評価点:73点/2007年/アメリカ
監督:ロバート・レッドフォード
痛烈な米国批判。
政治学を専攻する教授(ロバート・レッドフォード)のもとに呼ばれたトッドは、オールBをやるから授業を一切とるな、と宣告される。
驚いたトッドに、教授はもう一つの選択肢を用意する。
同じ時刻、ワシントンに呼ばれた記者(メリル・ストリープ)は、将来の大統領候補とも噂される議員(トム・クルーズ)の元に呼ばれ、独占インタビューを頼まれる。
それはイランからアフガンに侵入したテロリストを、高台を占拠することで一網打尽にするという新作戦だった。
同じ時刻、その新作戦に任命されたアーリアン・フィンチ(デレク・ルーク)とアーネスト・ロドリゲス(マイケル・ペーニャ)は、高台に設置されていた対空砲によってヘリから投げ出されてしまう。
そして、トッドを呼び出した教授は、二人の優秀な学生について語り始めるが。
トム、レッドフォード、ストリープという三人の名優たちの競演を果たした作品だ。
このキャストだけでもみる価値はありそうだと思わせる。
監督は、そのレッドフォード。
「普通の人々」から現在に至るまで、単なる役者ではない、裏方も仕事もできることを証明し続けている。
最近は、テロをあつかった映画でも、固有名詞をほとんど出さないことが多い。
これはあらゆる機関に配慮してのことだろうが、この映画はその禁忌を破っている。
あからさまに固有名詞を出すことによって、リアルタイムに時事問題にメスを入れている。
その意味でも、この映画は非常に重たい映画だし、興味深い映画だ。
この映画がどのように、未来において語られるのか、あるいは語られないのか、それは世の中が判断するだろう。
とにかく、みるなら今見るべき映画だ。
むしろ、少し遅いくらいだ。
▼以下はネタバレあり▼
大きく三つの空間が関与するようにできている。
戦争映画はどうしても冗長気味になりがちだが、この映画は90分程度と非常に引き締まっている。
だから、その分だけ常識としての知識は問われるが、これはアメリカ国民に向けて作られた映画なので、問題はないだろう。
時事問題をこれほどダイレクトに、そしてリアルタイムに扱った映画も珍しい。
おそらく、この映画のコンセプトは、「早く世に出す」ことだったお思われる。
映画という媒体を選んだ、そのことに意味がある。
単なるテレビドラマや報道番組の再現VTRでは出せない重みが、この映画にはある。
トムやレッドフォードもそのあたりの重要性をよく理解しているように思える。
アメリカなどの海外では、映画人や著名人も巻き込んで選挙運動を展開するが、この映画もその一つと見て良いだろう。
さて、三つの軸を先に確認しておこう。
一つは、メリル・ストリープとトムのやりとりで展開される独占インタビューである。
トムはアメリカの上院議員で、将来を嘱望されている新進気鋭の野心家であり、彼はジャーナリストのジャニーン・ロスを呼びつけ、独占インタビューを特ダネとして報道して欲しいと伝える。
ロスは、彼の作戦を聞き出すとともに、この戦争が果たして正義と言えるのか、という疑問を率直に投げかける。
アーヴィングは、これまでの戦争を無駄にしないためにも、新たな展開を期待できる新作戦に踏み切るのだと意気込む。
インタビューはいつしか議論になり、戦争の是非へと発展する。
アーヴィングは、マスコミがこぞってイラク戦争に参加するようにあおった責任を果たすべきだと訴える。
また、ロスのほうも、イラク戦争を推し進める以外の方法、撤退という選択肢の可能性を問う。
「勝利のためにはどんな手段でも使う」
「この国の正義を絶やしてはならない」
と熱く訴えるアーヴィングと平行線のまま、ロスは、オフィスを後にする。
その同時期にその作戦が実行されていた。
それが、「クラッシュ」のマイケル・ぺーニャと、デレク・ルークである。
彼らはヘリで高台に向かい、そこからイランからアフガンに侵攻するテロリストを一掃するという作戦に従事する。
衛星がとらえた映像にあった砲台は無力化しているという情報だったにもかかわらず、ヘリは対空砲かを浴びる。
投げ出された二人は、マレーという歴史学者のもとで勉学にいそしんでいた同志だった。
二人はじわじわ向かってくる敵兵に囲まれ、やがて銃弾が尽き、殺されてしまう。
そしてさらにその同時期、マレー教授はトッドという学生を研究室に呼びつける。
彼は以前勉学に熱心に励んでいたにもかかわらず、欠席が続いていた。
マレーはトッドに話を聞くように説得し、二人の優秀な学生が志願兵になったことを明かす。
未来ある学生が「この悲惨な状況を見過ごすことはできない」と語った熱意と、熱意を失ってしまったトッドを対比することで、「参与する」意味を説く。
おもしろいのは、三者の状況が全く同時期に行われているということだ。
それを巧みに切り替えながら、三者のつながりとそれぞれの立場の相違を明らかにしていく。
コンテクストにあるイラク戦争や9・11のテロなどを織り交ぜながら、テーマを見せていく。
そのテーマとは、トッドが受け止めたことである。
つまり、無関心でいることは罪悪である、ということだ。
アーヴィング議員はロスに「私は大統領に立候補しない」と宣言する。
一方でトッドは「お金のことしか考えない政治家は大統領に立候補しないといいながら、立候補するんだ」と鋭く見抜いてる。
だが、トッドはそれに見切りをつけて、参与する、コミットするということから逃げ続けている。
「選挙ポスターを貼ることが何になるんだ」と言うが、結局それは無関心を装って、お金をむさぼろうとしていることと何ら変わりないのだ。
時間や労力を浪費しながら、片一方では志ある若者たちが、死んでいく。
邦題は「大いなる陰謀」という意味不明のものだが、原題は「Lions for Lambs」である。
「羊たちの為に死んでいくライオン」くらいの意訳が適当だろう。
兵士たちは真に志の高い国民だが、それは志を持たない政治家や無関心な国民たちを守るためである。
「守る」という表現は語弊があるかもしれないが、結局その利益や生命を「守る」ことになるのである。
ここには痛烈なメッセージが込められている。
ベトナム戦争が泥沼化したとき、世論は反戦に傾いた。
そのとき、帰ってきた兵士たちにつばを吐きかける始末だった(「ランボー」)。
この映画にあるメッセージ性は、兵士たちは誰のために死んでいくのか、あるいは現に「死んでいるのか」。
この映画を見ている時、この文章を書いているとき、読んでいるとき、多くの兵士は危険にさらされ続けている。
それで本当に良いのか、それは国民として正しいことなのか。
その戦争に意義があるのならば、彼らが死ぬ道理も理解できる。
だが、本当に意義あると言えるのか。
それを国民一人一人は、耳をふさいで、目を覆っていていいのだろうか。
反戦とは、イラク戦争反対とは、政治家だけのものだろうか。
余談だが、僕の実体験を少し書こう。
少し前、飲みに行った帰り、終電がなくなったためにタクシーで自宅に帰った。
僕は基本的にそういう状況だとすぐに寝るのだが、そのときの運転手がやたらと話しかけてきた。
「民主党の小沢さんの秘書が逮捕されましたね」とか、
「大阪の橋本さんはどうですか」とか、延々と語られた。
僕は愛想の良い(?)人なので、いちいち答えていた。
最後に彼は言った。
「私なんかは民間を探せば政治をきちんとしてくれる人間が出てくると思うんですけどね~」
「誰かいないですかね~救世主みたいな日本を救ってくれる人は。」
僕はこの人は間違っていると思った。
彼は政治に参与していくということ、それを全く理解していないからだ。
「誰かが救ってくれる」ことを期待しているような国民が大勢いれば、きっとその国はダメになっていく。
(その運転手は関心を持つという最低限の心構えは持っているにしても。)
この映画が言わんとしていることも、それだろう。
誰かが、ではなく、自らその現場に参与していくことが、不可欠なのだ。
これは対岸の火事ではない。
当事者はアメリカ国民なのであり、アメリカ国民ひとり一人が考えていく問題なのだ。
トムは自ら悪役を買って出た。
この映画がおもしろく、意味があるのは、彼が展開する論にも一理あると思わせる部分があるからだ。
特にメディアの責任を問いただしたことばは、軽いものではない。
この映画ではジャーナリストのメリル・ストリープは、善人のような役回りになっているが、そうではないだろう。
トッドが見るニュースにテロップが流れた。
そのテロップの情報を知るのはメリル一人はずだ。
つまり、ジャーナリストは悩んだ挙げ句、報道機関という企業の方針を覆せなかったのだと僕は読んだ。
僕はこの映画はすごくおもしろい映画だと思う。
それは以上に書いたことだ。
タイムリーの時事を扱い、なおかつ豪華なキャスティングで、これだけ鋭く問題をえぐった映画はそうはない。
だが、一つ不満なのは、現在最も権力を握っているのは政治家ではないという反省がないことだ。
その権力者とは、メディアである。
特に、映画やテレビ、新聞雑誌などの大手メディアの「暴力」を暴く精神がなければ、この映画も単なるイデオロギーの押しつけになる。
僕たちに求められるべきは、この映画を見て、政治や国際問題に参与することそのものではない。
この映画さえもメタ化して、超然たる視点で物事を見ることである。
監督:ロバート・レッドフォード
