに六週間前にキートンという容疑者を逮捕した刑事が、昨日の事件に巻き込まれたと聞いて、キントに話を聞きだそうとする。
キントの話によれば、ニューヨークで六週間前に容疑者として捕らえられた五人が事件に関わっているという。
やがて大やけどの下っ端の口から「カイザー・ソゼ」という伝説の悪党の名前が出てきて。。。
ブライアン・シンガー監督の、秀逸ミステリー。
観ていない人はぜひ、見るべきだ。
この映画によって、「ミス・ディレクション」という手法が映画ではやり始めた(らしい)。
「シックス・センス」や、「アザーズ」といった作品にも取り入れられている手法だ。
「ミス・ディレクション」とは、一種の錯覚のことであり、ある一定の「真相」に向かうように観客を情報で操作し、それをラストでひっくり返すというものだ。
読まれないように、観客には欠如した情報しかもたらされない。
欠如した情報を補完しようと推理していくと、否が応でも間違った答えを描いてしまう。
だから、基本的に、「だまされて当然」の映画なのだ。
それを見る前からわかっていたとしても、だまされてしまうところが、脚本家と監督の見せ方の上手さを表している。
▼以下はネタバレあり▼
この作品では、「六週間前」から、「昨日」までに起こった事柄について一人の男の話から知る、という形式で進む。
実はもうこの時点で、ミス・ディレクションへの伏線が始まっている。
この男以外からの情報は、殆んど皆無であり、この男を信じるより他ないという状況を作り出している。
信じ込ませるため話をするキントは、身体障害者という、弱者を演じている。
しかも、彼のプロフィールでは、犯罪者は犯罪者でも、凶悪犯ではなく、境遇が悪かったために犯罪を犯してしまったというような、善の部分も兼ね備えた犯罪者とされている人物だ。
だからこの「情報源の偏狭さ」に対して観客は疑念を持ちにくくなっている。
そしてトラック強奪事件の容疑者として呼ばれた五人が面通しした話からニューヨークのエメラルドを強奪し、麻薬を「レッドフット」というカリフォルニアの麻薬王に売るという話をし、レッドフットからの仕事で麻薬をつかまされたという話につなげる。
この後、もう一人の生存者から「カイザー・ソゼ」という伝説の男の名前が出ると、今度は彼が全て裏で意図を引いていたかのように、「昨日」の事件へと持っていく。
しかし、そこでは実際には麻薬取引が行なわれていた形跡はなく、麻薬取引ではなく、カイザー・ソゼの証人の暗殺が目的であったことを明かす。
そして調書をとっている刑事に、カイザーソゼの正体がキートンであったかのように「暴かせる」のである。
それは言うまでもなく、同時に観客にもそう思わせるという二重の「聞き手」になっているのである。
しかし、伏線はきちんと引いてある。
まず一人だけの証人、ということは先に言ったが、保釈まで「二時間」という時間設定。
これは映画を観ている人間と同じ時間であることがうまいのだが、この二時間の時間をつぶすため、それまで証言を避けてきたキントが急に態度を軟化させて
べらべらとしゃべり始めるのである。
次に、「カイザー・ソゼ」の名前が判明してから、急にカイザー・ソゼという人物の影が表れ始めるということ。
しかも、カイザー・ソゼという人物がどんな人物であるのか、回想では知らないような素振りであったのに、刑事に話すときには、彼の伝説について雄弁に語る。
しかも、やたらとそのおそろしさを強調する。
この態度の変貌に、伏線が引いてある。
そして「チクリはしない」と断言しているにもかかわらず、キートンを黒幕に仕向けようという明らかな意図がみられるということ。
これは、自分が犯人だと決して言わない、という意味なのである。
また、カメラワークも実に上手い。
真相が明かされるとき、初めて「キント」からのカメラに切り替わり、全てが創作の話であったことが判るようになっている。
ここで、観客が観ている視点が逆転するのである。
これまで刑事の目を通してみていたキントを今度はキントの目から刑事たち側をみることによって、刑事たちが見落としていた背後に目が向くのである。
これだけの伏線が引いてあるので、読めなくはない。
けれど、疑問を持ったとしても、読むことは非常に難しいだろう。
なぜならこれがミス・ディレクションだからだ。
それにしても、この映画、この「裏切り」はたまらない。
(2003/10/8執筆)
修正。
(2010/2/7執筆)
監督:ブライアン・シンガー
絶対にだまされる、究極のミス・ディレクション映画。
物語はカリフォルニア州のサンペドロ、昨日麻薬取引があった港で起こった大量殺人からはじまる。
生存者は二人。一人は身体障害者のキント(ケヴィン・スペイシー)。
もう一人は取引をしていた組織の下っ端。
しかし彼は大やけどを負い、たいした証言はできない。
そこに六週間前にキートンという容疑者を逮捕した刑事が、昨日の事件に巻き込まれたと聞いて、キントに話を聞きだそうとする。
キントの話によれば、ニューヨークで六週間前に容疑者として捕らえられた五人が事件に関わっているという。
やがて大やけどの下っ端の口から「カイザー・ソゼ」という伝説の悪党の名前が出てきて。。。
