minga日記

minga、東京ミュージックシーンで活動する女サックス吹きの日記

NYものがたり11 [ハーレムツアー]

2016年09月10日 | 
1991年夏。3か月のNY滞在期間も残り 1か月をきった。言葉の壁や習慣の違いにやや疲れ を覚えた頃ジャッキーがハーレムを案内してくれ て ・・・NY奮戦記、いよいよ最終回です。

<ハーレムツアー>

ジャッキーは私達の家に殆ど毎日立ち寄ってくれた。 タクシーの仕事のある日もそうでない日も。

「今日は ハーレムを案内するよ。」ジャッキーと地下鉄A列車に 乗り連れて行かれたのは行きつけのダイナーだった。

ソウルフードのとてもおいしい黒人たちの集まる小さな 店でジャッキーと仲良しの可愛い黒人のウエイトレス、ニッキーが 「あなたたちの事はいつもジャッキーから聞いているわ!」と歓迎 してくれた。行き交う人々と楽しそうに挨拶を交 わし、友人に出会う度に私と利樹を紹介してくれるハーレムでのジャッキーはまるで別人のように明るかった。

また 別の日「今日はサックスを持ってきて欲しいんだけど。」 とジャッキー。

<シルビア>というアポロシアター近くにあるレストランに入ると、黒人のおじいさん達が演奏している。おいしいソウルフードを堪能した後、ジャッキーは「彼女がサックス奏者のサチだよ」と店 のオーナーに私を紹介。オーナーは「ぜひ彼等と一緒に演奏して下 さい。」さっそくバンドの人に挨拶をしてブルーモンクを演奏する 事になった。

演奏が始まると、観客も店員たちももちろんジャッキーも大喜び。 「もう1 曲!」とアンコールを受けバラードを吹き始めた瞬間、ドアが開き

「ここは私達以外、日本人なんてめったに来れないレストランです。 ハーレムは危ない場所ですからね。」

一人の日本人が観光客を引き 連れ大声で説明しながら入って来た。私が演奏しているのを見ると彼は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに団体を予約席の一角に案内した。 あれれ?彼はもと某六本木ジャズクラブのオーナーMr.Tではないか。。。演奏後に名刺を持ってやってきたMr.Tが「お久しぶりですね。お元気ですか?」

(当時、Mr.Tは日本人から高いお金をとって「ハーレムツアー」を行っていた。シルビアで働くウエイターたちにとって、お金をたくさん落としてくれる日本人はありがたい存在。Mr.Tのことをとても慕っていた。しかし、日本人に「ハーレムは危険だから、私のツアー以外ではいかないように。」と彼ら黒人たちのことを恐ろしい存在のように伝えていたことも確かで、ちょっと複雑な気分だった・・・。)

日本人観光客がきつねにつままれたような顔をして私達を見ている中でMr.Tと挨拶を交わしていると、シルビアのオーナーが私のところにやってきて「ちょっと話があるんだけど。」と私を店の入り口近くの席に招き寄せた。私のバンドでこの店のレギュラーを1か月間やらないかという話だった。

とても嬉しかったけれど丁重にお断りして店を出た。それにしても ジャッキーのおかげで、危険だと思っていたハーレムに住む人々の素朴で暖かい人柄に触れる事ができたのは本当に幸運だった。


「シルビア」で飛び入り

ハーレムを暢気に遊び回っている間にマネジャーのシスター・ チャイナはジョージ・バトラー(マイルス・デイビスや秋吉敏子など を手掛ける音楽プロデューサー)とのアポイントをとってきた。

あわてて、私たちも知人に通訳をお願いし同行してもらった。カーネ ギーのすぐ横にそびえ立つ巨大なビクター本社ビルのエレベーター に乗り込み、有名なアーティスト達のゴールドディスクがずらっと 壁にかかっている長い廊下をいくつも曲がるとジョージ・バトラー の部屋の前に辿り着いた。チャイナがドアをノックすると「Come In!」と重厚な椅子に座ったジョージ・バトラーが立ち上がって私達 を出迎えてくれた。握手を交わし、社交辞令の挨拶・・・緊張の数分間。

