評価点:85点/2019年/アメリカ・イギリス/150分
監督・脚本・原案:クリストファー・ノーラン
なにかとてつもないものを見せられた感じ。
ウクライナのキエフの国立劇場でテロがあった。
CIAのエージェントはこのテロ偽装でこの劇場に隠されたプルトニウムを奪取することが目的だと知り、テロリストの襲撃から、観客を助けた。
しかし、敵の罠にはまり、自白を迫られる。
自殺ピルを飲み気がつくと病院にいた。
「テストに合格した。これから君は第三次世界大戦を防ぐための作戦に従事しろ」と告げられる。
案内された施設では、銃弾が拳銃に戻るという時間の逆行について説明される。
男(ジョン・デビッド・ワシントン)はその銃弾の成分からインドにある武器商人に狙いを付ける。
満を持して公開されたノーランの最新作。
私がノーランが大好きなのはすでご存じだろう。
いや、知らなくてもかまわない。
とにかく、この公開を心待ちにしていたのは、私だけではあるまい。
早い段階の予告から時間が逆行することはわかっていた。
(それも私だけではあるまい)
秘密主義のノーランの映画は、公開されると逆に情報があふれ出てしまう。
見たいなら予備知識なしで見にいって、その後解説された様々な記事を見てからもう一度見る。
それがこの映画の楽しみ方だろう。
システムがややこしいこともあって、脳をフル回転してもたぶん理解しきれない。
それでも純粋に逆行するアクションを楽しめばいいと思う。
とにかく、あらゆる点で刺激的な二時間半を楽しめることだろうと思う。
▼以下はネタバレあり▼
エントロピーの法則をご存じか。
宇宙は膨張している。
だからその膨張が時間の経過を示している。
もしその膨張が止まったり、逆に収縮するようなことがあれば、時間は巻き戻り、ビッグバン戻る。
このあたりは地学や物理学について知らなければちょっとわかりにくい。
私も専門では全くないが、いくつかの映画や、本を読んでエントロピーについてはある程度知っていた。
いや、たぶん理解はしていないが、そういうことなのだろう、という漠然とした理解はある。
そのエントロピーを逆に進むことができれば、つまりエネルギーを放出、拡散、散逸を逆にたどることができれば、理論上逆行することができる。
細胞の分裂が融合していくように、時間軸が逆になる。
それを映像化したのが、この映画だ。
過去にいくのではない。
時間をさかのぼることができるだけだ。
だから、過去にいくには同じ時間だけ時間を過ごす必要がある。
時間を戻すことで、けがなどを治すこともできる。
また、現時点での記録を残すことで、未来からそれをたどることを可能にする。
どこかでカードを使えばそれは未来への記録として残る。
いつどこにいたのか、記録を残すことで、未来の人間がそこに干渉する余地が生まれるわけだ。
とはいえ、物語は単純だ。
要約すれば、主義のために死ぬ覚悟を持った男が、未来からの指令を知ることによって、世界の英雄になる物語、といったところか。
男は何ももたない、普通のエージェントだった。
他のエージェントと唯一違うのは、命令に命をかけることができる人間であるということだ。
その男は、未来からの指令をたどることで、自分がこの逆行する世界で指令を出していた張本人であることを知る。
未来の彼が、過去の人間たちに、未来や過去を守るためにあらゆるものを送っていたのだ。
だからインドの武器商人にたどり着くように、銃弾にインド由来の成分が含まれているものを壁ごと送った。
いや、自殺ピルが偽装の自殺ピルだったのも、彼を生き残らせるための策略だった。
それを知っているのは、指令を渡した白人ではなく、おそらく未来の彼だけだろうが。
物語が行ったり来たりしているように見えるが、ただそれだけだ。
悪く言えば自作自演とも言える。
なぜ彼には名前が与えられていないのか。
それは、彼自身が黒幕であり、彼自身が謎に包まれた人間であることが、最後にわかるようになっているからだ。
私たち観客にとっても、彼が黒幕だとわかるように仕組まれている。
だから、彼以外の人間たちにはすべて名前が与えられている。
あのほとんど出てこないキャット(エリザベス・デビッキ)の息子、マックスでさえ名前があるのに。
主人公は彼であり、それに寄り添うあなた自身(観客)だと言われているかのようだ。
それがつながったとき、起こったことは仕方がない。けれども、それは今何もしない理由にはならない、という言葉が突き刺さる。
後で触れるが、セイター(ケネス・ブラナー)は恣意的な理由で世界を終わらせることを望む。
だがそれは、未来人が住めないほどの世界にした、現代人に対しての罪の意識からだった。
主人公のように逆行することはできなくても、世界の黒幕はあなた自身である、というメッセージがこの映画には埋め込まれている。
さて、ややこしいのだが、物語のすべてはつながっている。
それが映画的であり、何度も見たくなるゆえんだ。
前半で疑問に思ったことが、後半でその理由が明かされる。
空港での救急車などはその典型で、前半ではだれが乗っているのかわからなかったが、後半逆行するときにはその救急車に乗っている人間がわかってくる。
だから最初から最後までつながっているし、誰かが逆行してきた経緯をたどることになる。
キエフの劇場で逆行する弾丸を放ったのは、ニール(ロバート・パディントン)だった。
それは彼が付けているコインのストラップで分かるようになっている。
このストラップをどこで手に入れるのか?
もちろん、主人公がニールと出会ったときに渡すのだ。
友情の始まりと終わりとして。
飛行機の計画も、事前にどのようにするのか知っていたからこそ成功する。
ゴヤの贋作がすんなり手に入るのも、未来から送られてきたから。
セイターの妻、キャットが「あんな女性になりたかった」という自殺する女性は実は自分だった。
それはこの物語で彼女がセイターという男から独立することを暗示する。
そういうすべてがつながるようになっている。
こう考えると、時間の逆行と映画という物語がいかに親和性が高いのか、そしてそこに集約したノーランがすばらしいかが分かる。
セイターの狙いは世界を終わらせることだった。
時間を巻き戻しながら、すべての時間逆行装置のパーツを集め、すべての生命を逆行させる。
自分が死んだとき、その居場所を未来へログを残すことで、未来人がその場所を掘り起こし、生命を消滅させる。
彼が死ねるのは、そのパーツがそろう必要があった。
探していたプルトニウムは、最後のパーツだった。
それを爆心地であるロシアの街に集め、それを爆破し、逆行装置を未来に送る。
その座標が送られてしまえば、(パーツが集まってしまえば)世界は終わる。
最後のシークエンスはそういう争いだった。
逆行装置を手に入れるため、男とニールは挟撃作戦に参加する。
キャットはその作戦の現場となるロシアの場所を記録に残させないようにすること。
作戦が成功すればセイターが死んでもその場所には何もない。
けれども、作戦が成功する前に場所が分かってしまうと、未来人がその場所を特定されてしまい、世界が終わる。
そして映画としての最適解は、間違った場所を未来に残すこと。
セイターが死に、場所が残ったとしても、そこには逆行装置はない。
そうすればその逆行装置のパーツは再び行方不明になり、未来人の作戦はひとまず阻止することができる。
予期せずに、ニールとキャットの機転によって、その最適解に落ち着くことになる。
セイターは死に、その記録が示す場所はロシアの爆心地となった。
しかし、逆行装置は救い出すことができたので、未来人がその場所を探しても、装置が手に入ることはない。
めでたしめでたしというわけだ。
特に最終作戦にいたるまでのところが非常にわかりにくい。
めまぐるしく場所と人物が入れ替わっていくので、一度見るだけではなかなか整理が付かない。
