この流下式塩田は倉敷市児島の塩田跡です。
倉敷市児島の塩田は塩田王と呼ばれる野崎家が所有していた。この跡地は埋め立てられJR瀬戸大橋線の児島駅及びショッピングセンターになっている。
私が岡山に転勤してきたときには流下式(枝条架式)の塩田は機能していた。
昭和47年ごろから流下式はイオン交換膜に取って代わっていった。
いつか機能している時に撮影しようと思いながら月日は流れ撤去する前にやっと撮影に行った。
なんでもやろうとすることは「早くやる」が肝心だ。それとやりはじけたら「必ずやる」「粘り強くやる」ことに尽きる。この歳になりあのときにもっと早く行動をとらなかったのかと悔やまれる事が多い。
行動するには今からでも遅くにないが昭和の時代に失くしたものが余りにも多すぎる。
塩は太古の昔から火を使い料理をする人間には欠かせない。これは人間だけではなく動物すべてに言える。
海の無い地域の塩は生命線で長野の山奥では冬場雪に閉ざされると囲炉裏の周りのムシロに染み込んだ塩分を煮出して使ったと聞く。
昔の塩作りは海草に付着させて煮詰めたり土器で煮詰めて作っていた。
しかし、海水の塩分濃度は3.5パーセント、96.5パーセントの水を蒸発させないと塩にならない。
「塩分濃度を上げるために塩田が開発された」
・塩の満ち引きを利用して塩田に塩水を引き入れる揚げ浜式塩田。
・海水を汲み上げて塩田の砂に撒く入り浜式塩田
・昭和20年後半から始まった流下式塩田がある。
流下式は枝条架式とも呼ばれる。竹箒を何段にも重ねたところへ海水を上からゆっくり流し海水を蒸発させ濃縮していく方法である。従来からなぜ出来なかったかと疑問に思うが塩の腐食に耐える材料が無かった事であろう。今ならばプラスチック樹脂やセラミック、耐蝕金属があるのでポンプも配管も容易に敷設できる。
・昭和47年頃から天候に左右されず工場で塩が作れるイオン交換膜式に代わって行った。イオン交換膜も海水の濃度を高くする装置である。。濃い液を抜き出し煮詰めて塩にする。
イオン交換膜でも18パーセントの塩分しか得られない。あとは蒸発させて水分を飛ばす必要がある。これにエネルギーがいる。今は真空蒸発にして40℃で沸騰させて蒸発させている。
どの方法も3.5パーセントの海水を濃縮する技術である。
・乾燥した地域では天日乾燥で塩を作る。NHKの「茶馬古道」と言う番組でチベットの峡谷を茶や塩をラバに乗せて運搬商いをする商隊の放送があった。妻たちはチベットの奥地で天日干しの塩をつくる。ヒマラヤ山脈は海底が隆起したので岩石が塩を含んでいる。塩を含ん水の井戸から塩水を運んでは天日場の屋根に塩水を掛ける。乾燥地帯なので乾きは速いが出来る塩は僅かである。男は鳥鼠道(ちょうそどう)と呼ばれる狭い断崖絶壁の道を運ぶのである。千年以上に亘り続けられた塩の歴史を見た思いがした。
国内で海水から作られる塩の量は消費量の15パーセントであとの85パーセントは海外から岩塩、製塩を輸入している。海水から塩を作らなくても岩塩を輸入したほうがコストも安いし効率的と思うが、専売公社で販売していたしがらみもあるのと輸入が全面停止したときのリスクもあるので国内生産を残しているのであろう。岩塩は限りある資源のため現在は降雨量の少ない乾燥地で天日干しで製塩されているそうだ。
写真は野崎家塩田の船の出入り口の灯台、今はこの水路は埋め立てられている。ここはJR児島駅の東になる。
塩は人類にはとって貴重なものであったのでことわざや用語にもなっている。西欧では塩を支配し大富豪になった名家もある。
給料のサラーリーも塩(ラテン語でサラ)を賃金として与えたことに由来する。
サラダも野菜に塩をして食べた事に由来する。
JR児島駅東側 野崎灯台
JR児島駅前 天満屋ハピーマート付近