評価点:78点/2007年/アメリカ・フランス・イギリス他
監督:ミヒャエル・ハネケ
突きつけられる〈暴力〉のゲーム。
夏休みに家族で別荘を訪れたジョージ一家は、ボートの準備をしていた。
そこへ妻のアン(ナオミ・ワッツ)に、卵をわけて欲しいとピーターと名乗る青年が訪れる。
彼女は心よく卵をわけたが直後に、彼は卵を落としてしまう。
もう一度下さいと言われ、応じると、今度は飼い犬に驚いてまた卵を落としてしまう。
うんざりした彼女は、帰るように頼むが、もうひとりの男、ポールが訪れて、微妙ないざこざになってしまう。
「M4」会のメンバーのひとりが、是非見て欲しいと言っていた作品。
前評判をいくつかみたが、どれも最悪で、胸くそ悪くなるという話ばかりが並んでいた。
これは監督ミヒャエル・ハネケのセルフリメイクで、ほとんどのシークエンスが元の作品を「再現」したものだという。
オリジナルのほうを見ていないので(おそらく見ていれば今回のリメイクは見なかっただろうが)比較や差異を確かめようもない。
ただ言えることは、映画に救いを求める人は見ない方が良い。
下手なホラー映画よりもよっぽど怖く、腹立たしい映画だし、気分は暗くなる。
それがそのまま映画の価値を決めるのならわかりやすいが、そうでもない。
それだけの覚悟があり、何がそれほどまで「胸くそ悪い」のか、確かめるつもりで見れば、そこには何かしらの意図が理解できるかもしれない。
万人向けではないが、あえて言おう、「是非見てください」
▼以下はネタバレあり▼
「game」は日本語でなら「試合」とか「勝負」などと訳すのだろうか。
そのまま「ゲーム」と言っても特に違和感はないような気もする。
だが、試合や勝負というのと、ゲームというのはどこか違うニュアンスがある。
バレーボールをしているときの練習試合を「ゲーム」と呼んでいたので、やはり共通しているところもあるのだろう。
一方で、いわゆるテレビゲームは「勝負」というニュアンスとはかけ離れている気もする。
モンハンでひとりで武器の素材を集めているのは、勝負とはだいぶ違う。
RPGでレベルを上げるのも、やはり「ゲームする」なのだが、そこには閉じられた世界という前提がある。
おそらくこの「ファニーゲーム」も閉じられた世界でのゲームだ。
ざっくり言えば、世界が用意されていてそこで勝ちようのないゲームを強いられる、そういう種類の「ゲーム」だ。
結論から言えば、絶対に「勝てない」のだ。
その「遊戯」は、ゲームを持ちかけられるほうにとっては苦痛でしかなく、一方的にしかけられる「遊戯」なのだ。
卵から始まったいざこざは、ゴルフクラブで殴られ12時間以内に生き残れるかという理不尽な展開に進んでいく。
一家は一方的にゲームを持ちかけられるだけであり、遊ばれつづける。
どこにでもいるような幸せな一家であるから、当然観客は彼らに同化(感情移入)し、出来事を体験することになる。
胸くそ悪くなるのは、彼らが一方的なゲームをしかけることにある。
だから、まったくこちらの意を通す余地がない。
これが非常にストレスになる。
そして、いけないのは二人の青年の意図がつかめないことだ。
何を求めているのか、金銭なのかなんなのか、それがつかめない。
だが途中で気づくのだ。
「こいつらはなにも求めていない、ただ遊んでいるだけだ」という事実に。
底の見ない二人の一方的なゲームに付き合わされ、しかも結局死ぬしかないという現実はあまりにも負荷が大きい。
肝心なのはこの二人がゲームしている相手はジョージたち三人ではなく、僕たち観客なのだという事実だ。
一家に感情移入している観客は、一家を通してポールとピーターとの遊びにつきあわされる。
底意の分からない(いや分かる必要がないのだが)遊戯を強いられるのだ。
それは間接的な意味での「追体験」という意味ではない。
二人は都合三度、私たち観客に向けて話しかけてくる。
それは物語レベルを超えた、メタレベルでの問いかけだ。
「あなたならどうする?」という二人の問いかけは、観ている者へ直接的に響く。
つまり、ゲームしている相手は、実はアンやジョージではないことを再度突きつけられるのだ。
そのために映画としては禁じ手の「巻き戻し」までやってのける。
普通の映画なら、きっとこの時点で物語と自分との間にできた空隙を埋めることができずに、「冷め」てしまう。
「巻き戻し」はこの話はフィクションですよ、ということを観客に自覚させてしまうからだ。
