懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

茅葺き民家  ランドマークのある家 

2018年05月20日 | 茅葺き民家
撮影場所 岡山県旧建部町

ランドマークとは野山を探検する時に方向を見失わず元に戻れるように目印になる山や岩、滝や池や川の事だそうだ。都会の場合も塔や大きなビルが対象になる。スカイタワーや東京タワーなどはランドマークの代表だ。
田舎だと役場や火の見櫓.煙突が対象になる。

棚田の広がる山間地に茅葺きの撮影に行った。家の周りに大きな杉の木のある家や棕櫚を植えている家があった。棚田地域の目印のない風景のなか大きな杉の木などが目印になったことであろう。

こどもの頃、大きな松の植えてある家があった。ここの苗字は知らなかったが地名や苗字は一本松で話しが通じていた。
春日八郎の唄に別れの一本杉がある。昔は峠の頂上や村の境に大きな木を植えていた。松であったり杉であったりイチョウであった。とにかく高く伸びる木であった。
道路の拡張や松枯れや市街化で切り倒されて行った。


河童の出る池

2018年05月19日 | 日記
撮影場所 兵庫県福崎町

ナニコレ珍百景で池から河童でる映像が流れ面白く笑った。
機械仕掛けの河童に珍百景の審査員は評価するかとおもったが全員登録で賞金をもらった。
田舎のよどんだ池から河童が出てくるとは思わかっただけに想定外でおもしろかった。

あれから何年なるか無くなる前に行ってみようと思った。
場所は福崎町辻川山公園とある。ネットでしらべたがマップがない。
辻川の地名があるので現地で聞いてみようと思った。

場所は町の細い道をうろうろ二回聞いてやっと着いた。
民俗学者の柳田国男氏の生家の茅葺き民家のあるところだった。
ここならば以前見学に来た事があった。
以前きた時は駐車場だけだったが駐車場も別の場所にも拡張し食事や土産物の店もできた。

町興しの一環でいろいろ企画しているのか

河童の見える池に石橋が架る。橋の上には人だかりで子供連れが多い。
子供や若い女性は河童の出没に歓声をあげるかと思いきや出た出たくらいで期待外れだった。
近くの人は何度も見に来ているようで子供も機械仕掛けを知っていてびっくりもしないようだ。

他にも妖怪や怪物を9体置いてあった。
境港の水木ロードを参考にしているのか





日本茅葺紀行 NO,447 田植えの頃 

2018年05月19日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 島根県旧横田町 鳥取県日南町

田植えの前の代掻きから田植えの風景は日本の農村風景だ。
都市近郊でも田植えは見られる。
今の時代はネットで田植えの写真を検索してバーチャルで体験できる。写真は他人の物を借りて日本の田植え風景と題してネットで調べ夏は来きの一節を使いブログも書ける。
さも自分が訪れて撮ったようなブログも書けるのだ。

それをやっては何のための人生か分からない。
自分で田舎を巡り茅葺きと田植えの風景を探してみるのが人生だ。
今の時代は特定の場所以外ではなかなか見つかるものではない。
行こうと思っても交通事故を起こしたらどうしょうと考えてしまい何も行動しない。

現地へ行き一生懸命探すのが老後の生き甲斐である。
年寄りだから車の運転は危ないと何もせずリスクを恐れてばかりでは挑戦はできない。





蒸気機関車 田川線鉄橋

2018年05月17日 | 蒸気機関車
撮影場所 福岡県 旧田川線油須原付近

天候は下り坂、空が暗くなりかけたなかの撮影だ。
誰もいない山の中、付近を歩けば茅葺き民家や木の橋もあったとおもう。
9600型蒸気機関車が車掌車を付けほとんど空荷で走る。デフレクターは門鉄デフだ。
車掌車も見かけなくなった昭和の遺物だ。゛

汽車を待つ間はボケーとしていたのであろう。写真が残っているので何年何月何日に何処へ行ったかはわかる。
しかし、これからどんな時代がくるか自分の人生はどうなるのか考えながら暮らしていたのであろうか。
余り深く考えていなかったように思う。

自分の生きた痕跡を整理するために生まれてから現在までの年表をつくろうと思ったが細かい事が記録されていない。
改めて人生を生きるとは記録だなあと思う。それは書面だけではなく写真やビデオ、スクラップブックやコレクションである。
学歴もない平凡な会社員で終わっても自分の生きた時代はしっかり記録すべきだと思う。
記録していた人はしっかりした目的意識を持った人であろう。

その年の政治、社会や暮らしがどうであったか、繁栄するもの衰退するもの変化するものはなにか。自分の仕事、家庭、スキルアップ、趣味、資産運用について年初に目標、期末に評価反省を書いていかないといけなかった。

パソコンの時代になれば追加や修正も容易になり保存もやりやすい。ああいうものは直筆では書きにくいがパソコンの方が書きやすい。まずい事は削除できるからか

女が凄いと思う事

2018年05月15日 | 日記
女が凄いと思うこと
スーパーマーケットも夜八時頃になると明日には売れない総菜やパンが半額になる。それを目当てに高齢者が待っている。高齢の男性の一人暮らしか生活費を切り詰める常連さんもいるようだ。
我が家も遠出した帰りに立ち寄り半額の物を買って夕食にする。
家内の買い物を見るとすべて半額のものだ。
男はへんなところで見栄を張り割引のない商品を一か二個入れる。
家内に聞いてみた。こんな半額ばかりで恥ずかしくないのと聞いたら「別に売り物なんだから安いのがいいにきまっている。家計のやり繰りしているのだから何も恥ずる事でない」という。
男はつまらんところで見栄を張ると見透かされている。
女は強いと思った。
男はエロビデオ借りるのにも別に「戦争と平和」のビデオを借りたりする。エロ本を買う時も普通の週刊誌を余分に買ったりする。
エロい本やビデオは下に隠してカウンターで支払い。
エロビデオを借りるのに何の見栄を張る必要があるのか

以前エッセーで読んだ。駅の立喰い蕎麦で素うどんと言って注文する人がいた偉いと思う。自分は見栄を張りそんなことはできない。素うどんの注文できず天ぷらうどんなどを注文すると書いてあった。
ヤクルトの山田哲人が試合のあと神宮球場近くの立喰いそば屋で350円のそばを食べているのをフォーカスにスクープされた。店主は時々立ち寄ってくれるといっていた。
トリプルスリーの年俸何億の選手が庶民の立ち寄る店で気取りもせず食べる。大谷翔平も毎月10万の小遣いだそうで気取らない暮らしなのだろう。山田も大谷も気取りがなく自然体であることに好感が持てる。
あれだけの有名人になれば奢ってくれると思うがどんな人が接近してくるかわからない。ボウさんなんかに近寄られたら大変である。
大谷など飲み屋に行けば女がポケットに連絡してと電話番号やアドレスを書いた名刺をそっと入れて行くであろう。しかし君子危うきに近寄らずであろう。


女も半額セールは凄いと思うが冷凍食品の買い込みすぎは頂けない。冷凍庫が一杯で入れるところがない。あんなに入れると冷凍焼けで美味しくないし毎年下の物を廃棄処分している。私が冷凍品など家の冷蔵庫で電気を使い冷やさなくてもスーパーで冷凍してもらえばよい。二割引きで買っても長く置けば電気代が高くつく。毎日スーパーに行っているのだから冷凍品は一週間で使いき切る物しか買わない。
食料品の並べ方は先入れ先出しができるように先に買った物を手前に縦に並べる。冷凍庫に重ねて置いたら下の物使わないと言ったら何もしないくせにと文句をいうなという。

ブログも見栄を張る人、自然体の人と色々いる。
ブログは自然体で自分の身近な事や体験談がいい。
自分も理解しているのか小難しい事を書く人、他人の記事を無断で転記してまで自分をよく見せる必要があるのかと思う。

懐かしい物  公害の島

2018年05月14日 | 懐かしい物
撮影場所 瀬戸内海 宇高連絡船より直島を撮影

瀬戸内海には銅の精錬所が何か所かあった。
銅の精錬は二酸化硫黄を排出するため酸性雨が降り木々は枯れ禿山が多い。
直島は三菱金属の精錬所があった。あたりの山はほとんど禿山で緑は少ない。
別子銅山や四阪島は住友鉱山があった。大分の佐賀関も精錬所がありあたりの山は禿山だった。炭鉱や鉱山は財閥系が多かった。

一度禿山にすると再生には30年以上かかった。
昭和40年代は高度成長期で公害施設も着けず大気や排水は垂れ流しであった。
昭和45年に東京湾を川崎から千葉側に渡った。
スクリューで海底の泥が掻き上げられ黒い航跡が残った。
東京湾の中央部に来ても澄んだ海水はなく色の付いた海流が混ざりあっていた。
東京湾は死んでいると思った。


千葉側から東京の空を見ると晴れているのに灰色の空に覆われていた。・
このまま工場の煤煙や排水を放置すると公害列島になっていた。
公害患者も発生し奇形の魚も発生した。
昭和43年に大気汚染防止法 昭和45年に水質汚濁防止法が出来て公害防止施設が義務付けられ徐々に改善に向かった。

高度成長期、公害列島時代に私は生きてきた。
しかし、そんな事には関心もなく他人事のように生きて来た。
時代の問題はスクラップなり現地まで足を運び写真を残しておくと他人事ではなくなる。
今思えば人生を生きるというのは世の流れに関心を持ち新聞記事や写真を残しておけば私はこう生きて来たと胸が張れるのだが
外国に30ケ国行ったと自慢する人がいるが物見遊山の話はどうでもいい捨てる新聞を長年切り抜いて分類している人の話しを聞きたいものだ。

