評価点:85点/1993年/アメリカ
監督:アンドリュー・デイビス
人気ドラマシリーズの映画化リメイク。
リチャード・キンブル医師(ハリソン・フォード)が帰宅すると、何者かが侵入し、妻を襲っていた。
キンブルは抵抗したが、犯人を取り逃がしてしまう。
その話を警察に話すが信じてもらえず、彼は凶悪犯として死刑を言い渡される。
そして、護送車で刑務所に送られる途中、囚人がトラブルを起し、車が転倒する。
何とか逃げ出したキンブルは、自らの冤罪を晴らすべく、逃亡者となって真犯人を追う。
テレビで幾度となく放送されているが、何度観ても見飽きない。
こうしたサスペンスものというのは、一度観れば充分なのだが、この映画はそれだけ多くの魅力を含んでいる。
▼以下はネタバレあり▼
いまさら確認する事もないのだが、この映画のうまさは、「追う」事と、「逃げる」事とを同時に行わなければならない、というプロットにあると言っていい。
真犯人を追わなければならないという主人公の命題は、主人公の記憶の中にあるため、観客はそこに介入する事ができない。
それは「バイオ・ハザード」での手続きと同じである。
具体的に言えば、主人公が新薬RD-90に対して異を唱えていたということは、それが明かされる物語終盤まで観客は知らされていないので、その謎をキンブルと同じ感覚で「解く」ことは不可能である。
つまり、ここに観客が彼に同化する余地は全くないのである。
しかし、トミー・リー・ジョーンズという徹底的な追っ手を設けることで、主人公は、「逃げる」という大きなリスクを持つ事になる。
この部分は観客も同化できるのである。
また、連邦捜査官ジェラードの頭脳明晰な追跡を同時的に展開させる事によって、両者に感情移入させることに成功している。
ジェラードへの同化は、彼の側から描くというだけでなく、「音」によってもそれを促している。
キンブルが救急車を奪ってトンネルに逃げ込んだとき、ジェラードの耳に水の音が聞こえてくる。
「どこへ逃げたのだ!」と叫んだときには殆んど聞こえなかったのに、次のアングルでは水の音が強調されたかたちで聞こえてくるのである。
また、キンブルの弁護士への電話に残された周囲の雑音も同じである。
はじめはカンカンカンという踏み切りの音だけが聞こえているが、数回聞くとジェラードの言うとおり、車掌の声が聞こえる。
この二つの例に代表されるように、どの音を大きくするかで、ジェラードの認知にまで観客を引き込んでいる。
それほど珍しい手法ではないが、こうした細かい演出によって、ジェラードとキンブルの緊迫感あるやりとりを盛り上げている。
ジェラードのすさまじい追跡が見事であったために、その後、「追跡者」という同じジェラードをモティーフにした作品が、撮られることになったのである。
「ダブル・ジョパディ」もこのシリーズの一つに数えていいだろう。
脚本の緩急も非常にうまい。
追っ手(ジェラード)と逃げ手(キンブル)が数回、邂逅する。
ダムのトンネル、刑務所の中、そしてラスト。
彼らの邂逅がそのまま物語の盛り上がりになっているのである。
見えない犯人を、追うという難しい展開を、二人のやりとりで緊迫感を持続させながらみせた。
これが、この映画の成功の理由である。
この作品でも、長いテレビ・シリーズをコンパクトにまとめた、脚色の手腕を評価する必要があるだろう。
もちろん、テレビ・シリーズにあった魅力が、映画ではなくなってしまったということはあったとしても、完成度の高さを否定する事はできない。
(ちなみに、僕はテレビ・シリーズを全く知らない。
最近リメイクされた現代版の「逃亡者」も見ていない。)
この映画で、もうひとつ面白いと思ったことは、ハリソン・フォードの「ヒゲ」である。
ハリソン・フォード扮するリチャード・キンブルは、大学の教授であり、医師である。
彼は日ごろヒゲを蓄え、威厳のある風貌をしていた。
ヒゲのある彼は正に、「教授」である。
しかし、逃亡した直後、きれいすっきりそのヒゲをそり落としてしまう。
彼はヒゲを剃る事によって「闘う男」=逃亡者になったのである。
これが逆では話にならない。
ヒゲは、ここでは権力の象徴であり、尊敬されるべき人間の象徴なのである。
それを剃り落としてしまうということは、ゼロから、全てを捨てて犯人を見つけ出し、事件の真相を明らかにする、という彼の決意の表れなのである。
(2004/4/19執筆)
監督:アンドリュー・デイビス