最後のシークエンスも、セイターとキャット、ニールと男との作戦がめまぐるしく入れ替わり、しかもそれが逆行と順行の挟撃作戦なので、頭が混乱する。
だが、それをわかりやすく見せようという工夫もある。
作戦を色分けで見せたり、逆行している人間はすべて酸素ボンベをしている。
歩き方が変で、必ず逆行していることが分かるような演出(爆弾が逆に収縮する、鳥が逆に飛ぶなど)がともに描かれる。
そこはノーランが気を遣った「ルールを曲げない」という取り方がされている。
だから、何度見ても発見があるし、すべてに説明が付くようになっている。
もちろん、ルールを曲げないのはキャラクターについても言える。
セイターも、キャットも、ニールも、自立したキャラクターとして確立している。
ニールとのパートナーシップが驚くほどスムーズなのも、ニールがリサーチしているからではない。
すでに知り合いだったからだ。
逆行することで、それぞれのキャラの本質が見えてくるという構成はやはり逆行という舞台装置と非常によくマッチしている。
もう一つ、言及しておかなければならないのは、やはり実写にこだわったという点だ。
CGを使えばすむところを、わざわざ不自然な動きが出ても実写にこだわった。
映画を見る前から、私たちはこの映像が現実のものであることをいやというほどキャンペーンで強調される。
もはやそのキャンペーンと切り離して映画を鑑賞することは不可能だ。
それはあたかもスタントなしで何でもこなしてしまう某トム・クルーズと似たような鑑賞態度を私たちに要求する。
すなわち、これはどのように撮られたのか、というような畏敬にも似た印象だ。
クリストファー・ノーランという監督そのものが私たちを魅惑し、映画館へと足を運ばせる。
彼が撮った、実写の映画、というだけで私たちは期待値を上げられてしまう。
「ダンケルク」でもそうだったが、映画という興行を考える上で、重要なファクターになりつつある。
私たちは映画をみることとともに、アナログにこだわった監督の作品というプロジェクトそのものを楽しむことになる。
だが、それを見事に体現してしまうシナリオも、映像も、やはり希有であるということは間違いない。
私はあと何度この映画を見に行くことになるのか、まだ想像できない。
(メイキング映像目当てでBDも購入決定だろう……)
監督・脚本・原案:クリストファー・ノーラン
なにかとてつもないものを見せられた感じ。
ウクライナのキエフの国立劇場でテロがあった。
CIAのエージェントはこのテロ偽装でこの劇場に隠されたプルトニウムを奪取することが目的だと知り、テロリストの襲撃から、観客を助けた。
しかし、敵の罠にはまり、自白を迫られる。
自殺ピルを飲み気がつくと病院にいた。
「テストに合格した。これから君は第三次世界大戦を防ぐための作戦に従事しろ」と告げられる。
案内された施設では、銃弾が拳銃に戻るという時間の逆行について説明される。
男(ジョン・デビッド・ワシントン)はその銃弾の成分からインドにある武器商人に狙いを付ける。
満を持して公開されたノーランの最新作。
私がノーランが大好きなのはすでご存じだろう。
いや、知らなくてもかまわない。
とにかく、この公開を心待ちにしていたのは、私だけではあるまい。
早い段階の予告から時間が逆行することはわかっていた。
(それも私だけではあるまい)
秘密主義のノーランの映画は、公開されると逆に情報があふれ出てしまう。
見たいなら予備知識なしで見にいって、その後解説された様々な記事を見てからもう一度見る。
それがこの映画の楽しみ方だろう。
システムがややこしいこともあって、脳をフル回転してもたぶん理解しきれない。
それでも純粋に逆行するアクションを楽しめばいいと思う。
とにかく、あらゆる点で刺激的な二時間半を楽しめることだろうと思う。
▼以下はネタバレあり▼
エントロピーの法則をご存じか。
宇宙は膨張している。
だからその膨張が時間の経過を示している。
もしその膨張が止まったり、逆に収縮するようなことがあれば、時間は巻き戻り、ビッグバン戻る。
このあたりは地学や物理学について知らなければちょっとわかりにくい。
私も専門では全くないが、いくつかの映画や、本を読んでエントロピーについてはある程度知っていた。
いや、たぶん理解はしていないが、そういうことなのだろう、という漠然とした理解はある。
そのエントロピーを逆に進むことができれば、つまりエネルギーを放出、拡散、散逸を逆にたどることができれば、理論上逆行することができる。
細胞の分裂が融合していくように、時間軸が逆になる。
それを映像化したのが、この映画だ。
過去にいくのではない。
時間をさかのぼることができるだけだ。
だから、過去にいくには同じ時間だけ時間を過ごす必要がある。
時間を戻すことで、けがなどを治すこともできる。
また、現時点での記録を残すことで、未来からそれをたどることを可能にする。
どこかでカードを使えばそれは未来への記録として残る。
いつどこにいたのか、記録を残すことで、未来の人間がそこに干渉する余地が生まれるわけだ。
とはいえ、物語は単純だ。
要約すれば、主義のために死ぬ覚悟を持った男が、未来からの指令を知ることによって、世界の英雄になる物語、といったところか。
男は何ももたない、普通のエージェントだった。
他のエージェントと唯一違うのは、命令に命をかけることができる人間であるということだ。
その男は、未来からの指令をたどることで、自分がこの逆行する世界で指令を出していた張本人であることを知る。
未来の彼が、過去の人間たちに、未来や過去を守るためにあらゆるものを送っていたのだ。
だからインドの武器商人にたどり着くように、銃弾にインド由来の成分が含まれているものを壁ごと送った。
いや、自殺ピルが偽装の自殺ピルだったのも、彼を生き残らせるための策略だった。
それを知っているのは、指令を渡した白人ではなく、おそらく未来の彼だけだろうが。
物語が行ったり来たりしているように見えるが、ただそれだけだ。
悪く言えば自作自演とも言える。
なぜ彼には名前が与えられていないのか。
それは、彼自身が黒幕であり、彼自身が謎に包まれた人間であることが、最後にわかるようになっているからだ。
私たち観客にとっても、彼が黒幕だとわかるように仕組まれている。
だから、彼以外の人間たちにはすべて名前が与えられている。
あのほとんど出てこないキャット(エリザベス・デビッキ)の息子、マックスでさえ名前があるのに。
主人公は彼であり、それに寄り添うあなた自身(観客)だと言われているかのようだ。
それがつながったとき、起こったことは仕方がない。けれども、それは今何もしない理由にはならない、という言葉が突き刺さる。
後で触れるが、セイター(ケネス・ブラナー)は恣意的な理由で世界を終わらせることを望む。
だがそれは、未来人が住めないほどの世界にした、現代人に対しての罪の意識からだった。
主人公のように逆行することはできなくても、世界の黒幕はあなた自身である、というメッセージがこの映画には埋め込まれている。
さて、ややこしいのだが、物語のすべてはつながっている。
それが映画的であり、何度も見たくなるゆえんだ。
前半で疑問に思ったことが、後半でその理由が明かされる。
空港での救急車などはその典型で、前半ではだれが乗っているのかわからなかったが、後半逆行するときにはその救急車に乗っている人間がわかってくる。
だから最初から最後までつながっているし、誰かが逆行してきた経緯をたどることになる。
キエフの劇場で逆行する弾丸を放ったのは、ニール(ロバート・パディントン)だった。
それは彼が付けているコインのストラップで分かるようになっている。
このストラップをどこで手に入れるのか?
もちろん、主人公がニールと出会ったときに渡すのだ。
友情の始まりと終わりとして。
飛行機の計画も、事前にどのようにするのか知っていたからこそ成功する。
ゴヤの贋作がすんなり手に入るのも、未来から送られてきたから。
セイターの妻、キャットが「あんな女性になりたかった」という自殺する女性は実は自分だった。
それはこの物語で彼女がセイターという男から独立することを暗示する。
そういうすべてがつながるようになっている。
こう考えると、時間の逆行と映画という物語がいかに親和性が高いのか、そしてそこに集約したノーランがすばらしいかが分かる。
セイターの狙いは世界を終わらせることだった。
時間を巻き戻しながら、すべての時間逆行装置のパーツを集め、すべての生命を逆行させる。
自分が死んだとき、その居場所を未来へログを残すことで、未来人がその場所を掘り起こし、生命を消滅させる。
彼が死ねるのは、そのパーツがそろう必要があった。
探していたプルトニウムは、最後のパーツだった。
それを爆心地であるロシアの街に集め、それを爆破し、逆行装置を未来に送る。
その座標が送られてしまえば、(パーツが集まってしまえば)世界は終わる。
最後のシークエンスはそういう争いだった。
逆行装置を手に入れるため、男とニールは挟撃作戦に参加する。
キャットはその作戦の現場となるロシアの場所を記録に残させないようにすること。
作戦が成功すればセイターが死んでもその場所には何もない。
けれども、作戦が成功する前に場所が分かってしまうと、未来人がその場所を特定されてしまい、世界が終わる。
そして映画としての最適解は、間違った場所を未来に残すこと。
セイターが死に、場所が残ったとしても、そこには逆行装置はない。
そうすればその逆行装置のパーツは再び行方不明になり、未来人の作戦はひとまず阻止することができる。
予期せずに、ニールとキャットの機転によって、その最適解に落ち着くことになる。
セイターは死に、その記録が示す場所はロシアの爆心地となった。
しかし、逆行装置は救い出すことができたので、未来人がその場所を探しても、装置が手に入ることはない。
めでたしめでたしというわけだ。
特に最終作戦にいたるまでのところが非常にわかりにくい。
めまぐるしく場所と人物が入れ替わっていくので、一度見るだけではなかなか整理が付かない。
最後のシークエンスも、セイターとキャット、ニールと男との作戦がめまぐるしく入れ替わり、しかもそれが逆行と順行の挟撃作戦なので、頭が混乱する。
だが、それをわかりやすく見せようという工夫もある。
作戦を色分けで見せたり、逆行している人間はすべて酸素ボンベをしている。
歩き方が変で、必ず逆行していることが分かるような演出(爆弾が逆に収縮する、鳥が逆に飛ぶなど)がともに描かれる。
そこはノーランが気を遣った「ルールを曲げない」という取り方がされている。
だから、何度見ても発見があるし、すべてに説明が付くようになっている。
もちろん、ルールを曲げないのはキャラクターについても言える。
セイターも、キャットも、ニールも、自立したキャラクターとして確立している。
ニールとのパートナーシップが驚くほどスムーズなのも、ニールがリサーチしているからではない。
すでに知り合いだったからだ。
逆行することで、それぞれのキャラの本質が見えてくるという構成はやはり逆行という舞台装置と非常によくマッチしている。
もう一つ、言及しておかなければならないのは、やはり実写にこだわったという点だ。
CGを使えばすむところを、わざわざ不自然な動きが出ても実写にこだわった。
映画を見る前から、私たちはこの映像が現実のものであることをいやというほどキャンペーンで強調される。
もはやそのキャンペーンと切り離して映画を鑑賞することは不可能だ。
それはあたかもスタントなしで何でもこなしてしまう某トム・クルーズと似たような鑑賞態度を私たちに要求する。
すなわち、これはどのように撮られたのか、というような畏敬にも似た印象だ。
クリストファー・ノーランという監督そのものが私たちを魅惑し、映画館へと足を運ばせる。
彼が撮った、実写の映画、というだけで私たちは期待値を上げられてしまう。
「ダンケルク」でもそうだったが、映画という興行を考える上で、重要なファクターになりつつある。
私たちは映画をみることとともに、アナログにこだわった監督の作品というプロジェクトそのものを楽しむことになる。
だが、それを見事に体現してしまうシナリオも、映像も、やはり希有であるということは間違いない。
私はあと何度この映画を見に行くことになるのか、まだ想像できない。
(メイキング映像目当てでBDも購入決定だろう……)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます