アニメ映画「鬼滅の刃」が破竹の勢いであるらしい。
これまで新型コロナウィルスによって大きな痛手を被ってきた映画業界としては朗報と言えるだろう。
興行収入の記録をこれからも塗り替えていくことは間違いなさそうだ。
私の上の子も、未就学児だがアニメを全話見て、近々映画館に母親と行くそうだ。
私はほとんど見ていないので、登場人物名くらいを子どもから聞かされて、おもちゃの刀で切られることがもっぱらの家族での役割となっている。
漫画も1話を読んだだけで全くブームに乗れていない。
「君の名は。」のような、一話完結型の話なら、老若男女に愛されるのはありうるとしても、この映画は「アニメを一通りみてその続き」という位置づけの話だ。
だから、映画館に行く人は、少なくともアニメや漫画を一通り知っていなければ見に行ってもわからない。
(もちろん映画からブームに乗っかる人もいるだろうが)
そういう自律性のない(コンテクストに依存した)映画は、これまで流行りにくいものだったはずだ。
(しかもこの映画化されている部分は作品全体のクライマックスでもなく、22巻の7巻らしい)
それなに、なぜこんなな流行になったのか。
その一つに、多様化する私たちの「物語」が背景となっていると私は考えている。
私たちは共通の物語を描くことが難しくなってきた。
かつて勢力を持っていた宗教も、国家も、企業も、いまや「信用に足る物語」という地位を与えてくれない。
趣味趣向が多様化することで、共通の「誰もが知っている物語」も風前の灯火だ。
お茶の間で誰もがテレビの前に鎮座して、その時間を毎週楽しみにするというような文化は既にノスタルジックなものとなった。
そんな中で「鬼滅の刃」はその「共通の物語」を与えてくれるものとなっている。
アニメや漫画そのものの魅力を超えて、「物語を共通して描く」ことの陶酔感を与えてくれる。
ブームがブームを呼んで、流行っているから流行っている、というような自己完結型の強力な渦がそこでは生まれているように思える。
それは共同の物語を欲する、人間の根源的な欲望と深く関わっているようだ。
これまで新型コロナウィルスによって大きな痛手を被ってきた映画業界としては朗報と言えるだろう。
興行収入の記録をこれからも塗り替えていくことは間違いなさそうだ。
私の上の子も、未就学児だがアニメを全話見て、近々映画館に母親と行くそうだ。
私はほとんど見ていないので、登場人物名くらいを子どもから聞かされて、おもちゃの刀で切られることがもっぱらの家族での役割となっている。
漫画も1話を読んだだけで全くブームに乗れていない。
「君の名は。」のような、一話完結型の話なら、老若男女に愛されるのはありうるとしても、この映画は「アニメを一通りみてその続き」という位置づけの話だ。
だから、映画館に行く人は、少なくともアニメや漫画を一通り知っていなければ見に行ってもわからない。
(もちろん映画からブームに乗っかる人もいるだろうが)
そういう自律性のない(コンテクストに依存した)映画は、これまで流行りにくいものだったはずだ。
(しかもこの映画化されている部分は作品全体のクライマックスでもなく、22巻の7巻らしい)
それなに、なぜこんなな流行になったのか。
その一つに、多様化する私たちの「物語」が背景となっていると私は考えている。
私たちは共通の物語を描くことが難しくなってきた。
かつて勢力を持っていた宗教も、国家も、企業も、いまや「信用に足る物語」という地位を与えてくれない。
趣味趣向が多様化することで、共通の「誰もが知っている物語」も風前の灯火だ。
お茶の間で誰もがテレビの前に鎮座して、その時間を毎週楽しみにするというような文化は既にノスタルジックなものとなった。
そんな中で「鬼滅の刃」はその「共通の物語」を与えてくれるものとなっている。
アニメや漫画そのものの魅力を超えて、「物語を共通して描く」ことの陶酔感を与えてくれる。
ブームがブームを呼んで、流行っているから流行っている、というような自己完結型の強力な渦がそこでは生まれているように思える。
それは共同の物語を欲する、人間の根源的な欲望と深く関わっているようだ。
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