人気ドラマシリーズの映画化リメイク。
リチャード・キンブル医師(ハリソン・フォード)が帰宅すると、何者かが侵入し、妻を襲っていた。
キンブルは抵抗したが、犯人を取り逃がしてしまう。
その話を警察に話すが信じてもらえず、彼は凶悪犯として死刑を言い渡される。
そして、護送車で刑務所に送られる途中、囚人がトラブルを起し、車が転倒する。
何とか逃げ出したキンブルは、自らの冤罪を晴らすべく、逃亡者となって真犯人を追う。
テレビで幾度となく放送されているが、何度観ても見飽きない。
こうしたサスペンスものというのは、一度観れば充分なのだが、この映画はそれだけ多くの魅力を含んでいる。
▼以下はネタバレあり▼
いまさら確認する事もないのだが、この映画のうまさは、「追う」事と、「逃げる」事とを同時に行わなければならない、というプロットにあると言っていい。
真犯人を追わなければならないという主人公の命題は、主人公の記憶の中にあるため、観客はそこに介入する事ができない。
それは「バイオ・ハザード」での手続きと同じである。
具体的に言えば、主人公が新薬RD-90に対して異を唱えていたということは、それが明かされる物語終盤まで観客は知らされていないので、その謎をキンブルと同じ感覚で「解く」ことは不可能である。
つまり、ここに観客が彼に同化する余地は全くないのである。
しかし、トミー・リー・ジョーンズという徹底的な追っ手を設けることで、主人公は、「逃げる」という大きなリスクを持つ事になる。
この部分は観客も同化できるのである。
また、連邦捜査官ジェラードの頭脳明晰な追跡を同時的に展開させる事によって、両者に感情移入させることに成功している。
ジェラードへの同化は、彼の側から描くというだけでなく、「音」によってもそれを促している。
キンブルが救急車を奪ってトンネルに逃げ込んだとき、ジェラードの耳に水の音が聞こえてくる。
「どこへ逃げたのだ!」と叫んだときには殆んど聞こえなかったのに、次のアングルでは水の音が強調されたかたちで聞こえてくるのである。
また、キンブルの弁護士への電話に残された周囲の雑音も同じである。
はじめはカンカンカンという踏み切りの音だけが聞こえているが、数回聞くとジェラードの言うとおり、車掌の声が聞こえる。
この二つの例に代表されるように、どの音を大きくするかで、ジェラードの認知にまで観客を引き込んでいる。
それほど珍しい手法ではないが、こうした細かい演出によって、ジェラードとキンブルの緊迫感あるやりとりを盛り上げている。
ジェラードのすさまじい追跡が見事であったために、その後、「追跡者」という同じジェラードをモティーフにした作品が、撮られることになったのである。
「ダブル・ジョパディ」もこのシリーズの一つに数えていいだろう。
脚本の緩急も非常にうまい。
追っ手(ジェラード)と逃げ手(キンブル)が数回、邂逅する。
ダムのトンネル、刑務所の中、そしてラスト。
彼らの邂逅がそのまま物語の盛り上がりになっているのである。
見えない犯人を、追うという難しい展開を、二人のやりとりで緊迫感を持続させながらみせた。
これが、この映画の成功の理由である。
この作品でも、長いテレビ・シリーズをコンパクトにまとめた、脚色の手腕を評価する必要があるだろう。
もちろん、テレビ・シリーズにあった魅力が、映画ではなくなってしまったということはあったとしても、完成度の高さを否定する事はできない。
(ちなみに、僕はテレビ・シリーズを全く知らない。
最近リメイクされた現代版の「逃亡者」も見ていない。)
この映画で、もうひとつ面白いと思ったことは、ハリソン・フォードの「ヒゲ」である。
ハリソン・フォード扮するリチャード・キンブルは、大学の教授であり、医師である。
彼は日ごろヒゲを蓄え、威厳のある風貌をしていた。
ヒゲのある彼は正に、「教授」である。
しかし、逃亡した直後、きれいすっきりそのヒゲをそり落としてしまう。
彼はヒゲを剃る事によって「闘う男」=逃亡者になったのである。
これが逆では話にならない。
ヒゲは、ここでは権力の象徴であり、尊敬されるべき人間の象徴なのである。
それを剃り落としてしまうということは、ゼロから、全てを捨てて犯人を見つけ出し、事件の真相を明らかにする、という彼の決意の表れなのである。
(2004/4/19執筆)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます