緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

開業後の東京駅:ヨーロッパクラシックスタイル風に復原された丸の内南口

2012年10月31日 13時04分03秒 | 東京駅周辺


東京駅丸の内駅舎の南ドームの中にある「丸の内南口」へやってきました。今回の丸の内駅舎の復原工事では北・南の二つのドーム屋根も復原されると共に、ドームの内部も(残されていた資料を参考にして)創建当時の姿に復原されています。・・・それにしても丸の内駅舎周辺がこんなに多くの人々で賑わっている風景を見るのは初めてです。とはいっても新宿駅や渋谷駅の混雑と比べると全く比較の対象にもなりませんが。




復原工事に伴って新調された「丸の内南口」のプレートの下をくぐって南ドームへ足を踏み入れていきます。上を見上げると南ヨーロッパ調のドーム屋根が早速歓迎してくれました。とは言っても復元工事の完成前からドーム内部の様子は2010年くらいからずっと見てきたので、そんなに感動まではしなかったです。




丸の内駅舎の開業が10月1日、駅舎内部の東京ステーションホテルの開業が翌2日でこの前後はマスメディアなどによって連日取り上げられていたので、「開業後2週間くらい経って見物客がいなくなってから行こう」と思っていたのですが、10月中旬の時点でもものすごい人の数で圧倒されました。




丸の内駅舎が建設された大正時代に流行ったのであろう、「レトロモダン」な雰囲気を前面に出した内壁も見事に再建されていました。大正時代の日本の建築ではこれが最先端だったのですね。




南ドームの内部には合計8本の柱が八角形状に建てられていて、緑は内壁よりもこの柱の方が気に入っているというか、気になっています。柱の装飾そのものがヨーロッパクラシックスタイルな感じで、柱と一体化されている「梁」と合わせてもドーム内部の雰囲気に溶け込んでいると思います。




この柱の上部には「AD MMXⅡ」とのアルファベット文字が打ち込まれていました。「AD」とは西暦、「M」はミレニアム(1000年)なので「MM」は2000年、「XⅡ」は12を表しています。なので直訳すると「西暦2012年」となりますが、復元工事が完成した今年2012年を表しているのだと思います。




人ごみに注意しながらドームの中心部へ近づいていきますが、8本の柱を結んで正八角形状のリングをドーム内部で形成しているこの「梁」の存在が何とも言えません。この梁があるだけでドーム内部の荘厳さにメリハリが付いているように見えます。これは設計者の建築家としての「センス」の問題であるとさえ言えます。




南ドーム内に設置されている液晶放映装置「デジタルサイネージメディア」もしっかりと作動していました。次回の記事で取り上げてみたいと思います。




南ドームの中心部に立って真上を撮影してみました。ドームの内壁は基本的にタマゴ色で塗装されていて、その周辺の様々な壁面装飾は漆喰を思わせる白色で縁どられています。ヨーロッパクラシックスタイルの意匠が基本となっていますが、日本の古来の建築技術などが適度に合わさっているようにも見えます。




ドーム屋根頭頂部の正八角形の角にはFRP樹脂製の鷲が8羽設置されています。10メートル以上離れた高位置にあるのでわかりにくいですが、全長2.1メートルもの大きさを誇っています。




ドーム内部では多くの人々がデジカメや携帯電話でドーム屋根を見上げながら撮影をしていました。東京駅を利用するビジネスマンや観光客の人たちも物珍しげに上を見上げている姿を見かけました。




この8本の柱はローマ神殿や宮殿を連想させると思います。




改札内に入った位置から撮影した写真ですが、これはすべての撮影が終わって千葉方面へ帰る際に撮影したものです。




周辺の人たちの身体と比較すると、柱の太さがわかると思います。改札内から改札を抜けてドーム内へ進もうとすると、下手するとこの柱に激突する可能性も無きにしもあらずのように感じましたが、「柱注意」の看板くらいは掲げたほうがいいと思いました。




次回の記事では「デジタルサイネージメディア」の前にしばらく張り付いてみることにします(笑)



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開業後の東京駅:「丸の内オアゾ・ショップ&レストラン」から眺める丸の内駅舎

2012年10月30日 12時29分45秒 | 東京駅周辺


10月中旬の平日の昼過ぎ、緑は東京地下鉄東西線大手町駅へやってきました。10月2日に全面開業した東京駅の丸の内駅舎を見てみたいと思ったからです。大手町駅構内から「丸の内オアゾ」の敷地内を抜けて丸の内駅舎へ向かおうとしていた時、吹き抜け空間の中から丸の内駅舎を綺麗に撮影できる場所がないかウロウロ探してみました。




「ショップ&レストラン」の2階、丸善丸の内本店脇から伸びている空中通路から丸の内駅前広場を撮影してみました。正面にJPタワー低層棟の真っ白な壁面を捉えることができました。前面ガラスの奥に写っている丸の内駅舎の存在を引き立てるために、わざとフラッシュなしで撮影してみました。 




丸の内オアゾの「ショップ&レストラン」は二つの高層ビル(丸の内北口ビルと新丸の内センタービル)の間に囲まれた巨大な吹き抜け空間となっていて、丸の内で働いているビジネスマン向けのレストランやお店が集まっています。




空中通路から1階に降りることができる階段の踊り場へ移動したとき、今まで見た中で一番綺麗に見える丸の内駅舎を撮影することができました!!! 時間帯の影響からか、思い切り逆光となってしまいましたが・・・。




ズームで撮影してみると、吹き抜け空間から撮影する丸の内駅舎も「絵」になることがわかります。手前に写っているガラスフレームと「ОAZО」のロゴがこれまた何とも言えません・・・。




2004年9月にこの丸の内オアゾが開業して以来、約9年間この吹き抜け空間は緑にとって馴染みのある場所でしたが、本気で丸の内駅舎をきれいに撮影できる場所を探してみたのは初めてでした。丸の内駅舎の復原工事が実施されなければ一生見つけることはできなかったと思います。




東京駅丸の内駅前広場前の超一等地であるこの場所には戦前は鉄道省の庁舎があり、1949年6月1日に鉄道監督行政が運輸省鉄道監督局(国有鉄道部・民営鉄道部)に、国鉄事業が公共企業体(公社)の日本国有鉄道にそれぞれ分離されたのちは、国鉄の本社ビル(1987年4月1日の国鉄民営化後はJR東日本本社ビル)となりました。




「オンとオフの知的オアシス街、丸の内オアゾ」。かつては休日になると人がいなくなって「ゴーストタウン」などと揶揄されていた丸の内のイメージを覆すためには、これくらいインパクトのあるテーマを持った複合施設を造る必要があったということでしょう。かつてこの場所には重苦しい雰囲気しかなかった旧国鉄本社ビルが建っていたとは思えないくらいです。




昼下がりの時間帯なので、昼食のために出歩くビジネスマンの人たちの姿が目立ちました。しかし、超一等地の立地の割には賑わいがイマイチなのが気にかかります。




3階のエスカレーターの踊り場から撮影した丸の内駅舎です。手前に架かっている「OAZO」の垂れ幕がいい雰囲気を出しています。ちなみに「オアゾ(OAZO)」は、丸の内地区(О)と大手町(О)を包括的に(AZ)結ぶ、「Office&Amenity ZOne」であることを表現しており、エスペラントで「オアシス、憩いの地」を意味するオアーゾ(OAZO)の意味も含んでいます。




丸の内オアゾ「ショップ&レストラン」の全景です。2004年(平成16年)9月14日に開業した複合施設で、丸善丸の内本店を中核に56もの店舗が集まっています。東京駅丸の内駅舎の目の前に有り、東京地下鉄東西線大手町駅とも直結しているので利便性は抜群なのですが、なぜかすぐそばにある「丸ビル」「新丸ビル」が話題になりがちで、この丸の内オアゾは全国的に有名かと聞かれるとそうでもありません。




ショップ&レストランの建物内には「丸ノ内ホテル」が併設されています。1924年(大正13年)開業の老舗ホテルですが、2004年(平成16年)10月1日に東京駅丸の内北口の丸の内オアゾに完全新築開業しました。モダンジャパニズムをコンセプトにしていて、9階から17階に全205室が入居しています。




真下から見上げて撮影した「日本生命丸の内ビル」です。日本生命と言えば大阪都心部の御堂筋・淀屋橋の一等地に本店ビルがありますが、大阪と東京で本部機能を分散しています。ここ東京本部では総務部門や資産運用部門などを担当していて、本部機能の大部分(総合企画部門と人材開発部門、保険契約管理のための事務、システム部門)は大阪本部(本店)が担っています。




丸の内オアゾは「日本生命丸の内ビル」「ショップ&レストラン」「丸の内北口ビル」「丸の内センタービル」「新丸の内センタービル」の5つの高層ビルで構成された複合施設となっています。オフィスビル、商業ゾーン、シティホテルなどが一箇所の敷地内に凝縮されていますが、知名度はイマイチです。




早速丸の内駅舎周辺の散策へ向かいますが、昼間の時間帯だと南へ向かって歩くと逆光の中撮影しなければいけなくなります。なので一度南口改札口へ何も撮影せずに歩いていきます。



旧日本国有鉄道本社ビル(民営化後はJR東日本本社ビル)や交通公社ビル(旧JTB本社ビル)が建っていた東京駅丸の内前の超一等地の再開発計画は「(仮称)丸の内1丁目1街区(東京駅丸の内北口)開発計画」と呼ばれていました。複数の建築敷地の共同化と、街区単位での総合的な設計による公共空間の整備を基本理念に開発が進められて完成しました。

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南青山から赤坂散策:「赤坂サカス」TBS放送センター&赤坂Bizタワー周辺の散策

2012年10月29日 11時50分18秒 | 城南・港区全域


目の前に「赤坂Bizタワー」の巨大な高層ビルを眺めながら散策を続けていきます。大通りの周辺はオフィス街と繁華街が一体化しているような町並みが続いていて、六本木の街によく似ている雰囲気だと思います。大通りの真下には地下鉄千代田線赤坂駅が設置されており、交通の便は比較的いい場所にあります。




大通りに沿ったビル群の奥には「TBS放送センター」の巨大な建物が見えます。1994年(平成6年)に竣工した建物で「ビックハット」の名称で呼ばれています。




赤坂Bizタワーがすぐそばまで近づくと、TBS(東京放送)の旧社屋周辺に再開発工事によって誕生した「赤坂サカス」の広大な敷地が広がっています。




「TBS赤坂5丁目再開発計画」として開発された「赤坂サカス」は1994年(平成6年)に東京放送(現:東京放送ホールディングス)がTBS放送センターへ本社演奏所が移転した後の旧社屋跡地(2003年まで赤坂メディアビルとして使用)の再開発を目的に、土地所有者である東京放送とディベロッパーである三井不動産によって行われた計画です。2008年(平成20年)3月20日にグランドオープンしました。




赤坂サカスの中核的存在である「赤坂Bizタワー」です。2008年(平成20年)1月31日に竣工した高層ビルで、高さ179メートル、地上39階地下3階で延べ床面積17万平方メートルとなっています。博報堂DYグループ各社(博報堂DYホールディングス・博報堂・博報堂DYメディアパートナーズ)や、TBS系列の準キー局・毎日放送東京支社やレコード会社・EMIミュージック・ジャパン、東京エレクトロンが入居しています。




赤坂サカスは地下鉄千代田線赤坂駅に直結していて、赤坂Bizタワーの低層部「赤坂Bizタワーアネックス」のショッピングゾーンに駅入口が設置されています。商業ゾーン周辺は赤坂の周辺の町並みに配慮してか、落ち着いた雰囲気に統一されています。




赤坂サカスの敷地を東西に横断している「サカス坂」の東側のメインエントランス広場を散策していきます。TBS放送センターと赤坂Bizタワーとの中間点にある広場なので比較的人通りが多いです。




赤坂Bizタワーアネックスの1階にはTBSの番組関連のグッズなどを販売している「TBSストア」の店舗が入居しています。




赤坂Bizタワー低層階部分の吹き抜け空間である「赤坂Bizタワー・アトリウム」の入り口周辺ではベンチに座って休憩している人々の姿が目立ちました。オフィス街・繁華街としての性格が強い赤坂周辺において、お洒落な雰囲気に包まれていました。




1990年代後半から2000年代にかけてフジテレビ(お台場)、日本テレビ(汐留シオサイト)、テレビ朝日(六本木ヒルズ)など在京テレビ局が局の周辺の再開発工事によって東京の新名所になる流れが続いてきましたが、この赤坂サカスの完成によってTBSもその仲間入りを果たしました。




オフィス街しかないと思っていた赤坂の街も、これの感性によってイメージが大きく変わったと思います。




赤坂Bizタワーとアネックスの建物の間に形成されている通りを散策していきます。通りの両側にはショッピングアーケードと屋外レストラン・カフェが連なっています。同じ港区内の再開発エリアである六本木ヒルズ・東京ミッドタウンと比較するとコンパクトな感じだなと感じました。




落ち着いた雰囲気のショッピングゾーンを散策していきます。




通りの東端部からさらに東側を見ると赤坂・溜池山王エリアのオフィス街・繁華街がすぐそばに広がっていました。ここから約5分も歩くと総理大臣官邸・日枝神社周辺まで抜けることができます。




振り返って撮影してみるとTBS放送センターの巨大な建物が見えました。この「赤坂サカス」の再開発工事は、移転・新築に関連した都市再開発事業としては唯一放送局主導によって実施されています。ただ周辺の雑然とした繁華街のど真ん中に位置している赤坂サカスは若干周囲から浮いているように見えるのも事実です。




赤坂Bizタワーアネックスのメインエントランスと、目抜き通りを撮影してみました。この後脇にある地下鉄千代田線赤坂駅の入り口へ入り、この散策を終了しました。




赤坂サカスの周辺は路地が入り組んだ繁華街となっていて、その中にTBS放送センター・赤坂Bizタワーの2体の高層ビルがそびえ立っています。ここから東へ約100メートルも歩けば溜池山王に出ることができます。

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南青山から赤坂散策:乃木坂陸橋下から赤坂六丁目へ

2012年10月27日 14時25分56秒 | 城南・港区全域


乃木坂陸橋下から再び東京都道319号赤坂杉並線を歩いて赤坂方面へ向かいます。陸橋下に立って赤坂方向をジッと見てみると、緩やかな下り坂が北へ向かって伸びているのがわかります。六本木地区を擁する麻布台地の高台から赤坂・溜池山王周辺の低地へ向かって緩やかな斜面の上に市街地が形成されているのです。




乃木坂陸橋下から赤坂サカス周辺にかけては丘陵地帯を降りて低地へ向かうことになります。坂下の奥の方を見ると赤坂・溜池山王といった低地に広がる高層ビル群を見渡すことができました。まさに「坂の都・東京」の真髄とも言える景観だと思います。同じ大都会であっても大阪の街中にはこのような立体的な都市景観というのはそう見かけることはできません。




ちなみに東京都港区の赤坂八丁目と九丁目の境、乃木神社前を西へ外苑東通りへと上る坂は「乃木坂」と呼ばれています。江戸時代にはこの坂は幽霊坂と呼ばれていました。また「行合坂」「膝折坂」とも呼ぶこともあったそうです。乃木坂の名は1912年(大正元年)9月に大日本帝国陸軍の重鎮で、学習院院長であった乃木希典大将の殉死を悼み、赤坂区議会が改名を議決したことに由来します。




「乃木坂」という住居表示があるわけではなく、この周辺は港区の「赤坂八・九丁目」となっています。しかし戦後に東京地下鉄千代田線乃木坂駅ができるなど、「乃木坂」の名称は一般的なものになりつつあります。




乃木神社の前を通り抜けて、赤坂八丁目の斜面に広がる市街地の中を散策していきます。この周辺はオフィス街である溜池山王・赤坂に近い事も有り、住宅夜中低層マンションが密集している中に事務所などが混在しているような町並みとなっています。




港区立赤坂小学校の手前で大通りは緩やかに右へカーブしていきます。平日の昼下がりの時間帯、自動車の通行量は非常に多いですが、人通りは極めて少なかったです。朝夕の時間帯以外はこんな雰囲気なのかもしれません。




歩道橋の上から赤坂・溜池山王方向を撮影してみました。「赤坂」と聞くとオフィスビル街というイメージが強いですが、意外と閑静な雰囲気の住宅地の割合が高い場所です。1947年以前は「赤坂区」と呼ばれていて、芝区・麻生区と合併して「港区」の一部になりました。




区名の由来は、見附から四ッ谷へのぼる紀伊国坂を「赤坂」と呼んだことからとなっています。赤坂と呼んだ理由には以下の説があり、坂上に茜草が生えることから赤根山(あかねやま)と呼ばれ、この山にのぼる坂を赤坂と称することから。もう一つは染物屋が坂に赤い絹を干したことからとなっています。




歩道橋を渡って港区立赤坂中学校の脇を通り抜けていきます。この中学校のさらに東側には東京ミッドタウンの敷地が広がっています。東京ミッドタウンは六本木にあるというイメージが強いですが、正しくは赤坂九丁目にあるのが正解です。




江戸時代の赤坂周辺は多くの武家屋敷が立ち並ぶエリアとなっていました。現在の赤坂御用地には、紀州徳川家の上屋敷(紀州藩赤坂藩邸)があり、その武家屋敷の周辺には市街地が発達していました。




「赤坂小前交差点」を抜けるとこの先はほぼ平坦な地形となっています。




この先は完全なオフィス街・繁華街の雰囲気が強くなってきました。昭和30年代の赤坂は銀座と並ぶ高級繁華街としての雰囲気が強く、近隣に在日米軍基地や宿舎などがある影響からか、外国人が非常に多い町だったそうです。




大通りの両側にはオフィスビルが立ち並び、人通りも増えてきました。




交差点前からズームで撮影すると「赤坂サカス」の二つの高層ビルが見えました。手前の屋上にリングを冠した建物は「TBS放送センター」、その奥の先進的なデザインの高層ビルは「赤坂Bizタワー」です。




周辺は完全に繁華街・ビジネス街の雰囲気へと一変しました。乃木坂陸橋前から歩いてわずか500メートル程の距離を離れたにもかかわらずです。




外苑東通りが尾根筋として通っている麻布台地の高台から赤坂・溜池山王の低地へ向かって広がっている緩やかな斜面の上に市街地が形成されています。

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南青山から赤坂散策:乃木坂陸橋と旧乃木邸

2012年10月26日 15時38分53秒 | 城南・港区全域


乃木坂トンネルの脇を通って南青山一丁目の住宅密集地の中を散策していきます。この道路は外苑東通りから乃木坂トンネルの上に通っている行き止まりの道路です。




行き止まりの道路なので交通量は皆無に近く、車道の上を散策しても全く危なくはありませんでした。




道路の周辺は低中層マンションの建物が密集していて、狭い路地となっている道路が周辺に広がっています。この路地裏からは正面に「ミッドタウン・タワー」が綺麗に見えました。




外苑東通りの「乃木坂陸橋」に到着しました。この陸橋の真下に乃木坂トンネルの東側坑口があり、また東京地下鉄千代田線乃木坂駅も同じくこの真下に位置しています。




乃木坂陸橋の周辺も中低層マンションが集まっています。




乃木坂陸橋の真下に乃木坂トンネルの赤坂側の入口があります。外苑東通りから階段を下りることによって乃木坂トンネルの脇に出ることができました。




「乃木坂陸橋交差点」。東京都道319赤坂杉並線と外苑東通りが交差しています。一度野木坂陸橋の上に戻り、外苑東通りに面した乃木希典の邸宅である「乃木公園」へ向かいます。




乃木坂陸橋の北側、外苑東通りの大通りに面した場所に乃木希典将軍の邸宅跡に整備された「乃木公園」と、隣接して「乃木神社」の敷地が広がっています。




敷地内に入ると目の前に明治35年築の旧乃木希典亭の質素な雰囲気の一軒家が建っています。乃木夫妻の命日である毎年9月12・13日に内部の無料一般公開が行われています。




母屋から少し離れた場所には古い赤レンガ作りの馬屋の建物も綺麗に保存されていました。明治時代に造られた赤レンガも約100年経つとこれくらい赤黒く変色してしまうのですね。




明治時代の軍人であった乃木希典は大正元年(1912年)9月13日、明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころにこの邸宅の一室で妻・静子とともに自刃して亡くなりました。その後、日本全国で乃木希典を祀る乃木神社が建立されることになります。




それだけ乃木希典には多くの人望があったということでしょう。死後も彼の活躍や影響について、多くの議論をわき起こしたそうです。




散策当時は人はおらず、閑散としていました。




質素な作りの建物と比較すると敷地の面積は大変広く、日本庭園が造営されています。




現在でも維持管理が行き届いているように感じました。午後の西日が庭園内に降り注いでいました。




隣接している「乃木神社」の敷地内を通って再び乃木坂陸橋の真下に降りることができました。再び赤坂へ向かって散策を続けます。




乃木坂陸橋から赤坂まであと少しです。

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