監督:クァク・ジェヨン
大学生のキョヌ(チャ・テヒョン)と、「彼女」(チョン・ジェヨン)との出会いは、地下鉄のホームだった。
泥酔状態の彼女が、乗客の頭に汚物をぶちまけてしまう。
近くにいたキョヌに「ダーリン」と声を掛けられたことから、「彼女」を介抱するハメに。
やがて、キョヌは暴力的な「彼女」を、「ガール・フレンド」として意識し始めるが。。。
韓国発のラブ・コメディで、話によると、既にアメリカでのリメイクが決定しているという。
ラブ・コメディでありながら、実話に基づいているという点も興味深い。
ただ、映画にした時点で、フィクション性を免れないから、僕にとっては、あまり価値を見出せないのだけれど。
しかし、この映画は、日本でもそうとう人気の作品のようだ。
なにしろ、レンタル・ショップで、ずっとレンタル中でなかなか借りられなかったのだ。
韓国映画が注目されるようになった昨今の中でも、成功した映画の一つに数えていいだろう。
▼以下はネタバレあり▼
僕の小さい情報網によると、前評判がかなり高かった。
期待半分、不安半分で観たのだが、確かにおもしろいと思った。
しかし、その反面、「惜しい」という思いもある。
主人公・キョヌは、日本でもよく見かける(?)典型的な駄目学生。
彼が夜中に「拾った」のは、酒癖の究極に悪い、かわいい女性だった。
ここでキョヌが出会った女性は、まさに「猟奇的な」彼女。
酒癖の悪さに加えて、殴る、命令する、喧嘩を吹っかける、自分の嗜好を相手に押し付ける、というとんでもない女性。
しかし、この一見とんでもないような女性の「彼女」だが、この「彼女」には、韓国や日本に共通する一つの理想を色濃くみせている。
韓国がどんな社会を具体的に形成していて、どんな理想をもった社会なのか、ということは詳しくは分からない。
しかし、この映画が日本でも受け入れられ、さらにアメリカでリメイクされるということを考えれば、同じような理想を投影した女性像なのだろうと、推測する。
「彼女」にみる女性像。
それは、ひとつには「容姿」である。
女性は顔ではない、という男性(女性)の声をよく聞くが、やはり容姿は「かわいい事に越した事はない」のである。
この「彼女」が、それほどかわいくなければ、きっと世の男性は、この映画に感情移入することができなかったはずである。
女性には失礼な話だが、「女性は顔」というイデオロギーに近い理想を、完全に具現化した存在である。
ふたつには、わがままでサディスティックな「性格」。
映画のタイトルにあるように、「猟奇的(韓国ではこのままの意味ではないらしいが)」な彼女の性格も、実は大きな理想なのである。
このサディスティックな性格は、この一見すれば嫌われそうな性格を持つ女性に、「支配されたい」という、マゾヒズムの男性がどれだけ多いか、ということを証明している。
そして最後に、「モラリスト」であること。
この「猟奇的な彼女」のヒロインを語るとき、絶対にはずせない要素が、この「モラリスト」であるということである。
韓国では知らないが、日本で「彼女」が受け入れられた理由は、「彼女」がモラリストである、という点が非常に大きい。
彼女の性格の悪さは、彼氏であるキョヌにしか向かない。
彼女がいたずらを強制する相手は、キョヌだけである。
通行人に、「服の指導」をおこなうが、それは猟奇的な「彼女」の性格から言えば、ほんのささいなことである。
ここに「彼女」のモラルが明確にあられている。
しかも、キョヌ以外の人間に求めるものは、社会で失われつつある「モラル」そのものである。
タバコを捨てるな、援助交際をするな等、社会において当然守られるべきモラルを要求する。
彼女は、誰も注意できなくなった現代社会において、まともに注意できる強さをもった女性なのである。
容貌、性格、そしてモラル。
「彼女」にこめられた三つの理想は、男性からの視点であり、この映画が、「誰のための」映画であるかを同時に示している。
この映画は「プリティ・ウーマン」にはじまるような女性からの視点で、女性の理想を描いた作品ではなく、まぎれもなく男性の理想を描いた、男性のためのラブ・コメディなのである。
