緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

真夏の皇居東御苑:百人番所周辺から眺める大手町の高層ビル群 PART2

2013年08月31日 11時50分01秒 | 皇居周辺・城西


百人番所が設置されている広大な広場を南側から撮影してみました。広場を取り囲むように巨大な石垣が壁のように構築されていて、まさに砦のような雰囲気が広がっていました。




百人番所の建物を少し離れた場所から撮影しました。背後には再開発工事中の大手町の高層ビル群が綺麗に写っていました。日本経済新聞本社ビル、経団連ビルなど2000年代後半に相次いで竣工した高層ビル群です。




百人番所に配置されていた「百人組」は江戸幕府の組織の一つであり、備(そなえ)に配される通常の鉄砲組とは異なり、高い火力を有した独立部隊として編成されたと考えられていました。




平時は主に江戸城大手三之門に詰め(番所は現存)、将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際は山門前を警備しました。また徳川家康は、江戸城が万一落ちた場合、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていました。鉄砲百人組とはその非常時に動員される鉄砲隊のことであり、四谷に配されたといいます。




現在JR四ツ谷駅や上智大学がある「四谷見附」周辺は江戸城の西側の守りを固める最後の砦であり、尾張徳川藩の上屋敷(現陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・防衛省本庁舎)と共に江戸幕府の要衝であったのです。




百人番所前から江戸城・本丸御殿の敷地が広がっている高台へ向かいます。高台へ続いている坂の途中から振り返って百人番所や大手町の高層ビル群を撮影しました。




坂下に設置されているのが「大番所」の建物で、本丸へと通じる中之門警備のための詰所です。江戸幕府の組織の一つであり、常備兵力として旗本を編制した部隊である「大番」と呼ばれる人達が詰めていました。




そしてこの巨大な石垣の間に「中之門」の門が設置されていました。現在は跡地となっています。




大番所周辺は高台へ続いている坂の途中になっているので、百人番所や皇宮警察本部の建っている敷地を見下ろすことが出来ます。




皇居前広場などでよく見られる黒松の木々が坂の周辺には多く植えられています。




江戸城・本丸御殿の跡地広場が広がっている高台へ続いている坂道を上っていきます。坂道の両側にも巨大な石垣が構築されていて、背丈の高い木々で覆われていました。




深い緑に覆われている坂道を歩いていると、本当に東京都心部の中心の、更に中枢である丸の内・大手町周辺を歩いているのかと錯覚したりします。




百人番所のある広場から本丸御殿跡地の広場まで、標高差は約20メートルくらいあります。実際に歩いてみるとかなりの旧坂であることが解ります。




2つ目の坂のカーブを曲がると、前方に江戸城・本丸御殿の跡地広場が見えてきました。この坂の道路は非常に道幅が広く、大型トラックも余裕ですれ違えるほどです。




真夏の濃い緑の木々に覆われている広場が見えてきました。普段と違って散策している観光客の姿もほとんど見られませんでした。



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真夏の皇居東御苑:百人番所周辺から眺める大手町の高層ビル群 PART1

2013年08月30日 11時32分03秒 | 皇居周辺・城西


大手高麗門・大手門渡櫓を通り抜けて「百人番所」がある広場へ向かいます。江戸時代の大手高麗門が江戸城の正門であり、現在緑は江戸城内の目抜き通りを散策していることになります。




宮内庁病院の敷地に隣接するようにひっそりと建っている建物は「宮内庁・三の丸尚蔵館」です。昭和天皇の崩御後の1989年6月に皇室から寄贈されて国庫に帰属した美術品を保存、研究、公開するための施設として1993年に開館しました。




収蔵品には、明治以前から皇室に伝来した品のほか、帝室技芸員に任命された美術家の制作した作品、焼失した皇居の明治宮殿で使用されていた調度、装飾品類、明治以降に旧大名家、旧摂関家や財界人等から皇室に献上された美術品などが含まれています。




三の丸尚蔵館前から振り返って大手町の高層ビル群を撮影しました。屋上でタワークレーンを解体工事中の「(仮称)読売新聞東京本社ビル」の高さ200メートルの高層ビルの存在感が目立ちます。




