minga日記

minga、東京ミュージックシーンで活動する女サックス吹きの日記

NYものがたり7[Eldridge Street新生活]

2016年09月08日 | 環境
<エルドリッジ・ストリートの新生活>

昨年のストリート以来すっかりお世話になっているドラマーの 本田さんが見つけてくれた住処に飛行場から直行した。ちょうど 3か月だけ日本に帰るという日本人ミュージシャンの部屋は、ダ ウンタウンのはずれ(ロウワーイースト)にあるエルドリッジス トリートに面した地下室付きのアパートだった。

同じ大きさの細長い建物が立ち並ぶこの通りは、普通の観光客はめったに近寄らないドラッグディーラーだらけの危険な通りだったが、家賃が安いので文句は言えない。ストアフロントといって店鋪を改造した もので、正面の入り口は全てガラス張り、床は石畳、おそらく元は床屋だったのではなかろうかという細長い造り。ひんやりと した空気とカビの臭いにつつまれた地下室に降りて行くと、ドラ ムセットやキーボードがセットされていていつでも音が出せるよ うになっていた。ミュージシャンにとってこんなに嬉しい環境はない。

まず手始めに簡単な家財道具を買う為チャイナタウンに繰 り出した。ここからリトルイタリーまで徒歩5分。隣駅のキャナ ルSt.には中華街があり買い物には不自由しない便利な場所だ。 チャイナタウンに近いのが主婦にとってなにより嬉しい。(なんて 書いているとなんだか音楽の話から遠ざかってしまいそうだが) さっそく包丁とお米、食料、そして冷たい石床の上に敷くゴザを 入手。日本にいたって、こんなゴザが買える場所を私は知らない。恐るべしチャイナタウン。アパートには、日本人の住処だけ あって電気釜や鍋はちゃんと置いてある。さあ、やれるだけの事 をやってやるぞ〜。エネルギーの塊の街、NYの中心にまた一歩足を 踏み入れてしまった私達の新たな挑戦がここから始まった。

さっそくNYの友人たちに電話するとみんな「お帰り〜!」と歓迎 してくれた。そしてまず1番にやってきたのは缶コーラと英字新聞を抱えたジャッキーだった。「ハ~イ、サチ、トシキ」挨拶を 交わしたジャッキーは今回の長期滞在をとても喜んでくれている。積もる話は山ほどあるけど訛りの強いジャッキーとは心で交 流するしかないな、とあきらめかけていると、タイミング良く親友のDちゃん登場。前回Dちゃんがジャッキーとの通訳を務 めてくれたお陰で随分助かったのだが、今回もまたお世話になる しかない。DちゃんはNYに移住するなら結婚してもいいわ、と 条件付きでハンサムな日本人カメラマンとNYに渡り、唄や芝居の 勉強をしているエネルギッシュでキュートな女の子。NYに来て3 年だが、すっかりニューヨーカーになりきっている彼女と、無理 やり連れてこられてしまって未だに日本をこよなく愛している旦那様となんとか楽しく暮らしているようだ。

「Dちゃんと夕食に行くからジャッキーも一緒に行かない?」 と誘うと照れくさそうに首を振り「明日の予定は?また顔出すよ。バーイ。」とちょっと足をひきずりながらグランドSt. 駅に向かって歩き出していた。

そういえば去年1度だけDちゃんの友人の家でパーティがありジャッキーを誘った事が あった。ヤヒロ君が帰るので3人で演奏するのはこれが最後だ から、という理由で一緒について来たのだが、周りがみんな白人だった為なのか、ジャッキーは私たち以外とは殆ど喋らず、 ちょっと居心地悪そうにしていた。そう言えば日本人レストラ ンに出かけた時も、いくらご馳走するからと誘っても一緒に食 事をしようとしなかった。きっと私たちにはわからない、黒人の何かがあるのだろう。




とりあえず今ライブが決定しているのは昨年同様<ザンジ バー&グリル>と<ニッティングファクトリー>。メンバーを 探してNY版 "Stir Up!"(私の東京でのバンド名)を結成しよう、せっかくNYに来ているのだから素晴らしいミュージシャ ン達と交流しよう、というのが今回最大の目的だ。しかし「俺 も行きたい!一緒にやらせてよ。」と日本からドラムのつの犬 がそのライブにあわせて、約2週間転がりこんで来る事になっている。果たして3か月でどこまでできるのだろうか。 私達はまず手始めに前回知り合った音楽プロデューサー・ダ ニエル氏が紹介してくれたシスター・チャイナという女性にコ ンタクトをとる事にした。

<初体験、レゲエバンド>

「彼女は音楽業界で沢山の仕事を手掛けているから、きっと 君達の役にたってくれると思うよ。」ダニエルの言葉を頼り に、私達は待ち合わせの<ニッティングファクトリー>のバー に向かった。「ハーイ」時間通りやってきた彼女は真っ黒な大 きめのサングラスに黒いボブカットの美しい、キャリアウーマ ンといった中国系アメリカ人。

「あなたの演奏が聴きたいわ。 明日レゲエの店で友達が出演するの、よかったらそこで演奏し ない?」喜んでこの申し出を受けシスターチャイナと握手を交 わした。

翌日、待ち合わせのライブハウスはダウンタウン・ キャナルストリートの<ウェットランド>。ドアを開くとサイ ケ調の蛍光色のペインティングがブラックライトで怪しく照ら しだされ、地下にもバーがあり熱気が充満し、少し息苦しい。 既に演奏が始まっており大勢の客たちが音楽を楽しみつつ、好 き勝手に飲んだり踊ったりしている。バンドリーダーはボーカ ル&ギターの白人だが、もう1人ラスタヘアーの黒人も歌を歌 いながら観客に向かって片手を上げ「アユーリ!」と叫び客と 呼応しあっている。きっと「最高!」って意味だろう。小柄でや さしそうなトランぺッターの美しい音色、そして隣の短いド レッドヘアーの黒人トロンボーンがあまりに格好良くて私の目 は釘ずけ状態に・・・。コーラスのラスタ娘もめちゃくちゃ可 愛い。思わず体が動きだしてしまうヒップなレゲエバンドだっ た。1セットが終わるとチャイナは私をさっそく楽屋に連れて 行き、リーダーのジャー・リーバイに紹介し、次の演奏に飛び 入りさせてもらえるよう頼んでくれた。リーバイはトロンボー ンのジョッシュ・ローズマンとトランペットのラッスール・シ ド ゥ ッ ク を 紹 介 し 「彼等に譜面を見せてもらうといい。ソロは好きな ところで吹いていいからね。」と穏やかな笑顔で私に言った。さあ、一体どうなる・・・?? (つづく)







NYものがたり6[世界一周シングルハンドヨットレース出航!]

2016年09月08日 | 
<世界一周シングルハンドヨットレース出航の日/ニューポート>



当日は朝早くからヨットの最終チェックで大忙し。ひんやり とした空気の中、25艇のヨットマンたちのいるヨットハーバー にはレース前の緊張感が漂っていた。多田さんもマストに登っ て修理をしたり記者のインタビューに答えたりと昨日までの暢 気さはどこかに消え、たくましい海の男になっていた。「みん なに“頑張れ”って言われるけど頑張りませんよ。マイペース で楽しく航海してきま~す。」「無事に帰って来て下さいね。 私達も来年5月のレース表彰式にはまたNYに来るつもりだか ら。お元気で!」

この時の多田さんの60歳とは思えない精悍な姿と暖かい笑顔 は今も心に焼き付いている。

約半年の過酷なレースのはじまりを一目見ようとたくさんの 観光客が見守る中、『ボーン!』フォートアダムスの砦の大砲 の音を合図にヨットが次々に出航して行った。レース出場以外 のヨットやボートも見送りの鐘をカランカランと鳴らしながら 伴走していく海の景色はまさにあの『真夏の夜のジャズ』の映 画そのもの。「多田さあん、ありがとう!元気でね~。」優勝 なんかしなくていいから無事に戻って来て、と祈るような気持 ちでいつまでも砦から多田さんのヨットを見送った。蒼い水平 線の彼方に小さな小さな白い点となって消えるまで・・・。








「今、シドニーからですが、レースを断念する事になりました。」 多田さんの弟子、コージローから電話が入ったのは翌年2月の 始めの事だった。

多田さんの『コーデンVIII号』は第一寄港地ケー プタウンを無事通過、しかし第二寄港地シドニーまでの航海で激 しい嵐に襲われ数回の転覆を繰り返しなんとかシドニーにたどり ついたものの、精神的、肉体的にもかなりのダメージを受けた多 田さんは遂にレース棄権を決意。

悔しそうなコージローの声に慰 めの言葉など思いつかない私は「とにかく元気で帰って来てくれ ればいいから、と多田さんに伝えてください。」と受話器を置いた。


それから約1月が経ち、ぽかぽかと暖かくなってきた3月8日、 多田さんの訃報が日本中を駆け巡った。

『レース棄権』という精神 的プレッシャーから躁鬱病にも悩まされていた多田さんは、静養し ていたシドニーの親戚の家で「病気が回復してきましたからもう飛 行機に乗って日本に帰れますよ。」と医者が診断を下したその日 に、親戚の家の庭先で自らの命を絶ってしまった。沢山の夢と希望 を残して突然私達の前から消えてしまった多田さん。本当ならこの 年の8月にニューポートで再会する予定だったのに・・・。

今回は3か月という長期滞在を計画、どこまでやれるか自分を試す 意味でとても重要なものだった為に今さら計画を変える訳にもいか ない。大きな悲しみを抱えたまま、せっかく多田さんが作ってくれたチャンスを無駄にしないためにも1991年5月、再び利樹と私はニューヨークに旅立った。(つづく)


NYものがたり5[ニューポートのレース前夜祭]

2016年09月08日 | 
<ニューポート前夜祭>

ヤヒロ君が帰国してまもなく、NYから約3時間ほど北にあるおとぎ話にでてきそうな別荘がいくつも並ぶ海辺の街、ニューポートに私と利樹は車で向かった。青い空と蒼い海 に白いマストが立ち並ぶヨットハーバー、万国旗たなびく フォートアダムスの港には、レース前だけあってディキシーランドジャズのバンドが野外演奏したりと活気に満ちあ ふれていた。




日本からも応援の一行がすでに到着し多田 さんのヨットの点検、修理などを一所懸命手伝っていた。 特に一番弟子の白石康次郎くんの働きぶりは目に見張るものがあった。

私たちが到着すると多田さんは、忙しい合間をぬってレース仲間に紹介する為にいろんな場所に私達を連れて行ってくれた。 お陰で私達はヨットの上、ヨットクラブでの送迎パーティ、 様々な場所で多田さんと一緒に毎回ブルーモンクを演奏する 事になった。

この街ではヨットマンというだけで英雄なのだ が、ニューポートの栄誉市民にもなっている多田さんが街を 歩くといろんな所から「ユーコー!」と声がかかる。「凄い人 気だねえ。」「いやあ、そんなんじゃないです。ははは。」 と頭をかく多田さんは東京でタクシーを運転する時の顔とは 全く違っていた。


前夜祭はニューポートジャズフェスティバルの舞台にも なったフォートアダムス。例の映画(真夏の夜のジャズ) にも出てくる紅白の大きなテントが会場だ。記者会見も終 わったヨットマンたちは明日からのレースを前にみんな活 き活きとした表情で酒を飲み、踊り、家族とのなごりを惜 しんでいる。

ステージではバンド演奏が入ってスイングジャズを演奏している。クラリネットのおじさんがどうやらバンマスのようだ。多田さんはそのバンドリーダーのところに スタスタと挨拶に行った。「はるばる東京からジャズマン がきています。このあと俺達にも1曲演奏させてくださいな。」するとあからさまにバンドリーダーは嫌な顔をして 「だめだ、だめだ。俺達の演奏が終わってからなら構わないが。」「じゃあ、俺達は最後に演奏させてもらいます。」

パーティも終わりに近付き、司会者が次々にレース出 場者たちを舞台にあげ紹介した。最後に多田さんが挨拶 の為ステージにあがった。

「挨拶なんかするよりも演奏 を聴いてください。東京から来てくれた素晴らしい ミュージシャンを紹介します。」やんやの声援を受けな がら私達もステージにあがった。ところが・・・例のバ ンマスはそのわずかな時間にさっさと譜面代やマイクを 片付けてしまっている。あまりの事に唖然としている私達に、ドラムとギターの青年が言った。「僕らは一緒に 演奏したいからここに残るよ。」もうこうなったらマイ クなんていらない。いつも通りにブルーモンクを吹きはじめると、観客は全員立ち上がりステージの前に歩みよって拍手喝采。多田さんもあの憧れのニューポート ジャズフェスティバルのステージで、半年かけて「Blue Monk」のテーマを練習してきた成果もあって、私達に 混じって堂々と実に楽しそうに演奏した。





観客のアンコールに応えて、ラストには十八番の『波浮の港』まで 披露し、前夜祭は華やかに幕を閉じた。演奏後、残ってくれたドラマーとギターリストが名刺を差し出し私達に握手を求めてきた。「バークリーで教えているんだけ ど、今日は本当に楽しかった。また一緒に演奏したいな。 ボストンに来たらぜひ連絡してくれよ。じゃあユーコー、Good Luck! 」 (つづく)


NYものがたり4 [Knitting Factory デビューライブ]

2016年09月08日 | 
<Knitting Factory Live>

さて翌日の<ニッティングファクトリー>はハウストン ストリート(SOHOの一角)の広い道路に面しており、 名前の通り"毛糸工場"を改造したコンクリートの4階建て の小さなビル。地下がバーになっていて、ライブを聴き たい人はそこでチケット(たったの$10!)を買い、階段 を登ってライブステージのある2階へと進む。

薄汚れたコンクリートの壁、ドアが壊れ中が丸見えの トイレとお世辞にもお洒落な建物ではないが地下のバー では若者たちがわいわい集まって酒を飲み、まだ夕方前 だというのに活気が溢れ、当時若手アーティストの登竜 門として知られ最も先鋭的なジャズクラブだった。

スティーブ・コールマン(sax)、ジョン・ゾーン(sax)や アート・リンゼイ(g)といった素晴らしいアーティスト 達が毎月出演しているこの店で自分も演奏できる喜びに 胸が高鳴った。 その晩のステージも、ストリートで宣伝した効果が あったのだろう、大勢の人たちが来てくれた。

「皆さ ん、今日は私達にとって"デビューコンサート"です。 この店で演奏する事は私の夢でした。」1曲目が終わっ て、つたない英語で挨拶をすると一斉に熱い拍手と歓声 が沸き起こった。



去年の冬、初めて地下鉄のプラット ホームで演奏したときのあの感動が蘇る。壁際でにこに こビデオを回す多田さんと、食い入るように私達を見つ めるジャッキーの嬉しそうな姿があった。「ありがと う。カミカゼキッズ!」「CDはありますか?」「次の ライブの予定は?」etc...アンコールの拍手がいつまでも 響く会場で私達は祝杯をあげて店を出ると、イエロー キャブのジャッキーが昨日と同じように待機していた。

みんなにジャッキーを紹介し店の前で記念撮影をしてか ら「じゃあ、レースの準備にとりかからなくてはならな いので・・・次はニューポートで会いましょう。」「次 の主役は多田さんね。頑張ってください。」「いやあ、 頑張りませんよ。あははは。」みんなに別れを告げて 多田さんは夜中のマンハッタンを後にした。


「ジャッキー、ありがとう。」タクシーが走り出す と、あれあれ?どうやらブルックリンとは逆方向を走っ ている。「どこへ行くの・・・」疲れた体でジャッキー の英語は益々聞き取れないまま、質問するのもあきらめ ている私に「アポロシアター!」と叫ぶ声。窓の外を見 ると、確かにアポロシアターだ。じゃあ、ここってハー レム?さっぱりわからないまま、今度は橋を渡って郊外 に向かって走っている。「ヤンキースタジアム!」 わかった!NYめぐりを私達のためにしてくれているん だ。体はくたくただったが、ジャッキーの親切をありが たく思い、車の中からたっぷり市内観光をしてブルック リンに戻った頃には夜がしらじらと明けていた。(つづく)


NYものがたり3[NYふたたび]

2016年09月08日 | 
<NY再び>

ボーン!正午の合図と共にフォートアダムスの砦から大砲の 音が響き渡った。世界中から集まってきた25艇のヨットが大勢 の見守る中、蒼い空の下で元気にスタート。私達は多田さんの ヨットが白い小さな点になって見えなくなるまで、いつまでも いつまでも海を眺めていた。まさか、これが多田さんとの最後 の別れになるなんて夢にも思わずに・・・。

多田雄幸は自ら設計し仲間と造ったヨットでレースの3か月前 の1990年5月19日、清水港を出航。清水では出航記念パーティが盛大に行われていた。


なんと、大儀見元ちゃんのお父様はヨット界の重鎮でした。ご挨拶のもよう。

「3か月かけてニューポー トに行くのなんて、世界一周するのに較べれば準備運動のよう なもんです。じゃあ、NYで8月に会いましょう。」約束通り私 達の旅費をポンと出してくれた多田さんに感謝しつつNYで初ラ イブの準備にさっそくとりかかった。まずはメンバー選び。そ の頃から大好きだったパーカッショニスト、ヤヒロ・トモヒロ にこの話をすると、彼もNYは初めてだった為、面白そうだね、 と一緒に行く事に決定。


8月のNYはすっかり秋の気配が漂っていた。3週間後に控え たマンハッタンデビューライブの為にラジオ、テレビ出演とた くさんの宣伝活動を行った。

中でも楽しかったのは、セントラ ルパークでのストリートライブだ。この時もやはり黒山のひと だかりができ「一体お前たちはどこの国から来たんだい?」 「いつライブがあるの?絶対行くよ。」など質問攻め。NYに 向かう成田のバスの中で「パスポートプリ ーズ」と日本の検査 官に言われたくらい日本人離れしている(?)ヤヒロ君は、プエル トリカンの男が話しかけてくると、カナリア諸島で育った血が 騒ぐのかスペイン語でぺらぺらと応酬、日本にいるときとは全 く別人。「誰も俺達の事を日本人だ、って信じないよ。」 そりゃ、あんたのせいだよと思いつつ、あっという間に稼いだ $200で中華街に繰り出しロブスターを買い込み、友人たちと大 宴会。近所のスーパーでも「へーイ、アミーゴ」と声かけられ バナナまでもらっているヤヒロ君はどうみてもプエルトリコ人 だった。NYでは英語が喋れるより、スペイン語を話せるほうが 何かと便利なようだ。




<N Yライブ初日@ザンジバル&グリル>

いよいよNYライブ初日だ。<ザンジバー&グリル>という比較的 新しいクラブはアップタウンにあり、ギル・エバンスオーケストラ のメンバーが毎週出演している白人客の集まるスノッブな店。心配 された客入りも日本人や西海岸からの観光客でほぼ満席。1ステー ジが快調に終わると、多田さんが「遅れちゃってすみません。」と 頭をかきながらやって来た。





ニューポートでレースの準備に追われ る中、3時間もかけて車で駆け付けてくれたのだ。「私達の大切な 友人、多田雄幸さんです。彼は偉大なるヨットマンで今回、私達の スポンサーです。」暖かい拍手を受けて、横縞のTシャツにアポロ キャップをかぶった多田さんは恥ずかしそうに帽子をとってペコっ とおじぎをした。もちろん2ステージの1曲目は多田さんの大好きな『BlueMonk』。緊張と興奮、あっという間のライブだった。




観客席には写真家の柳ゆきおさん、酒井真知江さん、多田さん。

多田さんはヤヒロ君の借りているアパートで一晩過ごす 事になり、一足先に帰って行った。片付けも終わり、ザン ジバーの扉を開けると小雨が降っていた。タクシーをつか まえようと手をあげた瞬間、目の前に1台のイエローキャ ブが現れ、なんていいタイミングだろうと喜んでいる間に 黒人のドライバーは車から降りて私達の楽器を何も言わな いのにせっせと積み込み始めている。助手席に私が座り、 後ろにベースを支えながら利樹が座ると小雨の降るNYを ダウンタウンに向けて勢い良く走り出した。

よほどジャズが好きなのだろう、やたらに話しかけ「サ チ、サチ」を連発しているが、彼の英語は南部訛が強くて さっぱり私には聞き取れない。よく見るとタクシーのメー ターを倒していない。サチなんて慣れなれしく私の名前を 呼んでいるけど、この人、ザンジバーのポスターを見て私 の名前を覚えたんだわ、怪し気なタクシーにつかまったけ ど大丈夫かなあ...心配になってきたその時、料金メー ターの横にあった運転手のネームプレートが目に止まった。 <ジャッキー・ポウル・クルエル>もしかしてあの・・・ 「 ジ ャ ッ キ ー ? 」 「イェス、イエス、アイムジャッキー!」 半信半疑の私に手紙やテープを運転席から取り出してみせ てくれた。詩人かと思えるようなあの手紙からは全く想像 つかない、オクラホマ出身の大柄な黒人。年令はおそらく 60くらいだろう、コウベ、ヨコハマ、サセボという単語か ら海軍に所属して日本にも来た事があるらしいという事が なんとか理解できた。



「明日のニッティングファクトリーのライブには友人と一 緒に聴きに行くよ。入りの時間は何時?楽器運ぶのを手伝 うから。」ジャッキーはザンジバーで私達の演奏が終わる のを待っていてくれ、ブルックリンの友人の家に送ってく れたのだ。もちろんタクシー代金を受け取ろうとはしな かった。翌日も約束の時間にジャッキーはイエローキャブ で現れ、ニッティングファクトリーに楽器を運び込むとこ ろまで手伝うと「じゃあ、9時頃には必ず行くから。」 さっさとタクシーに戻りダウンタウンへ消えて行った。自 分の生活で精一杯のニューヨーカーたちばかりの中でこん な神様のような黒人に出会えるなんて、ジャッキーの喋る言 葉がもっと理解できたら...英語力のなさがはがゆかった。(つづく)

写真提供/Yukio Yanagi