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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

手紙(V)

2011-01-04 10:16:20 | 映画(た)
評価点:62点/2006年/日本

監督:生野慈朗

沢尻エリカの大阪弁が極妻にしか見えない。

武島剛志(玉山鉄二)は、弟直貴(山田孝之)の進学のために空き巣に入ったところを家主に見つかり、思わず殺してしまう。
無期懲役を言い渡された剛志は、直貴への手紙のやりとりだけを心の支えとしてきた。
直貴は、自分の兄が犯した罪の大きさを差別という形で身をもって知ることになる。

東野圭吾原作で、山田孝之、沢尻エリカとくれば怖い者なしだろう。
僕はずいぶん前にこの映画を知っていたが、結局今まで見ることなく過ごしてきた。
周りからは「泣く泣く」と言われ続けて、かえって敬遠していたのだ。

原作もずいぶん前に文庫本で読んだ。
映画公開後に読んだために、泣くだろうと期待して読んだが、結局泣かずに読み終えたのを覚えている。
おそらく今日まで見なかったのはそうした経緯もあったからだろう。

これぞ日本映画というような映画だ。
日本映画でしょっちゅう泣く人は、これもいける口だろう。
それほど日本映画が好きでない人は、「案外良い映画もあるのだな」と感心するかも知れない。
いや、そもそも日本映画はちょっと、という人の期待を裏切るほどの出来ではない。

▼以下はネタバレあり▼

この映画で最も口にしてはならないのは、「かわいそう」という言葉だろう。
そしてそれを言わせないだけの展開になっている。
この映画が感動的なのはおそらくその部分ではないだろうか。

タイトルにある「手紙」は、至極日常的で、ありきたりなものだ。
誰もが一度は手紙を書いたことがあるし、もらったことがあるだろう。
もちろん、年齢によるが。
だが、その手紙が極めて非日常的なものとして、この映画では登場する。
タイトルしか知らなかった人が、この作品を見たとしたら、おそらく面を食らうことになる。
感動的であっても、ヒロインが病気になったり、犬が死んだりするような軽い話ではなく、社会的にも人道的にも重い話だからだ。

犯罪を犯した者はどのような罪を背負っていくのか、その家族はどうなっていくのか。
マス・メディア(ここでは新聞・テレビを指すが)などで取り上げられるのは、むしろ被害者側の心情であり、加害者や加害者の家族についてクローズアップされるのは珍しい。
それは、僕たちが犯罪を憎む心理を根源的にもっているからだろう。
この映画は、だからこそ「かわいそう」で済まされる問題ではないのだ。

弟を進学させるために働きづめになった兄が、腰を痛めてそれでもお金を得るために空き巣に入り、そしてその住人を殺してしまう。
結果的には強盗殺人となり無期懲役になってしまう。
兄は刑務所に入り、弟は考えていた進学をあきらめ、職を転々とする日々がはじまる。
わずか15分程度でそのことをうまく提示している。
無理なく、そしてくどくなく(これが難しい)、弟の山田孝之に感情移入できるように丁寧に描く。
おそらくこの映画がある程度成功しているのは、この15分の脚本がすばらしいからだ。
手紙と回想と現在の様子の描写だけで巧く描いている。

その後は、夢、恋愛、仕事、家庭などで弟の直貴がいかに苦労していくかについて延々と綴られる。
しかし、その描き方もくどくなく、ラストへの「答え」へとつなげるための重要な過程だった。
原作を読んだ者としても、非常に良くできた展開だったと思う。

けれども、やはり、くどい。
それは心理描写だ。
弟直貴の心情は、もう十分すぎるほど伝わっているのに、敢えて泣いている姿を見せたり、沢尻の悩む姿を見せたりする。
もう少し見せ方を工夫しなければ、くどすぎる。
どうしても「心情」そのものの描写ではなく、「心情の説明」になってしまっている。
これは「悪人」でも見られた、日本映画によくある失敗だろう。

特に象徴的なのは、家電販売店で働いていた直貴が異動になり、倉庫勤務になってしまったときに会長が訪れるというシークエンスだ。
会長が唐突に現れた意味まで丁寧に教えてくれるが、その後、再びそのシーンを直貴の回想として入れてしまう。
くどい。
非常にくどい。
そんなことをしなくても、時間的にも近いシークエンスなのだから、入れる必要はなかった。
僕は一気にそこで冷めてしまった。
もっと違う見せ方、もっと違う方法でそれを感じさせてほしかった。
そうでなければ、やはり悲しみや重みが軽くなってしまい、深みが半減する。