「できるだけ早いうちに契約書を交わしましょう。Knitting での演奏はとてもよかったので、あなた方の音楽をそのまま大切に してください。また連絡をします。」

夢のような話だったが、なん だかきつねにつままれたような気分でビクターを後にした。 次は弁護士を決めようとチャイナが言い出した。まだ仕事も決 まっていないのに・・・返事を濁らしていると「サチ、これがNYの やり方なのよ。仕事が入ってきたらお金を払えばいいだけだから、 最初に良い弁護士を見つけておかないとビジネスはうまくいかないわ。」

屋根の修理一つにも弁護士を雇うアメリカのやり方にはどう しても馴染めないのだが、チャイナはさっそくアポイントをとってきた。驚いた事にそれぞれマイルス、プリンス、マドンナという超 一流アーティストの弁護士たち。そんな凄い弁護士に会うのだから 当然通訳が必要だ。同じ友人にいつも来てもらう訳にはいかないの で、毎回、通訳をしてくれる人を探し出し、沢山の人の助けを借り ないと何もできない自分がとても情けなかった。

<船頭多くして船山に登る> という諺があるが、通訳をお願 いした日本人たちは、自信満々であまりに夢のような計画をまくしたてるシスターチャイナに 対して不信感を持ち始め、私達に気をつけなさいと警告する者も出て来た。

『なぜ私を信じてくれないの?』という苛立ちが はっきりチャイナにも顕われ、 さらに強引な態度をとるようになり、私達の知り合いの日本人 たちを敵対視し始めた。

一体誰を信じたらいいの..?

自分で判 断できないもどかしさで、楽しいはずのNYデビュー計画もだん だんつらいものになってきた。(つづく)

NYものがたり10 [シスター・チャイナとジャッキー]

2016年09月10日 | 
<シスター・チャイナ>

翌日再びチャイナが1枚の紙切れを持って訪れた。

「この契 約書にサインしてちょうだい。私があなたのマネージャーで す、というものだから心配はいらないわ。」

日本語で話をして いればきっと何の疑いもなく彼女の意見を聞き、それを自分で 判断することは簡単だったに違いない。しかし、ここは生き馬の目を抜くNYだ。突然つきつけられた紙切れに、英語の契約書 を初めて見る私は戸惑いを感じすぐに返事ができない。

「ちょっと待って、内容をよく読んでそれからサインするか ら。」と伝えるので精一杯。大事な契約などの話になると私の 語学力ではお手上げ状態、英語を得意とする利樹ですら契約書 には慎重になり、なんにでも契約書を取り交わすこの国のシス テムに戸惑いながら、結局日本の知人たちに相談するしかな かった。


日本の友人に訳してもらった末、遂にマネージャーの契約書 にサインするとチャイナの行動力は今まで以上に精力的なった。ワールドミュージック系のライブをやっているNYで最も ヒップな店<SOB>のオフィスに私達を連れていき、 「この子はこれからビクターでデビューする素晴らしいサック スプレイヤーよ。彼女のグループをブッキングしてくれな い?」強引な彼女に説得されたのかどうかは定かでないが、 「へえ、ビクターからデビューですか、それはおめでとう!」 とすぐにライブの日取りが決定。


つの犬もたったの2週間で 様々な人と出会い、めまぐるしく変化するNYのに驚きながらも「やっぱ面白いねえ、NYは。」とすっかり堪能し「また来た いよ~。」後ろ髪をひかれながら日本に帰国して行った。


Sound of Brazil (SOB)


なんと、同じ週末にElza Soaresが出演していたとは!!!