しばらく道なりに沿って歩くと、前方に「同心番所」とその手前側に設置されていた「大手三の門」跡地が見えてきました。この日は幾分涼しくなっているとはいえ30度前後の気温であり、散策する人の姿は少なかったです。




「大手三の門」跡地にやってきました。この門も本来は枡形門で両側は水堀でした。ここを駕籠に乗ったまま通ることができたのは尾張家尾張家・紀伊家紀伊家・水戸家の徳川御三家だけで、それ以外の大名はここで降ろされ検問を受けました。




大手三の門の内側には「同心番所」の建物が保存されています。「番所」とは江戸城には警備要員の詰所のことです。




同心番所の脇を通り抜けて、「百人番所」の建物が建っている広場へ向かいます。広場全体を見回してみると、伊豆半島から船で運んできて積み上げた巨大な石垣に囲まれているのが解りますね。




大手町・丸の内の高層ビル群方向を向くと、手前側には寺社の庫裏に酷似している建物が建っています。この建物は「皇宮警察本部」の庁舎です。




江戸城最後の固めのため、検問所として睨みを利かせていた「百人番所」です。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎馬の四組が交代で詰め、昼夜を問わず警固に当たっていました。




少し離れた位置から皇宮警察本部庁舎や百人番所の建物を撮影してみると、背後に広がっている大手町の高層ビル群が「壁」のように迫ってくるようですね。




一組に同心が100人ずつ配属されたため百人番所と名づけらたのだそうです。散策している外国人観光客の人たちも物珍しそうに眺めていました。




東京駅を中心として日本最大のオフィス街が広がっている丸の内地区ですが、江戸時代は江戸城の敷地の一部であり「本丸の内」と呼ばれていました。江戸時代初期の土木工事で大量の土砂を湿地帯に堆積させることで人口の土地を造り上げたのです。




江戸時代の丸の内は比較的石高の大きい大名の屋敷が建ち並ぶ「大名小路」と呼ばれた屋敷町でした。現在の東京駅や丸の内ビル等が建っている場所には大名屋敷が密集していたのです。




明治維新後はすべての大名屋敷が撤去されて荒れ地として放置されていた丸の内ですが、大正時代に官営東海道本線の中央停車場(=東京駅)が新橋駅から延伸開業し、その後はオフィス街として発展しました。




日本を代表する大企業やマスコミの本社ビルが集中し、地区内における東証1部上場企業は76社を誇ります。これら企業の連結売上高は約121兆円(日本全体のGDPの約23パーセント)とまさに日本経済の中枢として発展しています。



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真夏の皇居東御苑:大手高麗門、大手門渡櫓を通り抜けて皇居東御苑へ

2013年08月29日 19時22分35秒 | 皇居周辺・城西


雲一つない真夏の快晴の青空の下に建っている「大手高麗門」を見上げて撮影しました。皇居東御苑の敷地内へ入るには、この大手門以外には平川門、北桔橋門の合計3か所となっています。




大手門橋の南側に広がっている桔橋濠の水面を撮影しました。この日の東京都心部は午前中は雲が多かったのですが、お昼くらいから猛烈な西風によって雲が全て吹き流されて快晴の青空が広がっていきました。




大手高麗門をくぐり、大手門内の「枡形(ますがた)」の中を散策していきます。一の門である「大手高麗門」と、二の門である「大手門渡櫓」が取り囲むように長さ約30メートル程の方形地形が整備されています。




「大手門渡櫓」を見上げて撮影しました。太平洋戦争中に大手門藻空襲を受けてこの大手門渡櫓が被災し、大手高麗門は無事でした。大手門渡櫓はその後の1967年(昭和42年)に再建されています。




振り返って大手高麗門を撮影してみました。東京駅方向から皇居東御苑を見学しに来る観光客の人たちは、この大手高麗門から入場するケースが多いそうです。今回の散策では、私「緑」は大手高麗門から散策をスタートし、平川門をゴールにしたいと考えています。




枡形の中から大手高麗門を見上げて撮影していると、背後には大手町地区の高層ビル群が見えます。江戸時代の建築物である高麗門と、現代の高層ビル群の対比もすごく面白いですね。