それがないのは、遊ばれているのは最初から僕たち観客だったからだ。
しかも、巻き戻されるのは彼らがゲームに失敗してしまうという展開だ。
その展開をやり直してしまうということは、ジョージたちに全く救いがないことを改めて突きつけることになる。
もちろん、そこで予感するはずだ。
「ああ、この映画に助かる見込みはもはや全くないのだ」ということを。
だが、この映画をみて「僕も犯罪してみよう」などと観客が思うとはとうてい思わない。
むしろ感じるのは暴力への強い怒りとむなしさだろう。
なぜなら、ピーターとポールは〈個人〉ではなく、悪意や暴力という抽象的な存在だから。
彼らをどれだけ分析しても、彼らの素性はつかめない。
彼らは絶対に正義に屈することはない。
〈暴力〉そのものである彼らに、〈個性〉などないからだ。
リメイクにあたって監督が起用したのはとうてい「デブ」ではないピーターをキャスティングしたのは意図的だと思う。
そうすることで余計に特徴が奪われてしまった。
特徴がない二人は単なる〈暴力〉を演じることになる。
この映画にグロテスクで露骨な描写はほとんどない。
だがそもそも〈暴力〉とは力でやりこめられることを言うのではない。
殴られるのは確かに暴力だが、それは一方的であることで初めて〈暴力〉性がたちあらわれる。
殴られることそのものではなく、殴られるかもしれない、いや必ず殴られるだろうという「懸念」そのものが〈暴力〉なのだ。
そう、この映画は一方的に観客が〈暴力〉を暴力的に受け続ける映画なのだ。
それこそが〈暴力〉の本質に他ならない。
つまり、〈暴力〉とは一方向的なものであり、それを知らしめる映画なのだ。
胸くそ悪くなるのは当然だ。
この映画に教訓めいたものなど一つもない。
ただ、〈暴力〉の本質を語っているだけだ。
その〈暴力〉は常に僕たちの隣にある。
普段はそれを覆い隠すだけのモラルが支配しているだけだ。
しかし、それが隣に常に存在することを僕たちは知っている。
いつ、ポールとピーターが目の前に現れるのか不安で仕方がない。
そのことを改めて突きつけてくるこの映画が、胸くそ悪いのは当然なのだ。
よくできた映画だとは思うが、ただただ腹立たしい。
僕は二度と見ない。
監督:ミヒャエル・ハネケ
突きつけられる〈暴力〉のゲーム。
夏休みに家族で別荘を訪れたジョージ一家は、ボートの準備をしていた。
そこへ妻のアン(ナオミ・ワッツ)に、卵をわけて欲しいとピーターと名乗る青年が訪れる。
彼女は心よく卵をわけたが直後に、彼は卵を落としてしまう。
もう一度下さいと言われ、応じると、今度は飼い犬に驚いてまた卵を落としてしまう。
うんざりした彼女は、帰るように頼むが、もうひとりの男、ポールが訪れて、微妙ないざこざになってしまう。
「M4」会のメンバーのひとりが、是非見て欲しいと言っていた作品。
前評判をいくつかみたが、どれも最悪で、胸くそ悪くなるという話ばかりが並んでいた。
これは監督ミヒャエル・ハネケのセルフリメイクで、ほとんどのシークエンスが元の作品を「再現」したものだという。
オリジナルのほうを見ていないので(おそらく見ていれば今回のリメイクは見なかっただろうが)比較や差異を確かめようもない。
ただ言えることは、映画に救いを求める人は見ない方が良い。
下手なホラー映画よりもよっぽど怖く、腹立たしい映画だし、気分は暗くなる。
それがそのまま映画の価値を決めるのならわかりやすいが、そうでもない。
それだけの覚悟があり、何がそれほどまで「胸くそ悪い」のか、確かめるつもりで見れば、そこには何かしらの意図が理解できるかもしれない。
万人向けではないが、あえて言おう、「是非見てください」
▼以下はネタバレあり▼
「game」は日本語でなら「試合」とか「勝負」などと訳すのだろうか。
そのまま「ゲーム」と言っても特に違和感はないような気もする。
だが、試合や勝負というのと、ゲームというのはどこか違うニュアンスがある。
バレーボールをしているときの練習試合を「ゲーム」と呼んでいたので、やはり共通しているところもあるのだろう。
一方で、いわゆるテレビゲームは「勝負」というニュアンスとはかけ離れている気もする。
モンハンでひとりで武器の素材を集めているのは、勝負とはだいぶ違う。
RPGでレベルを上げるのも、やはり「ゲームする」なのだが、そこには閉じられた世界という前提がある。
おそらくこの「ファニーゲーム」も閉じられた世界でのゲームだ。