もちろん、ラストにある漫才のネタも、あまりにも露骨すぎて、不自然だ。
そこまで見せなければ観客が理解できないと思ったのかも知れない。
その感覚は理解できるが、そこをばっさり切らなければ、きっと「二時間ドラマ」から卒業できないだろう。

もう一つ。
沢尻エリカの大阪弁(関西弁?)が不自然すぎることも大きな違和感を生んだ。
途中からなんだか極妻で関西弁を学んだのだろうかというくらい、不自然な言葉遣いになっていた。
なぜあえてそんな言葉を話させたのだろうか。
地方から来たことを印象づけたかったのだろうけれども、僕が彼女なら、きっとその言葉さえも隠したかったはずだ。
関西から来たことを悟られると、生きづらいからだ。
それなら自分の生い立ちを告白するところだけ、方言を用いれば良かったのだ。
そもそも、沢尻エリカが関西弁を話せないなら、そんな冒険をする必要はなかったのではないか。
イントネーションおかしすぎるでしょう。

テーマは個人の悲しみそのものだけではなく、犯罪に対する考え方まで提示する社会的な視座をもつものだ。
巧く描けば、それは個人個人が背負う、原罪までも含めて見せることも可能だっただろう。
そうすれば、きっと普遍的な悲しみを観客は捉えられたはずだ。
自分に迫ってくるという意味では重みも違ってくる。
けれども、制作陣はそこまで描くつもりは無かったようだ。
心理描写に間隙をつくるということは、作品のテーマをどう考えるかまで含んでいる。
個別を描きながら、普遍を描く、そういう映画にしてほしかった。

そこそこ期待していただけに残念だ。
日本映画も、余白のない映画をそろそろ卒業してほしい。

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日本映画 (せがーる)
2011-01-12 14:58:29
2011年、一発目の映画「相棒 劇場版Ⅱ」を見ました。実は、手紙は本だけです。

ドラマ続きの映画は、やはりドラマですね。
「映画」ではないような気がします。

1秒16・24コマの速度で撮影されることが「映画」なんでしょうか。

映画論をぜひ書いてください。
返信する
相棒、前作もひどかった。 (menfith)
2011-01-13 21:55:11
管理人のmenfithです。
今年に入ってまだ映画館に足を運んでいません。
とりあえず、第一弾を土曜日に行くつもりです。
また記事にします。

>せがーるさん
コメントありがとうございます。
「相棒」やはりだめでしたか。
最近のドラマのほうも、社会的な問題を扱いすぎてもろに「報道ステーション」みたいな話になってきてちょっと気になっていました。
もう少し「個人」の中に社会性を組み込めばいいのに。

結局日本ではテレビ局が放送権を握っていて、そのテレビ局がより大きな利益を上げるために映画制作を行います。
よってコンテンツは安易で商業的、そして手堅い内容のものを作るわけです。
テレビ放映による広告費は年々下がっていますので、チケット売り上げはもちろん、DVDなどのソフトにできるうえに、関連商品化まで見込める映画制作は、テレビ局にとって一つの利益確保の手段になっています。

アメリカなどではコンテンツを作る制作会社が大きな力を持っているため、テレビ局や配給会社はその出来を見て決めるという形になっています(平たく言って)。
だから、コンテンツをしっかり作らなければ売れないし、制作会社が手動なので、納得した作品を作りやすい環境にあるのです。

特にハリウッドは安易な商業的な映画を作るだけではなく、市場が大きいので、思い切った良作を作ろうとする動きが活発なのです。
人を発掘したり、育てたりする点でも日本はまだまだ後進国だと言わざるを得ないでしょう。

また、日本映画や日本のテレビ界に観客や視聴者におもしろいものを見せよう、もっと刺激的な新しいものを見せて彼らを導こう、という野心がないように思います。
「24」などが良い例で、よりリアルタイムにより刺激的なものを見せることで、視聴者は見る目を養っていきます。
おもしろいものとおもしろくないものとの区別をつけられる人間が増えてくるわけです。
日本にはそういうことに作り手は関心がない。
とりあえずわかりやすく、売れるもの。
そういう流れなので、余計に観るものはわかりやすく安心感ある映画を選ぶようになっている、そんな気がします。

僕としてはおもしろくないものはおもしろくない、としっかりと観客や視聴者が言えるようになっていくこと。
そのためには、僕たち受け手自身が、もっと表現について知らなければならないし、表現を大切にするという意識をもつべきだと思います。

だから、日本映画がおもしろくないのは、日本の観客自身にも問題があるのだと思うのです。
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