だから、「彼女」には隠されたピュアな部分をもつ。
恋人を亡くし、キョヌにそれを補うように求めていた事が、それまで隠していた事がウソのように赤裸々に暴露される。
やはり、女性はピュアでなければならないということなのだろう。
それは理解できる。
しかし、その告白の以前と以後での彼女の変貌ぶりに、僕は閉口した。
「前半戦」「後半戦」「延長戦」と区分されているなかで、「延長戦」で「彼女」の過去や想いが明かされると、とたんに「猟奇的」でない「彼女」になる。
単なる「いいお話」になり、ラブラブ・モード全開になってスクリーンを支配する。
ここでは、前半にあった「彼女」の設定がまったく無視される。
これは大きなマイナスである。
それまでに、シリアスな「彼女」の一面を表わした効果的な伏線もないため、その変貌は大きな落差に感じられる。
さらに、惜しいと思った点は、前半のテンポの悪さである。
彼女の性向をみせるために続く長い「前半戦」は、もっと短くできるだろうと思ったのが正直な印象だ。
コメディの基本は、展開のスムースさにある。
テンポの悪いコメディは、必ずこける。
彼女の「猟奇的さ」をみせるだけなら、もっとエピソードを減らすべきだった。
特に、夜の遊園地に忍び込んで、脱獄兵に拘束されるというくだりは、大きな違和感がある。
彼女の内面をみせる必要があったのは理解できるが、キョヌを人質にとった相手に向けて、お説教くさいことを語られても、それまでの伏線がないため、唐突な印象を受けてしまう。
しかも、先ほど言ったように、前半と後半で彼女のキャラクターが大きく違うため、だらだらとしたエピソードの連続は、余計に不必要に感じる。
それなら、一つのデートを長い時間をかけて丁寧に描いたほうが、よほど効果的で、コメディとしてのテンポも保てたのではないか。
また、「猟奇的な彼女」の映画化云々のくだりも必要なかったように思う。
「実話でした」という点を強調したいなら、最初にテロップを入れるなりして、それなりの示唆を他にも入れておく必要がある。
そうでなければ、蛇足にすぎず、実際に実話に基づいているかどうかがイマイチ掴めず、ただ上映時間を無駄に長くするだけである。
実話であることみせるシーンが、演出として効果的に機能していない。
そもそも、日本で公開されたものは、韓国のオリジナルからカットしたシーンもあったそうだ。
つまり、2時間を越える日本版以上に、韓国のオリジナルは長かったのである。
それならなおさら、無駄なエピソードを削る必要があったように思う。
全体的に、エピソードを詰め込みすぎたきらいがある。
その割には、主人公とヒロインの心の葛藤が描ききれていない。
「彼女」の変貌ぶりは、先ほど言ったような次第だが、それに加えて、主人公がヒロインとこころが離れていく過程もわかりにくい。
「彼女」の父親との不和や、キスに至れない微妙な関係などの理由が提示されているが、決定的な「引き金」がない。
「彼女」にとってキョヌの存在が苦しくなったということはわかるのだが、キョヌにとって、「二年後に会おう」などという約束をする必要が、きちんと描かれていないために、彼の心理が不透明だった。
なぜ関係をリセットしなければならないほどに、彼は追い詰められていたのか、彼の側からの説明が不足している。
そのため、余計に、前半と後半の物語の断絶が大きくなってしまっている。
ラストのオチは、背筋が寒くなるほど「クサイ」終らせ方だが、個人的には好きだ。
やはり、ラブ・コメディはこうでなければならない。
しかし、僕はおばの紹介を受けろ、というキョヌの母親の電話の時点で、ある程度ラストが読めてしまった。
男の僕は楽しめたと思う。
それは、現代で生きる僕にとっても、ある程度の理想を「彼女」が体現していたからなのかもしれない。
しかし、それだけに「惜しい」という残念な気持もある。
(2004/4/23執筆)
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