<ジャッキーありがとう!>

私達の次のギグは<ザンジバー&グリル>。昨年の夏、この 店からマンハッタン・ライブ計画がスタートしたのだが、1年 も経っていないのにもう大昔の事のようだ。多田さんのお陰 で・・・と思いながらステージにあがると不思議な事に、 あの時の多田さんと同じ席に横縞ボーダーネックTシャツにア ポロキャップをかぶった白人が座って聴いているではないか。 もちろん全くの偶然だろうが、昨年居合わせたDちゃんとその旦那様も驚いていた。きっと天国から多田さんがまたライブ に駆け付けてくれたんだね・・・。溢れそうになる涙を必死に 堪えて演奏した。そしてライブ終了後にまたまたジャッキーが ザンジバーの店の前にイエローキャブで待機してくれていた。






「ハ~イ、お腹は?」と聞かれ「うん、すいてる!」 彼はブルックリンブリッジとは違う方向にどんどんタクシー を走らせる。ジャッキーのタクシーがまっすぐ家に向かうは ずがない。今回はどこに連れて行ってくれるのだろう・・・ 疲れた体をタクシーの助手席にもたれウトウトしかけたとた ん、華やかなネオンの観覧車と人声でが目が醒めた。

「コニーアイランドへようこそ!」笑いながら車を停車させ、車から降りて私たちの為にホットドックを買ってきてく れた。真夜中だというのに壁の向こうではジェットコース ターやコーヒーカップがネオンを輝かせてくるくるっている。その横には修理中のゴンドラ・・・人気の少ない小さな 遊園地だったが思いがけないプレゼントに、今までのめまぐ るしい日々の緊張が一気にほぐれ涙が止めどなく流れた。





ジャッキー、本当にありがとう・・・生きる事に必死、自分 の事で精一杯の人間達の多いこのマンハッタンで神様のような彼と出会えた事に感謝せずにはいられなかった。(つづく)

NYものがたり9 [NY Stir Up! 誕生!]

2016年09月09日 | 
<NY Stir Up! 誕生!>

翌日さっそくフェローンから電話がかかり、私と利樹は彼の リーダーバンドに参加する事になった。またレゲエのバンドで 仲良くなったTbのジョッシュに誘われ<アマゾン>というハ ドソン川のほとりにある野外レストランで演奏したり、コロン ビア大学前の<ウエスト&ゲイト>という学生たちの集まる店 で毎週1回フェローンバンドで出演する事になり、私達はここで沢山 の音楽家たちと出会うチャンスが生まれた。


Josh Band @アマゾン

ある日、フェローンバンドに遊びに来て1曲だけ演奏したピ アニストがいた。白人(ユダヤ人)で小柄な人だったが1曲弾いただけで素晴らしいリズム感とテクニックを持っているのが 解かる。さすがNY!と思いながら握手を交わして別れた数日後、ドラムの本田さんと地下鉄コロンバスサークル駅でスト リートを演っていると「オ~、サチ!元気?」と声をかけてき た人が数日前フェローンに紹介されたピアニスト、クリフ・ コーマンだった。

「今度どこかで一緒にできるといいね。電話 してよ。」と私にネームカードを渡して人混みに消えて行く後 ろ姿を見ながら『彼にStir Up!のメンバーになってもらおう。』 利樹と私の意見が一致した。(クリフはのちにブラジル音楽の大家としてリオに住み、2014年、私たちをリオ、ベロオリゾンチのギグに招聘してくれることになるのだが・・・。)


クリフのブルックリンの自宅にて。


<つの犬到着>

ニッティングファクトリーでのギグの日がいよいよ近付いた。 スターラップのメンバーとしてまっ先に声をかけたのは、白 人レゲエバンド、ジャー・リーバイのところで仲良くなった ジョッシュ・ローズマンTb。ニッティングファクトリーのギ グにはトランペットのラッスール(デビッド・マレイオーケ ストラにも所属)も呼んで賑やかに3ホーンでやることに決 定。キーボードにはもちろんクリフ・コーマン。

家でリハー サルも行い、ストリートでチラシを巻いたり、NYフジテレビ やローカルラジオに出演したりと、できるかぎりの宣伝活動 を行った。

つの犬も日本から到着。彼にとって初めてのNYが エルドリッジという物騒な環境と変わった造りの家に驚きな がらも、持参した梅干しやお茶を振舞ってくれ、自分用のゴ ザまでいつの間にか調達している。さすが、つの犬だ!この生活 にあっという間に慣れてしまった。ジャー・リーバイとも私の 知らないうちに親しくなり、彼の家におみやげの〇〇◯を持って遊びに行ったりしている・・・・汗。けんの恐れ知らずの行動力に はさすがの私も完敗だ(苦笑)。



ニッティングファクトリー・ライブ当日、けんの為に本田さん がドラムセットをブルックリンから運んでくれ、私達はもちろん ジャッキーがタクシーでお迎え。「去年も来たよ」という若い ニ ュ ー ヨ ー カ ー の 青年 、Dちゃん、カメラマンの友人たち、そして ジャッキー、トマス・チェイピン(sax奏者)などなど・・・。ただ一人足りないのは多田さんだけだった。


ラッスール(TP)と。


トマス・チェイピンsaxと。





演奏後、高級なスーツをさらっと着こなし、美しい女性を従え た青年実業家風の黒人をシスターチャイナが紹介した。

「Thank you for coming.」と挨拶すると、彼は紳士的にお じぎをし「It's my pleasure.」とやさしく微笑み、<ジョージ・バ トラー/音楽プロデューサー>と書かれた名刺を差出し颯爽と 帰って行った。

「サチ、良かったわね。彼はビクターのプロデューサーでマイ ルス・デイヴィスやトシコ・アキヨシのレコードを沢山手掛けている人よ、とっても気に入ってくれたみたい。きっとビクターか らデビューができるわ、これから忙しくなるわよ。」

完璧にチャイナは舞い上がっており、私達はまるできつねにつ ままれたようだった。コンサートが終わってくたくたの私達に 「これからミーティングをしましょう。」とチャイナが私達の住 むアパートまで着いて来た。

しかし、英語でペラペラと自分の考 えを捲し立てるチャイナに圧倒されるだけで彼女の言っている意 味が半分も理解できない。それでもチャイナが語り続ける"アメ リカン・ドリーム"に夢見心地の気分は明け方近くまで続いた。(つづく)


NYものがたり8 [Against the racism concert]

2016年09月09日 | 
<Jah Levi と人種差別反対コンサート>

ステージに上がると観客がやんやの喝采でリーバイのバンド を待受けていた。おそらくスタンディングで200人はいるだろ う。レゲエのバンドで演奏するのは全く初めてだったが、バン ドの皆がとても優しかったので緊張することなく自由にプレイ する事ができ、ステージが終わるとリーバイは「次の仕事は2 日後のユニオンスクエアのフリーコンサートだけど、来れるか い?」すっかり気に入ってくれたようだ。チャイナも満足そう に笑っていた。


2日後の昼過ぎ、青空の下で行われたフリーコンサートは ユニオンスクエアの一角に停車された大型トラックがステージ で『アゲンスト・ザ・レイシズム(人種差別反対運動)コン サート』と題されたものだった。

地下鉄の駅を上がるとすでに 人が集まっており、体のでかい黒人ギターリストがハードロッ クを大音量で演奏していた。リーバイはオレゴンに農場を持 ち、ギグのある時だけ1年に何回かNYにやってくるのだがかな り人気があるようでファンも大勢いる。

観客が集まりだした頃、リーバイバンドの出番がやってきた。そもそも白人のレゲエバンドリーダーというのが珍しいのだが、メンバーは白人のピアニスト、ユダヤ系ドラマーとギターリスト、黒人のボーカル、ジョッシュ、ラッスール、そして日本から私、これぞまさしく『アゲンスト・ザ・レイシズム』。ステージに上がって私がソロを吹き終わると、観客は総立ちで拍手をしてくれた。



バックステージにライトバンが止めてあり、終わってからその中でリーバイは「今回のギャラはこれだけど。」といって私の両手いっぱいに極上〇〇をポンとのせ、唖然とする私に次回のギグの約束をしてその場からライトバンで立ち去っていった。チャイナも非常に満足した様子で「これからあなたのマネージャになるわ。まずいろんな人にあなた達の演奏を聴かさなくてはね。」と言って私をぎゅっと抱き締めてくれた。

<スイートベイジル乱入>

さっそく、精力的なシスター・チャイナの活動が開始した。 しかしチャイナの専門分野はジャズではない為、音楽的な内容には 殆ど口を出さないと約束してくれた。私達はメンバーとなってくれ る素晴らしいミュージシャンを見つける為にいろんなライブに出か ける事にした。

まずブルックリンの美術館で行われるジェリ・アレン(女性ピア ニスト)のフリーコンサート。この季節(夏)は日本で聴きたくて もなかなか聴けないような素晴らしいアーティストたちのフリーコ ンサートがあちこちで催される。ジェリ・アレンも世界で注目され ている素晴らしいピアニストの一人。野外ステージには1000人の ファンが詰め掛けていた。

メンバーはアンソニー・コックス(b) とフェローン・アクラフ(dr)のトリオ。フェローンは変拍子の曲 の上で伸び伸びとしなやかなドラミングを披露。やはりNYには凄 いミュージシャンたちがゴロゴロしているんだなァ。フェローンと は山下洋輔氏から以前紹介されていて一度だけ面識があったが「こんなしなやかなドラムと一緒に演奏してみた~い!!」改めて彼等の演奏に圧倒されると同時に、嬉しい期待で胸が高鳴っていた。


「ハーイ、サチ、今日の夜は何してる?日本から有名なピ アニストが来ているよ。」 絶好のタイミングでジャッキーに誘われるまま、スイートベイジル出演中の山下洋輔トリオに楽器を持って乱入する事 になった。

利樹とジャッキーと3人で夜のマンハッタンを SOHOに向かって歩きながら、ジャッキーは私のサックスを 大事そうに抱えてくれている。今日はジャッキーの休日、いつものイエローキャブはない。スイートベイジルの入り口に 着くとジャッキーは中には入らず、サックスを手渡してくれ た。

「Good Luck!」 山下さんに再会の挨拶を交わし、3ステージ目に乱入させて もらえる事になりふと振り返って見ると透明なガラス張りの店の前で嬉しそうにジャッキーがこちらを見ている。音は筒抜けだから、きっと外でもジャッキーには聴こえるだろう。 どうやらジャッキーは白人が多く集まる店には一歩も入らな いと決めているらしい。

スイートベイジルの3rdステージが始まる頃はすっかり夜 中になっていた。日本のライブと違って1stステージ開始時間 が9時過ぎ。そこから3セットというハードなもの、平日の夜中なので観光客もだいぶ少なくなったが、3rdステージは他の ギグを終えたミュージシャンが集まって来てセッションになる 交流の場でもある。

山下さんに紹介されステージにあがると フェローンがくりくりとした愛らしい目で笑っていた。セシル マクビ-(b)も優しく迎えてくれたが、緊張のあまり自分で 何を吹いているのか全くわからない。憧れのスイートベイジル で演奏してるんだ・・・。無我夢中でサックスを吹き、スイー トベイジルの店員たちや客達が大喜びしてくれている様子で はっと我に返った。ステージが終わるとセシルが紳士的に握手を求め、フェローンは抱き締めて「今度電話するから、一緒にやろう。」



彼との共演がこんなに早く実現するなんて.... きっかけを作ってくれたジャッキーに感謝!と外を見ると彼の 姿はもうそこにはなかった。(つづく)


NYものがたり7[Eldridge Street新生活]

2016年09月08日 | 環境
<エルドリッジ・ストリートの新生活>

昨年のストリート以来すっかりお世話になっているドラマーの 本田さんが見つけてくれた住処に飛行場から直行した。ちょうど 3か月だけ日本に帰るという日本人ミュージシャンの部屋は、ダ ウンタウンのはずれ(ロウワーイースト)にあるエルドリッジス トリートに面した地下室付きのアパートだった。

同じ大きさの細長い建物が立ち並ぶこの通りは、普通の観光客はめったに近寄らないドラッグディーラーだらけの危険な通りだったが、家賃が安いので文句は言えない。ストアフロントといって店鋪を改造した もので、正面の入り口は全てガラス張り、床は石畳、おそらく元は床屋だったのではなかろうかという細長い造り。ひんやりと した空気とカビの臭いにつつまれた地下室に降りて行くと、ドラ ムセットやキーボードがセットされていていつでも音が出せるよ うになっていた。ミュージシャンにとってこんなに嬉しい環境はない。

まず手始めに簡単な家財道具を買う為チャイナタウンに繰 り出した。ここからリトルイタリーまで徒歩5分。隣駅のキャナ ルSt.には中華街があり買い物には不自由しない便利な場所だ。 チャイナタウンに近いのが主婦にとってなにより嬉しい。(なんて 書いているとなんだか音楽の話から遠ざかってしまいそうだが) さっそく包丁とお米、食料、そして冷たい石床の上に敷くゴザを 入手。日本にいたって、こんなゴザが買える場所を私は知らない。恐るべしチャイナタウン。アパートには、日本人の住処だけ あって電気釜や鍋はちゃんと置いてある。さあ、やれるだけの事 をやってやるぞ〜。エネルギーの塊の街、NYの中心にまた一歩足を 踏み入れてしまった私達の新たな挑戦がここから始まった。

さっそくNYの友人たちに電話するとみんな「お帰り〜!」と歓迎 してくれた。そしてまず1番にやってきたのは缶コーラと英字新聞を抱えたジャッキーだった。「ハ~イ、サチ、トシキ」挨拶を 交わしたジャッキーは今回の長期滞在をとても喜んでくれている。積もる話は山ほどあるけど訛りの強いジャッキーとは心で交 流するしかないな、とあきらめかけていると、タイミング良く親友のDちゃん登場。前回Dちゃんがジャッキーとの通訳を務 めてくれたお陰で随分助かったのだが、今回もまたお世話になる しかない。DちゃんはNYに移住するなら結婚してもいいわ、と 条件付きでハンサムな日本人カメラマンとNYに渡り、唄や芝居の 勉強をしているエネルギッシュでキュートな女の子。NYに来て3 年だが、すっかりニューヨーカーになりきっている彼女と、無理 やり連れてこられてしまって未だに日本をこよなく愛している旦那様となんとか楽しく暮らしているようだ。

「Dちゃんと夕食に行くからジャッキーも一緒に行かない?」 と誘うと照れくさそうに首を振り「明日の予定は?また顔出すよ。バーイ。」とちょっと足をひきずりながらグランドSt. 駅に向かって歩き出していた。

そういえば去年1度だけDちゃんの友人の家でパーティがありジャッキーを誘った事が あった。ヤヒロ君が帰るので3人で演奏するのはこれが最後だ から、という理由で一緒について来たのだが、周りがみんな白人だった為なのか、ジャッキーは私たち以外とは殆ど喋らず、 ちょっと居心地悪そうにしていた。そう言えば日本人レストラ ンに出かけた時も、いくらご馳走するからと誘っても一緒に食 事をしようとしなかった。きっと私たちにはわからない、黒人の何かがあるのだろう。




とりあえず今ライブが決定しているのは昨年同様<ザンジ バー&グリル>と<ニッティングファクトリー>。メンバーを 探してNY版 "Stir Up!"(私の東京でのバンド名)を結成しよう、せっかくNYに来ているのだから素晴らしいミュージシャ ン達と交流しよう、というのが今回最大の目的だ。しかし「俺 も行きたい!一緒にやらせてよ。」と日本からドラムのつの犬 がそのライブにあわせて、約2週間転がりこんで来る事になっている。果たして3か月でどこまでできるのだろうか。 私達はまず手始めに前回知り合った音楽プロデューサー・ダ ニエル氏が紹介してくれたシスター・チャイナという女性にコ ンタクトをとる事にした。

<初体験、レゲエバンド>

「彼女は音楽業界で沢山の仕事を手掛けているから、きっと 君達の役にたってくれると思うよ。」ダニエルの言葉を頼り に、私達は待ち合わせの<ニッティングファクトリー>のバー に向かった。「ハーイ」時間通りやってきた彼女は真っ黒な大 きめのサングラスに黒いボブカットの美しい、キャリアウーマ ンといった中国系アメリカ人。

「あなたの演奏が聴きたいわ。 明日レゲエの店で友達が出演するの、よかったらそこで演奏し ない?」喜んでこの申し出を受けシスターチャイナと握手を交 わした。

翌日、待ち合わせのライブハウスはダウンタウン・ キャナルストリートの<ウェットランド>。ドアを開くとサイ ケ調の蛍光色のペインティングがブラックライトで怪しく照ら しだされ、地下にもバーがあり熱気が充満し、少し息苦しい。 既に演奏が始まっており大勢の客たちが音楽を楽しみつつ、好 き勝手に飲んだり踊ったりしている。バンドリーダーはボーカ ル&ギターの白人だが、もう1人ラスタヘアーの黒人も歌を歌 いながら観客に向かって片手を上げ「アユーリ!」と叫び客と 呼応しあっている。きっと「最高!」って意味だろう。小柄でや さしそうなトランぺッターの美しい音色、そして隣の短いド レッドヘアーの黒人トロンボーンがあまりに格好良くて私の目 は釘ずけ状態に・・・。コーラスのラスタ娘もめちゃくちゃ可 愛い。思わず体が動きだしてしまうヒップなレゲエバンドだっ た。1セットが終わるとチャイナは私をさっそく楽屋に連れて 行き、リーダーのジャー・リーバイに紹介し、次の演奏に飛び 入りさせてもらえるよう頼んでくれた。リーバイはトロンボー ンのジョッシュ・ローズマンとトランペットのラッスール・シ ド ゥ ッ ク を 紹 介 し 「彼等に譜面を見せてもらうといい。ソロは好きな ところで吹いていいからね。」と穏やかな笑顔で私に言った。さあ、一体どうなる・・・?? (つづく)







NYものがたり6[世界一周シングルハンドヨットレース出航!]

2016年09月08日 | 
<世界一周シングルハンドヨットレース出航の日/ニューポート>



当日は朝早くからヨットの最終チェックで大忙し。ひんやり とした空気の中、25艇のヨットマンたちのいるヨットハーバー にはレース前の緊張感が漂っていた。多田さんもマストに登っ て修理をしたり記者のインタビューに答えたりと昨日までの暢 気さはどこかに消え、たくましい海の男になっていた。「みん なに“頑張れ”って言われるけど頑張りませんよ。マイペース で楽しく航海してきま~す。」「無事に帰って来て下さいね。 私達も来年5月のレース表彰式にはまたNYに来るつもりだか ら。お元気で!」

この時の多田さんの60歳とは思えない精悍な姿と暖かい笑顔 は今も心に焼き付いている。

約半年の過酷なレースのはじまりを一目見ようとたくさんの 観光客が見守る中、『ボーン!』フォートアダムスの砦の大砲 の音を合図にヨットが次々に出航して行った。レース出場以外 のヨットやボートも見送りの鐘をカランカランと鳴らしながら 伴走していく海の景色はまさにあの『真夏の夜のジャズ』の映 画そのもの。「多田さあん、ありがとう!元気でね~。」優勝 なんかしなくていいから無事に戻って来て、と祈るような気持 ちでいつまでも砦から多田さんのヨットを見送った。蒼い水平 線の彼方に小さな小さな白い点となって消えるまで・・・。








「今、シドニーからですが、レースを断念する事になりました。」 多田さんの弟子、コージローから電話が入ったのは翌年2月の 始めの事だった。

多田さんの『コーデンVIII号』は第一寄港地ケー プタウンを無事通過、しかし第二寄港地シドニーまでの航海で激 しい嵐に襲われ数回の転覆を繰り返しなんとかシドニーにたどり ついたものの、精神的、肉体的にもかなりのダメージを受けた多 田さんは遂にレース棄権を決意。

悔しそうなコージローの声に慰 めの言葉など思いつかない私は「とにかく元気で帰って来てくれ ればいいから、と多田さんに伝えてください。」と受話器を置いた。


それから約1月が経ち、ぽかぽかと暖かくなってきた3月8日、 多田さんの訃報が日本中を駆け巡った。

『レース棄権』という精神 的プレッシャーから躁鬱病にも悩まされていた多田さんは、静養し ていたシドニーの親戚の家で「病気が回復してきましたからもう飛 行機に乗って日本に帰れますよ。」と医者が診断を下したその日 に、親戚の家の庭先で自らの命を絶ってしまった。沢山の夢と希望 を残して突然私達の前から消えてしまった多田さん。本当ならこの 年の8月にニューポートで再会する予定だったのに・・・。

