私の会社でも、急速に「見える化」ということが重視されるようになった。
成果だけではなく、そのプロセスも克明に記録していくことが求められるし、見えていないことは、「ない」ことと等しいというような扱いにさえ感じる。
成果だけでははかれないことが多々あるし、たしかに働いている者としては、成果にならなかったことこそ、評価してほしいという気持ちもある。
だから、この流れはそれほど理不尽なことではないはずだ。
一方で、この流れがむしろ「見える化」というよりも「見せる化」になっていることに違和感がある。
成果を出すために、プロセスを再考する。
プロセスを確認するために、プロセスを見えるように、自分を含めた「誰かに」見せるようにする。
それがむしろ「プロセス」そのもののように捉えられている。
わかりやすいのは、スマホによって自分の人生や私生活を「見せる化」しようとしていることを鑑みればいいだろう。
私たちは「プライベート」をこれまで確保するのに躍起になっていたと思っていたら、この「プライベート」なるものまで「見せる化」することに今度は躍起になっている。
道具によって人間が変化していくのはこれまでの人間の歴史を振り返れば必然ではある。
この「見せる化」によって、本当に見るべき点を私たちが見失っていかないかどうかが私は少し怖い。
それはこの世相を達観しての怖さではない。
知らぬ間にそれが当たり前になり、現象に漂うことになりはしないか、あるいはすでになっていないかが怖いのだ。
外から批判したような態度を「見せる」ことは簡単だ。
だが、実際に自分の行動を、自分自身で把握しようとする力は、単に数値や言葉、写真では養えない。
事の本質は何なのか。
そういう「見せる化」では見えない、何かを掴む力こそ、現代に生きる私たちの「見る」力なのだろう。
成果だけではなく、そのプロセスも克明に記録していくことが求められるし、見えていないことは、「ない」ことと等しいというような扱いにさえ感じる。
成果だけでははかれないことが多々あるし、たしかに働いている者としては、成果にならなかったことこそ、評価してほしいという気持ちもある。
だから、この流れはそれほど理不尽なことではないはずだ。
一方で、この流れがむしろ「見える化」というよりも「見せる化」になっていることに違和感がある。
成果を出すために、プロセスを再考する。
プロセスを確認するために、プロセスを見えるように、自分を含めた「誰かに」見せるようにする。
それがむしろ「プロセス」そのもののように捉えられている。
わかりやすいのは、スマホによって自分の人生や私生活を「見せる化」しようとしていることを鑑みればいいだろう。
私たちは「プライベート」をこれまで確保するのに躍起になっていたと思っていたら、この「プライベート」なるものまで「見せる化」することに今度は躍起になっている。
道具によって人間が変化していくのはこれまでの人間の歴史を振り返れば必然ではある。
この「見せる化」によって、本当に見るべき点を私たちが見失っていかないかどうかが私は少し怖い。
それはこの世相を達観しての怖さではない。
知らぬ間にそれが当たり前になり、現象に漂うことになりはしないか、あるいはすでになっていないかが怖いのだ。
外から批判したような態度を「見せる」ことは簡単だ。
だが、実際に自分の行動を、自分自身で把握しようとする力は、単に数値や言葉、写真では養えない。
事の本質は何なのか。
そういう「見せる化」では見えない、何かを掴む力こそ、現代に生きる私たちの「見る」力なのだろう。
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