痛烈な米国批判。
政治学を専攻する教授(ロバート・レッドフォード)のもとに呼ばれたトッドは、オールBをやるから授業を一切とるな、と宣告される。
驚いたトッドに、教授はもう一つの選択肢を用意する。
同じ時刻、ワシントンに呼ばれた記者(メリル・ストリープ)は、将来の大統領候補とも噂される議員(トム・クルーズ)の元に呼ばれ、独占インタビューを頼まれる。
それはイランからアフガンに侵入したテロリストを、高台を占拠することで一網打尽にするという新作戦だった。
同じ時刻、その新作戦に任命されたアーリアン・フィンチ(デレク・ルーク)とアーネスト・ロドリゲス(マイケル・ペーニャ)は、高台に設置されていた対空砲によってヘリから投げ出されてしまう。
そして、トッドを呼び出した教授は、二人の優秀な学生について語り始めるが。
トム、レッドフォード、ストリープという三人の名優たちの競演を果たした作品だ。
このキャストだけでもみる価値はありそうだと思わせる。
監督は、そのレッドフォード。
「普通の人々」から現在に至るまで、単なる役者ではない、裏方も仕事もできることを証明し続けている。
最近は、テロをあつかった映画でも、固有名詞をほとんど出さないことが多い。
これはあらゆる機関に配慮してのことだろうが、この映画はその禁忌を破っている。
あからさまに固有名詞を出すことによって、リアルタイムに時事問題にメスを入れている。
その意味でも、この映画は非常に重たい映画だし、興味深い映画だ。
この映画がどのように、未来において語られるのか、あるいは語られないのか、それは世の中が判断するだろう。
とにかく、みるなら今見るべき映画だ。
むしろ、少し遅いくらいだ。
▼以下はネタバレあり▼
大きく三つの空間が関与するようにできている。
戦争映画はどうしても冗長気味になりがちだが、この映画は90分程度と非常に引き締まっている。
だから、その分だけ常識としての知識は問われるが、これはアメリカ国民に向けて作られた映画なので、問題はないだろう。
時事問題をこれほどダイレクトに、そしてリアルタイムに扱った映画も珍しい。
おそらく、この映画のコンセプトは、「早く世に出す」ことだったお思われる。
映画という媒体を選んだ、そのことに意味がある。
単なるテレビドラマや報道番組の再現VTRでは出せない重みが、この映画にはある。
トムやレッドフォードもそのあたりの重要性をよく理解しているように思える。
アメリカなどの海外では、映画人や著名人も巻き込んで選挙運動を展開するが、この映画もその一つと見て良いだろう。
さて、三つの軸を先に確認しておこう。
一つは、メリル・ストリープとトムのやりとりで展開される独占インタビューである。
トムはアメリカの上院議員で、将来を嘱望されている新進気鋭の野心家であり、彼はジャーナリストのジャニーン・ロスを呼びつけ、独占インタビューを特ダネとして報道して欲しいと伝える。
ロスは、彼の作戦を聞き出すとともに、この戦争が果たして正義と言えるのか、という疑問を率直に投げかける。
アーヴィングは、これまでの戦争を無駄にしないためにも、新たな展開を期待できる新作戦に踏み切るのだと意気込む。
インタビューはいつしか議論になり、戦争の是非へと発展する。
アーヴィングは、マスコミがこぞってイラク戦争に参加するようにあおった責任を果たすべきだと訴える。
また、ロスのほうも、イラク戦争を推し進める以外の方法、撤退という選択肢の可能性を問う。
「勝利のためにはどんな手段でも使う」
「この国の正義を絶やしてはならない」
と熱く訴えるアーヴィングと平行線のまま、ロスは、オフィスを後にする。
その同時期にその作戦が実行されていた。
それが、「クラッシュ」のマイケル・ぺーニャと、デレク・ルークである。
彼らはヘリで高台に向かい、そこからイランからアフガンに侵攻するテロリストを一掃するという作戦に従事する。
衛星がとらえた映像にあった砲台は無力化しているという情報だったにもかかわらず、ヘリは対空砲かを浴びる。
投げ出された二人は、マレーという歴史学者のもとで勉学にいそしんでいた同志だった。
二人はじわじわ向かってくる敵兵に囲まれ、やがて銃弾が尽き、殺されてしまう。
そしてさらにその同時期、マレー教授はトッドという学生を研究室に呼びつける。
彼は以前勉学に熱心に励んでいたにもかかわらず、欠席が続いていた。
マレーはトッドに話を聞くように説得し、二人の優秀な学生が志願兵になったことを明かす。
未来ある学生が「この悲惨な状況を見過ごすことはできない」と語った熱意と、熱意を失ってしまったトッドを対比することで、「参与する」意味を説く。
おもしろいのは、三者の状況が全く同時期に行われているということだ。