ブライアン・シンガー監督の、秀逸ミステリー。
観ていない人はぜひ、見るべきだ。
この映画によって、「ミス・ディレクション」という手法が映画ではやり始めた(らしい)。
「シックス・センス」や、「アザーズ」といった作品にも取り入れられている手法だ。
「ミス・ディレクション」とは、一種の錯覚のことであり、ある一定の「真相」に向かうように観客を情報で操作し、それをラストでひっくり返すというものだ。
読まれないように、観客には欠如した情報しかもたらされない。
欠如した情報を補完しようと推理していくと、否が応でも間違った答えを描いてしまう。
だから、基本的に、「だまされて当然」の映画なのだ。
それを見る前からわかっていたとしても、だまされてしまうところが、脚本家と監督の見せ方の上手さを表している。
▼以下はネタバレあり▼
この作品では、「六週間前」から、「昨日」までに起こった事柄について一人の男の話から知る、という形式で進む。
実はもうこの時点で、ミス・ディレクションへの伏線が始まっている。
この男以外からの情報は、殆んど皆無であり、この男を信じるより他ないという状況を作り出している。
信じ込ませるため話をするキントは、身体障害者という、弱者を演じている。
しかも、彼のプロフィールでは、犯罪者は犯罪者でも、凶悪犯ではなく、境遇が悪かったために犯罪を犯してしまったというような、善の部分も兼ね備えた犯罪者とされている人物だ。
だからこの「情報源の偏狭さ」に対して観客は疑念を持ちにくくなっている。
そしてトラック強奪事件の容疑者として呼ばれた五人が面通しした話からニューヨークのエメラルドを強奪し、麻薬を「レッドフット」というカリフォルニアの麻薬王に売るという話をし、レッドフットからの仕事で麻薬をつかまされたという話につなげる。
この後、もう一人の生存者から「カイザー・ソゼ」という伝説の男の名前が出ると、今度は彼が全て裏で意図を引いていたかのように、「昨日」の事件へと持っていく。
しかし、そこでは実際には麻薬取引が行なわれていた形跡はなく、麻薬取引ではなく、カイザー・ソゼの証人の暗殺が目的であったことを明かす。
そして調書をとっている刑事に、カイザーソゼの正体がキートンであったかのように「暴かせる」のである。
それは言うまでもなく、同時に観客にもそう思わせるという二重の「聞き手」になっているのである。
しかし、伏線はきちんと引いてある。
まず一人だけの証人、ということは先に言ったが、保釈まで「二時間」という時間設定。
これは映画を観ている人間と同じ時間であることがうまいのだが、この二時間の時間をつぶすため、それまで証言を避けてきたキントが急に態度を軟化させて
べらべらとしゃべり始めるのである。
次に、「カイザー・ソゼ」の名前が判明してから、急にカイザー・ソゼという人物の影が表れ始めるということ。
しかも、カイザー・ソゼという人物がどんな人物であるのか、回想では知らないような素振りであったのに、刑事に話すときには、彼の伝説について雄弁に語る。
しかも、やたらとそのおそろしさを強調する。
この態度の変貌に、伏線が引いてある。
そして「チクリはしない」と断言しているにもかかわらず、キートンを黒幕に仕向けようという明らかな意図がみられるということ。
これは、自分が犯人だと決して言わない、という意味なのである。
また、カメラワークも実に上手い。
真相が明かされるとき、初めて「キント」からのカメラに切り替わり、全てが創作の話であったことが判るようになっている。
ここで、観客が観ている視点が逆転するのである。
これまで刑事の目を通してみていたキントを今度はキントの目から刑事たち側をみることによって、刑事たちが見落としていた背後に目が向くのである。
これだけの伏線が引いてあるので、読めなくはない。
けれど、疑問を持ったとしても、読むことは非常に難しいだろう。
なぜならこれがミス・ディレクションだからだ。
それにしても、この映画、この「裏切り」はたまらない。
(2003/10/8執筆)
修正。
(2010/2/7執筆)
小林信彦ファンです。
小林さんに「最後まで犯人がわからない」なんて批評を書く映画評論家がいると嘆かせたのは「氷の微笑」ですよ。
「ユージュアル・サスペクツ」については、実際にやっていないこと(虚偽の証言)を映像化する(画で見せる)のはミステリ映画のルールに反すると書いていたと思います。
小林さんの批評を読む前に、映画を観ていて、とても面白かったものですから、そういう法則が存在するのか、とさっそくインプットした次第です。
先日放送されたスペシャルドラマ「Wの悲劇」でも、虚偽の証言が映像で再現されていました。「相棒」も。というか、いまどきそんなことは当たり前なんですよね。
情報ありがとうございます。
近日中に訂正しておきます。
確かに、小林はそう言っていたような気がします。
言われて思い出しました。
いい加減に書いてすみません。
以後気をつけます。
「SAW」も確か回想が大半でしたね。
あれは回想での裏切りはありませんでしたが、観客を誘導するためにつかっていたことは間違いありません。
小林の言うことも一理ありますね、今更ですが。