ノーベル賞 吉野彰氏
企業からノーベル賞受賞は島津製作所の田中耕一氏、日亜化学 中村修二氏、今回の旭化成 吉野彰氏で三人目だ。
田中耕一氏が企業人で受賞してから企業もノーベル賞の希望が開かれた。
田中耕一氏に受賞の知らせがあった時の階級は係長であった。
田中氏は昇級には関心がなく昇級試験を受けていない。まるで漫画の世界で話題となった。ノーベル賞受賞式までに階級を見直し研究部門はフェロー制度を導入し田中氏は係長から フェロー(部長クラス)に昇格する。各社も研究部門はフェロー制度に移行したようだ。
中村氏は青色ダイオードの開発で会社から受けた表彰金が二万円、会社は2000億円も儲っていた。研究所や大学から引き抜きがあり退社、特許や技術流出を恐れ会社と裁判になり8億円で会社が支払い決着したかにみえたが・・・
介護のあった日に封筒が届いた。開けて見ていた。OB会の忘年会の案内の中に社報の一部の白黒コピーが入っていた。家内が社報のコピーの写真を見てこの人、今日ノーベル賞を取った人だわと言った。私はノーベル賞受賞を全く知らなかった。社報にのっていたのは吉野彰氏の欧州発明家賞の記事だった。賞は6月頃に新聞にも載っていた。欧州で評価されたので今年は受賞かと期待していた。
16年くらい前、定年の数年前まで社員の親睦グループの幹事をしていた。自己研鑽と親睦を兼ねた団体で講演会や見学会や新年会を実施していた。月の会費が1000円のため金のかかる事は出来ない。私がバトンタッチして次の幹事が吉野彰氏に来てもらい講演をすることなった。その当時から将来のノーベル賞にノミネートされるであろうと言われていた。倉敷市水島の工場内の講堂で150人位集めて講演をしてくれた。後ろの席は二列ほど空いていたのであれは失礼だった。
講演内容は一次電池と二次電池の違い。爆発、発火の悪名高きリチューム電池、落下や押しつぶしても発火しない電池の開発。電子機器(パソコン、携帯、デジカメ、電気自動車)が出てくるまで売れない苦しい時期があった。特許の取り方について講演であったように思う。
講演会など名のある人を呼ぶと50万円はいる。吉野さんは社内の人のため会社の出張旅費できてくれる。終わって会社のクラブで会食。大した料理でもない。今年の幹事が三名余裕があるので私も呼んでくれた。12人くらいで座って会食だった。吉野さんが雑談のなかで前年にノーベル賞を取った田中耕一氏に研究部門の人向けに講演を交渉してもらったら400万円が相場だそうだ。
現役の研究者だし講演会依頼は難しいといわれたそうだ。
あんなレベルの人と話をするには一を聞いて十を知る知能のある人でないとだめだ。
折角だから記念写真を撮ろうとしたが誰もカメラを持っていない。
親睦グループ窓口の女性がガラ系の携帯をもっていたのでそれで撮っただけ。わたしは携帯すら持っていなかった。その女性は写真をパソコンに落としてメールで送ってくればよかったがそれもなかった。
男は有名な人と写真を撮るなど無頓着なものだ。
よく岡山まで来てくれたものだとおもう。謝礼も記念品も贈らずこんなので良かったのかと今でも思う。幹事は総務に謝礼が必要か確認しているが社内の人だから必要ないのではとの返事だったそうだ。
技術の進歩は速く中韓の台頭が著しい。車の電池も全固形リチューム電池の開発にしのぎを削っている。