春日通りを文京区役所方面へ散策していきます。現在歩いている場所は文京区の「湯島二丁目」という区域で、かつての「東京府の本郷区」と呼ばれていたエリアです。湯島地区は湯島天神を中心にして住宅地や商店が密集しています。また上野界隈に近いので問屋街などもあり、文京区のイメージとは違った雰囲気です。
緩やかに右カーブしていく春日通り、奥には文京区役所である「文京シビックセンター」のビルが見えます。昭和22年(1947)年に本郷区は小石川区と合併して「文京区」が誕生しました。
文京区の「本郷三丁目」地区へ入っていきます。湯島郷の中に集落が出来た事に由来し湯島の中心地であったために湯島本郷とよばれていたのが、室町時代から戦国時代に本郷と呼ばれるようになりました。日本屈指の文教地区であり、この先の春日通りの本郷三丁目駅から南部は商業(医療機器など)・病院地区、北西部は商業(出版業)・住宅地区であり、北東部には東京大学本郷キャンパスがあります。
東京大学の竜岡門への分岐道との交差点前に「警視庁本富士警察署」「本郷消防署」の建物があります。この交差点を曲がってしばらく歩くと竜岡門が見えてきます。
横断歩道を渡るための信号待ちをしているときに竜岡門方面を撮影してみました。道路の両側は少し雑然としていますが、きれいな並木道がまっすぐ続いています。
ズームで撮影してみました。正面に移っている建物は理学部の5号館です。東京大学の本郷キャンパスについての説明は次回の記事で述べます。
歩道には旧町名の説明板があります。現在の湯島4丁目周辺はかつては「龍岡町」という名前で呼ばれていました。明治7年(1874年)に下谷茅町が分割される形で龍岡町が誕生します。「龍岡町」の町名の由来は、向岡の台地に立てた町という意味から、立つを縁起のよい龍の字に変えて龍岡町と名づけたといわれています。
昭和40年(1965年)の住居表示に伴って龍岡町の区域は「湯島四丁目」の一部になりました。龍岡町という地名は無くなりましたが、東京大学の「竜岡門」として残っています。
新緑の散策道の奥に「竜岡門」が見えてきました。竜岡門に通じている道路は東京大学に通じる道なので普段は閑散としているイメージがありますが、東大構内・東大病院とJR上野駅もしくはJR御茶ノ水駅とを結ぶ路線バスが頻繁に走行したりするので交通量はかなり多いです。
「竜岡門前交差点」。なぜここに信号機があるのかというと、門の前から本郷キャンパスの敷地の塀に沿って池の端方面へ抜けることができる道路が分岐しているからです。以前、緑がJR上野駅前から東大病院までタクシーで移動したことがありましたが(患者としてではなく)、運転手さんは春日通りを通らずにこの抜け道で竜岡門の前に出てきたことを覚えています。
「竜岡門」の全景です…。とはいっても同じ東京大学の赤門のような堂々とした門が存在するわけでもなく、赤レンガを積み上げた入口があるだけです。本郷通りに面している赤門や正門と違う点は、自動車が通れる点くらいです。
「竜岡門」はキャンパス南部にある門で昭和8年(1933年)に完成しました。設計は内田祥三氏です。名称は門周辺の旧地名「龍岡町」(現・湯島四丁目)に由来します。かつては門扉が付いていたが、門柱間を広げる工事を行う際に撤去され、現在は門柱のみとなっています。龍岡門は常時開放されており、一般車両も入構できます。
竜岡門から本郷キャンパスの敷地内を南北に通っている自動車道路、路線バスや東大病院から出てくるタクシーで交通量は非常に多いです。平日の午後の散策でしたが学生さんたちは思ったより見かけなかったです。道路の周辺の鬱蒼とした木々の新緑が見事です。
やはり東大病院を訪れる人たちに配慮してか歩道には案内板が非常に多いです。次回の記事でご紹介する東京大学医学部附属病院は日本全国から患者さんたちが集まってくるそうです。関東地方の千葉県北西部に住んでいる緑からすると東大病院なんて日帰りで行ける場所ですが、ホテルを手配したり新幹線や飛行機に乗らないとこれない人というのも全国にいるのかもしれませんね。むしろそういう人たちの方が多いのかもしれません。
そう考えてみると日本人として生まれて、関東地方に住んでいて、その中でも東京のお隣の千葉県北西部に住んでいるというのはとてつもない「特権」なのかもしれません。もちろん東京や神奈川、埼玉の人たちよりも恵まれているとは思っていません(><)。
地図の中心点は「竜岡門」です。門の北側には東京大学の本郷キャンパスの広大な敷地が広がっています。