ざっくり言えば、世界が用意されていてそこで勝ちようのないゲームを強いられる、そういう種類の「ゲーム」だ。
結論から言えば、絶対に「勝てない」のだ。
その「遊戯」は、ゲームを持ちかけられるほうにとっては苦痛でしかなく、一方的にしかけられる「遊戯」なのだ。
卵から始まったいざこざは、ゴルフクラブで殴られ12時間以内に生き残れるかという理不尽な展開に進んでいく。
一家は一方的にゲームを持ちかけられるだけであり、遊ばれつづける。
どこにでもいるような幸せな一家であるから、当然観客は彼らに同化(感情移入)し、出来事を体験することになる。
胸くそ悪くなるのは、彼らが一方的なゲームをしかけることにある。
だから、まったくこちらの意を通す余地がない。
これが非常にストレスになる。
そして、いけないのは二人の青年の意図がつかめないことだ。
何を求めているのか、金銭なのかなんなのか、それがつかめない。
だが途中で気づくのだ。
「こいつらはなにも求めていない、ただ遊んでいるだけだ」という事実に。
底の見ない二人の一方的なゲームに付き合わされ、しかも結局死ぬしかないという現実はあまりにも負荷が大きい。
肝心なのはこの二人がゲームしている相手はジョージたち三人ではなく、僕たち観客なのだという事実だ。
一家に感情移入している観客は、一家を通してポールとピーターとの遊びにつきあわされる。
底意の分からない(いや分かる必要がないのだが)遊戯を強いられるのだ。
それは間接的な意味での「追体験」という意味ではない。
二人は都合三度、私たち観客に向けて話しかけてくる。
それは物語レベルを超えた、メタレベルでの問いかけだ。
「あなたならどうする?」という二人の問いかけは、観ている者へ直接的に響く。
つまり、ゲームしている相手は、実はアンやジョージではないことを再度突きつけられるのだ。
そのために映画としては禁じ手の「巻き戻し」までやってのける。
普通の映画なら、きっとこの時点で物語と自分との間にできた空隙を埋めることができずに、「冷め」てしまう。
「巻き戻し」はこの話はフィクションですよ、ということを観客に自覚させてしまうからだ。
それがないのは、遊ばれているのは最初から僕たち観客だったからだ。
しかも、巻き戻されるのは彼らがゲームに失敗してしまうという展開だ。
その展開をやり直してしまうということは、ジョージたちに全く救いがないことを改めて突きつけることになる。
もちろん、そこで予感するはずだ。
「ああ、この映画に助かる見込みはもはや全くないのだ」ということを。
だが、この映画をみて「僕も犯罪してみよう」などと観客が思うとはとうてい思わない。
むしろ感じるのは暴力への強い怒りとむなしさだろう。
なぜなら、ピーターとポールは〈個人〉ではなく、悪意や暴力という抽象的な存在だから。
彼らをどれだけ分析しても、彼らの素性はつかめない。
彼らは絶対に正義に屈することはない。
〈暴力〉そのものである彼らに、〈個性〉などないからだ。
リメイクにあたって監督が起用したのはとうてい「デブ」ではないピーターをキャスティングしたのは意図的だと思う。
そうすることで余計に特徴が奪われてしまった。
特徴がない二人は単なる〈暴力〉を演じることになる。
この映画にグロテスクで露骨な描写はほとんどない。
だがそもそも〈暴力〉とは力でやりこめられることを言うのではない。
殴られるのは確かに暴力だが、それは一方的であることで初めて〈暴力〉性がたちあらわれる。
殴られることそのものではなく、殴られるかもしれない、いや必ず殴られるだろうという「懸念」そのものが〈暴力〉なのだ。
そう、この映画は一方的に観客が〈暴力〉を暴力的に受け続ける映画なのだ。
それこそが〈暴力〉の本質に他ならない。
つまり、〈暴力〉とは一方向的なものであり、それを知らしめる映画なのだ。
胸くそ悪くなるのは当然だ。
この映画に教訓めいたものなど一つもない。
ただ、〈暴力〉の本質を語っているだけだ。
その〈暴力〉は常に僕たちの隣にある。
普段はそれを覆い隠すだけのモラルが支配しているだけだ。
しかし、それが隣に常に存在することを僕たちは知っている。
いつ、ポールとピーターが目の前に現れるのか不安で仕方がない。
そのことを改めて突きつけてくるこの映画が、胸くそ悪いのは当然なのだ。
よくできた映画だとは思うが、ただただ腹立たしい。
僕は二度と見ない。
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