それを巧みに切り替えながら、三者のつながりとそれぞれの立場の相違を明らかにしていく。
コンテクストにあるイラク戦争や9・11のテロなどを織り交ぜながら、テーマを見せていく。
そのテーマとは、トッドが受け止めたことである。
つまり、無関心でいることは罪悪である、ということだ。
アーヴィング議員はロスに「私は大統領に立候補しない」と宣言する。
一方でトッドは「お金のことしか考えない政治家は大統領に立候補しないといいながら、立候補するんだ」と鋭く見抜いてる。
だが、トッドはそれに見切りをつけて、参与する、コミットするということから逃げ続けている。
「選挙ポスターを貼ることが何になるんだ」と言うが、結局それは無関心を装って、お金をむさぼろうとしていることと何ら変わりないのだ。
時間や労力を浪費しながら、片一方では志ある若者たちが、死んでいく。
邦題は「大いなる陰謀」という意味不明のものだが、原題は「Lions for Lambs」である。
「羊たちの為に死んでいくライオン」くらいの意訳が適当だろう。
兵士たちは真に志の高い国民だが、それは志を持たない政治家や無関心な国民たちを守るためである。
「守る」という表現は語弊があるかもしれないが、結局その利益や生命を「守る」ことになるのである。
ここには痛烈なメッセージが込められている。
ベトナム戦争が泥沼化したとき、世論は反戦に傾いた。
そのとき、帰ってきた兵士たちにつばを吐きかける始末だった(「ランボー」)。
この映画にあるメッセージ性は、兵士たちは誰のために死んでいくのか、あるいは現に「死んでいるのか」。
この映画を見ている時、この文章を書いているとき、読んでいるとき、多くの兵士は危険にさらされ続けている。
それで本当に良いのか、それは国民として正しいことなのか。
その戦争に意義があるのならば、彼らが死ぬ道理も理解できる。
だが、本当に意義あると言えるのか。
それを国民一人一人は、耳をふさいで、目を覆っていていいのだろうか。
反戦とは、イラク戦争反対とは、政治家だけのものだろうか。
余談だが、僕の実体験を少し書こう。
少し前、飲みに行った帰り、終電がなくなったためにタクシーで自宅に帰った。
僕は基本的にそういう状況だとすぐに寝るのだが、そのときの運転手がやたらと話しかけてきた。
「民主党の小沢さんの秘書が逮捕されましたね」とか、
「大阪の橋本さんはどうですか」とか、延々と語られた。
僕は愛想の良い(?)人なので、いちいち答えていた。
最後に彼は言った。
「私なんかは民間を探せば政治をきちんとしてくれる人間が出てくると思うんですけどね~」
「誰かいないですかね~救世主みたいな日本を救ってくれる人は。」
僕はこの人は間違っていると思った。
彼は政治に参与していくということ、それを全く理解していないからだ。
「誰かが救ってくれる」ことを期待しているような国民が大勢いれば、きっとその国はダメになっていく。
(その運転手は関心を持つという最低限の心構えは持っているにしても。)
この映画が言わんとしていることも、それだろう。
誰かが、ではなく、自らその現場に参与していくことが、不可欠なのだ。
これは対岸の火事ではない。
当事者はアメリカ国民なのであり、アメリカ国民ひとり一人が考えていく問題なのだ。
トムは自ら悪役を買って出た。
この映画がおもしろく、意味があるのは、彼が展開する論にも一理あると思わせる部分があるからだ。
特にメディアの責任を問いただしたことばは、軽いものではない。
この映画ではジャーナリストのメリル・ストリープは、善人のような役回りになっているが、そうではないだろう。
トッドが見るニュースにテロップが流れた。
そのテロップの情報を知るのはメリル一人はずだ。
つまり、ジャーナリストは悩んだ挙げ句、報道機関という企業の方針を覆せなかったのだと僕は読んだ。
僕はこの映画はすごくおもしろい映画だと思う。
それは以上に書いたことだ。
タイムリーの時事を扱い、なおかつ豪華なキャスティングで、これだけ鋭く問題をえぐった映画はそうはない。
だが、一つ不満なのは、現在最も権力を握っているのは政治家ではないという反省がないことだ。
その権力者とは、メディアである。
特に、映画やテレビ、新聞雑誌などの大手メディアの「暴力」を暴く精神がなければ、この映画も単なるイデオロギーの押しつけになる。
僕たちに求められるべきは、この映画を見て、政治や国際問題に参与することそのものではない。
この映画さえもメタ化して、超然たる視点で物事を見ることである。
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