茅葺民家 モノクロ トタン小屋のある風景

2018年05月13日 | 茅葺き民家
撮影場所 島根県雲南市

年季の入ったトタン小屋に茅葺き民家
曲線的な道路、何枚もモノクロカラーフィルムで撮影した。

錆くれたトタン小屋ばかりの写真集を図書館で見た事がある。
世の中にはいろいろな人がいる。興味は千差万別
自分の感動するものを見つけた者が勝ちだ。
アホになりひたすら探す。これば暇な老人の特権だ。
他人に評価されようとされまいとワシは精一杯生きたと思えれば満足じゃ

私は余りトタン小屋は撮ろうと思わない。
天然素材でないので敬遠したところもある。

人それぞれで感動する対象物が違うものだ。
私も壊れかけた土蔵の蔵などがあれば撮影する。
消えゆく物や寂れゆく物壊れゆく物には哀愁を感じる。


リメンバー茅の里  兵庫県旧千種町

2018年05月12日 | 茅葺き民家
過去に何度も訪れた茅葺きの残っていた集落に10年ぶりに訪れた。
健康で歩ける人であれば誰でもカメラを持っている時代、テーマをもっていろいろ撮れるが茅葺きに限って撮影をを続けている。

茅葺き撮影の友達の人から連休で長野へいくので飯山市の民家の所在を教えてはほしいと依頼があった。
彼は私より二回りほど若いが茅葺き民家撮影のキャリアは長くいつも教えてもらっている。
飯山の民家はいまも残るか分からないのでストリートビューで確認をお願いした。
最近撮影に行っているか聞いたら旧千種町に3軒人が住む健在な家があると教えてくれた。
千種町には10回は行ったであろうか、しかしデジカメでは残していない。みんなフィルムでモノクロが多い。

天気も良かったので家内に連れて行ってもらう。
自分一人で撮影に行っていた時は4時に起きて一般道で4時間以上掛かった。
家内の負担を考えて8時出発で高速道を利用した。高速は楽で速いものだ。10時過ぎには着いた。

過去に茅葺き民家のあったところの民家は解体され更地になっているところが多い。
子供や孫は帰る見込みはないのであろう。
それでも三軒 四軒茅葺きが残ってくれるのは今の時代有り難い。

昼ご飯は山菜の天ぷらと山菜お強を買った。両方で350円と安かった。
山菜はコゴミ、タラの芽、コシアブラ、ワラビ、タケノコ、ウドだった。

コゴミは東北では雑草のように生えているが温かい地方でも千種町のような雪の降るところには川原に生えている。しかしコゴミももうかなり成長していた。先端だけ摘んできたのか。









日本茅葺紀行 NO,446 島根県旧三刀屋町の民家

2018年05月11日 | 日本茅葺紀行
三刀屋町は現在は合併して雲南市になった。
冬には雪も降るし広い平野も少ない山間地である。
合併しても過疎化や高齢化は改善されないだろう。
観光地も少なく人口を維持するには難しい。
しかし、片道一車線だが高速道路ができた。
三次から宍道まで無料区間なので早速利用してみた。
不便なのがパーキングエリアが高速沿いになく一旦一般道に降り道の駅でトイレや休憩をする。

こんな町村は観光地もないのはで立ち寄る事はない。
何かテーマをもって探索する人しか訪れない。
棚田を探すとか茅葺き民家や集落、巨木や神社の写真を撮っている者から訪れない。
こんなテーマは観光ガイドもなく自分で前もって調査し現地でひたすら走る事である。

まだ何軒か茅葺き民家が残る。日本の集落にはどこへ行っても神社とお寺はある。
神社の森は鎮守の森になっている。


好きな粉もん

2018年05月10日 | 日記

粉もんというのは大阪で使かわれている言葉だそうだ。
道理で大阪のテレビ放送に「こなもんや三度笠」というのがあったかなあ。
それを言うなら藤田まことの「てなもんや三度笠」だろう

粉もんは小麦粉、米粉、そば粉など穀物を粉にして加工した食品だそうだ。 
子供の頃は食料が乏しく大豆を煎って粉にした黄粉や麦を煎って粉にしたハッタイコがご飯の友やオヤツだった。
粉もんは何でも好きだが年寄りになり讃岐うどんよりホウトウやキシメンの方が柔らかく食べやすく好きである。

昭和40年に宮崎県に就職した。
宮崎県にはお好み焼き、たこ焼き、焼きそばのソース文化がまるでなかった。
大判焼きのような饅頭が主体だった。これも粉もんである。宮崎で饅頭、饅頭いっていたら公然と言ってはいけない用語(隠語)だったのだ。
昭和が終る頃には宮崎のスーパーにも粉物ソース文は伝播していた。
お好み焼きは関西を起点に全国にどう広まったか調べるとおもしろいかも、お好み焼き屋の無い地域や食べた事のない人を調べてみるのも面白い。

子供の頃はお好み焼きは洋食といっていた。〇銭洋食という好み焼きの原型から来ている言葉が残っていたのであろう。ソースをかける料理は洋食であった。その頃のお好み焼きは肉も入っていなかった粉と野菜と練り物だけだった。洋食と聞くと食生活の貧しさを思い起こす。