大手門渡櫓の建物を正面から撮影しました。高麗門を突破した敵軍はここで勢いを無くし、正面の渡櫓からもう一度攻撃を受ける仕組みになっているのです。




大手高麗門を内側から眺めると、門から飛び出ている二つの屋根があることが発見できます。これは門を開いている時に、門扉を守るための屋根なのです。




大手高麗門の背後にそびえ立っている二つの高層ビルは、右側が「パレスホテル東京」、左側が高層オフィスビルである「パレスビル」です。




丸の内や大手町地区の再開発工事による高層化によって、皇居東御苑周辺の景観もここ数年で激変しています。特に丸の内・大手町周辺は高層ビルの密度が物凄く高いので、見ていると「壁」のように迫ってくる感じです。




枡形地形の一角には「旧大手門渡櫓の鯱(しゃち)」が置かれています。1945年4月の米軍の空襲によって被災した旧・大手門渡櫓の屋根にあったものなのだそうです。




枡形内の壁面周辺も石垣や石段などで整備されていて、敵軍に枡形内から擁壁を破られないように施されているのが解ります。




大手門渡櫓を渡って皇居東御苑の敷地内へ入っていきます。築城用語の世界では、高麗門や渡り櫓の内側の城郭の敷地内を「曲輪(くるわ)」と呼ぶのだそうです。正面に写っている鬱蒼とした木々の奥には「宮内庁病院」の建物が建っています。




大手門渡り櫓のすぐ脇には事務所の建物が建っていて、そこで係の方から訪問者カードを手渡されます。この訪問者カードは散策中はずっと携帯していなければならず、3か所のいずれかの門から退出するときに返却する必要があります。




皇居東御苑は皇居に隣接している場所柄から、制服警察官の人たちが自転車に乗って敷地内を巡回している姿を多く見かけます。




管理事務所前から振り返って「大手門渡櫓」を撮影してみました。これから皇居東御苑の敷地内を散策していきます。



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真夏の皇居東御苑:再開発進む大手町のビル街を通り抜けて、大手高麗門へ

2013年08月28日 10時46分37秒 | 皇居周辺・城西


8月下旬の平日、東京地下鉄大手町駅にやってきました。高層化のための再開発工事が現在も進んでいる大手町地区の高層ビル街の中を通り抜けて皇居東御苑へ向かいます。




東京地下鉄大手町駅前に建設中の「東京プライムステージ・大手町タワー」の高層ビルを見上げて撮影しました。既に高層ビル自体は完成していて、現在は内装工事や低層階周辺の工事が行われています。




東京プライムステージの敷地内で整備中の緑地帯「大手町の森」を撮影しました。いつの間にか若木が多数敷地内に植えられていて、本当にオフィスビル街の中に原生林が生きているように見えました。




大手町の森の面積は約3600平方メートル、東京都心に森を再生することでヒートアイランド現象の緩和が期待されています。ビジネスマンの人たちが行きかっている中で、作業員の人たちが作業を続けていました。




再開発工事が至る場所で進められている大手町の高層ビル街の中をしばらく歩くと、永代通りと内堀通りが交差している「大手門交差点」に到着しました。正面に写っているのが「皇居東御苑・大手高麗門」です。




大手門交差点の北東角に建っていた「マルハ・りそなビル」は既に解体されていました。大手町周辺の道路はダンプトラックやクレーン車などの工事用車両の姿が目立ちます。




濃い緑に囲まれている「皇居東御苑・大手高麗門」を撮影しました。江戸時代は江戸城の正門の役割を担っており、この門の門前に位置していることから「大手町」の地名が生まれました。現在は日本を代表する大企業の本社が集積するビジネス街となっています。




大手門の形式は枡形門(ますがたもん)と呼ばれていて、手前側の大手高麗門(一の門)と奥に見える大手門渡櫓(二の門)と、「桝形」と呼ばれる四角形の場所から構成されています。




皇居東御苑や皇居前広場の敷地の東側を通っているのが「内堀通り」の大通りです。内堀通りの歩道部分には柳の並木道が綺麗に整備されています。




現在の大手町地区では古くなったオフィスビルの解体・取り壊し工事と、更地になった敷地で高層オフィスビルを建設する工事が同時並行的に進められている状況です。今後数年内に延べ床面積約100万平方メートル、東京ドーム21個分のフロアが新たに供給される予定となっています。




一つの新しい高層オフィスビルが完成すると、隣接している古いオフィスビル内に入居しているテナント企業が平行移動するように移転する。そして入居企業が無くなった古いオフィスビルを解体して新しい高層オフィスビルに建て替える…、という「玉突き方式」「ドミノ方式」の手法で再開発が進められています。




2000年に国の合同庁舎1・2号館の機能がさいたま新都心に移ることが決まり、この庁舎を壊すことでできた13400平方メートルの広大な空き地を活用して「玉突き方式」の再開発が始まることになりました。




まずその空き地に、隣接していた経団連、日本経済新聞社などが新社屋を建て、2009年に入居しました。経団連などが引っ越したビル跡地などには2012年10月に「大手町フィナンシャルシティ」が完成し、やはり隣接する日本政策投資銀行などが入居しました。




「大手門濠」の上に架橋されている土橋の「大手門橋」を渡って大手高麗門へ近づいていきます。この日は猛暑日ではないとはいえ、30度前後の暑い気温だったので皇居東御苑内は散策する人は少なかったです。




解体工事のためのクレーンが林立している中でひと際背の高い高層ビルが見えます。現在建設工事が佳境を迎えている「(仮称)読売新聞東京本社ビル」です。屋上のタワークレーンが段階的に撤去されていました。




「(仮称)読売新聞東京本社ビル」は読売新聞社の大手町の本社ビルを建て替えるためのプロジェクトで、地上33階・塔屋2階・地下3階建て、高さ200メートルと大手町地区で最も高い高層ビルとなっています。



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真夏の和田倉噴水公園:濃い緑に囲まれている公園敷地内を散策する PART3

2013年08月27日 21時24分00秒 | 皇居周辺・城西


ナイアガラの滝の池にはミスト状の放水装置が稼働していました。数分おきに稼働する噴水の種類がどんどん変わっていきます。




上流部の噴水が稼働し始めたことによって、下流側の大噴水池に水が流れ始めました。




3基並んでいる大噴水が一斉に稼働し始めました。公園一帯には水が吹き上がる音が響き渡っていました。




中央部に設置されている大噴水は、高さが約8.5メートルまで噴き上がるのだそうです。夕刻の時間帯になると、ライトアップも施されるのだとか。




ナイアガラの滝のすぐそばまで近づいてみました。そばに立っていると霧状の水が流れてきました。




霧状のミストと、噴水の組み合わせです。




下流側の大噴水へ向かいます。




大噴水池の背後には行幸通りのイチョウ並木道が通っているのが見えます。




行幸通りの歩道を歩いているときに和田倉噴水公園の敷地内を見ていても、この大噴水はすごく目立ちます。




以前の和田倉噴水公園の噴水は午前8時から午後8時まで稼働していたのですが、散策日も含めて、最近は午前10時から稼働しているようです。




正午の時間帯になると、周辺のオフィスビル街で働くビジネスマンの人たちで賑わいますが、午前10時過ぎですと閑散としていました。




3基揃って整然と稼働している大噴水の全景を撮影しました。背後には丸の内の高層ビル群が写っています。




和田倉噴水公園の敷地内に建てられているレストランや喫茶店が入居している建物を正面から撮影しました。営業時間に向けて準備中みたいでした。




噴水の稼働する音が響き渡っていますが、その音に負けないくらいの鉄骨を組み立てる音が遠くから響いてきます。すぐそばの「(仮称)日本生命大手町ビル」の建設現場からでした。




離れた位置からナイアガラの滝の池を眺めるのもすごくいいと思いました。




ここ20年くらいの間にパレスホテル東京を始めとして、和田倉噴水公園の北側は高層ビル化が進み「壁」のようになってきています。現在建設中の高層ビルが完成するとさらにそれが強くなるでしょう。




来年の今頃には建設中の高層ビルも完成している頃でしょう。これで真夏の和田倉噴水公園の散策は終わりです。



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