今回は3か月という長期滞在を計画、どこまでやれるか自分を試す 意味でとても重要なものだった為に今さら計画を変える訳にもいか ない。大きな悲しみを抱えたまま、せっかく多田さんが作ってくれたチャンスを無駄にしないためにも1991年5月、再び利樹と私はニューヨークに旅立った。(つづく)


NYものがたり5[ニューポートのレース前夜祭]

2016年09月08日 | 
<ニューポート前夜祭>

ヤヒロ君が帰国してまもなく、NYから約3時間ほど北にあるおとぎ話にでてきそうな別荘がいくつも並ぶ海辺の街、ニューポートに私と利樹は車で向かった。青い空と蒼い海 に白いマストが立ち並ぶヨットハーバー、万国旗たなびく フォートアダムスの港には、レース前だけあってディキシーランドジャズのバンドが野外演奏したりと活気に満ちあ ふれていた。




日本からも応援の一行がすでに到着し多田 さんのヨットの点検、修理などを一所懸命手伝っていた。 特に一番弟子の白石康次郎くんの働きぶりは目に見張るものがあった。

私たちが到着すると多田さんは、忙しい合間をぬってレース仲間に紹介する為にいろんな場所に私達を連れて行ってくれた。 お陰で私達はヨットの上、ヨットクラブでの送迎パーティ、 様々な場所で多田さんと一緒に毎回ブルーモンクを演奏する 事になった。

この街ではヨットマンというだけで英雄なのだ が、ニューポートの栄誉市民にもなっている多田さんが街を 歩くといろんな所から「ユーコー!」と声がかかる。「凄い人 気だねえ。」「いやあ、そんなんじゃないです。ははは。」 と頭をかく多田さんは東京でタクシーを運転する時の顔とは 全く違っていた。


前夜祭はニューポートジャズフェスティバルの舞台にも なったフォートアダムス。例の映画(真夏の夜のジャズ) にも出てくる紅白の大きなテントが会場だ。記者会見も終 わったヨットマンたちは明日からのレースを前にみんな活 き活きとした表情で酒を飲み、踊り、家族とのなごりを惜 しんでいる。

ステージではバンド演奏が入ってスイングジャズを演奏している。クラリネットのおじさんがどうやらバンマスのようだ。多田さんはそのバンドリーダーのところに スタスタと挨拶に行った。「はるばる東京からジャズマン がきています。このあと俺達にも1曲演奏させてくださいな。」するとあからさまにバンドリーダーは嫌な顔をして 「だめだ、だめだ。俺達の演奏が終わってからなら構わないが。」「じゃあ、俺達は最後に演奏させてもらいます。」

パーティも終わりに近付き、司会者が次々にレース出 場者たちを舞台にあげ紹介した。最後に多田さんが挨拶 の為ステージにあがった。

「挨拶なんかするよりも演奏 を聴いてください。東京から来てくれた素晴らしい ミュージシャンを紹介します。」やんやの声援を受けな がら私達もステージにあがった。ところが・・・例のバ ンマスはそのわずかな時間にさっさと譜面代やマイクを 片付けてしまっている。あまりの事に唖然としている私達に、ドラムとギターの青年が言った。「僕らは一緒に 演奏したいからここに残るよ。」もうこうなったらマイ クなんていらない。いつも通りにブルーモンクを吹きはじめると、観客は全員立ち上がりステージの前に歩みよって拍手喝采。多田さんもあの憧れのニューポート ジャズフェスティバルのステージで、半年かけて「Blue Monk」のテーマを練習してきた成果もあって、私達に 混じって堂々と実に楽しそうに演奏した。





観客のアンコールに応えて、ラストには十八番の『波浮の港』まで 披露し、前夜祭は華やかに幕を閉じた。演奏後、残ってくれたドラマーとギターリストが名刺を差し出し私達に握手を求めてきた。「バークリーで教えているんだけ ど、今日は本当に楽しかった。また一緒に演奏したいな。 ボストンに来たらぜひ連絡してくれよ。じゃあユーコー、Good Luck! 」 (つづく)


NYものがたり4 [Knitting Factory デビューライブ]

2016年09月08日 | 
<Knitting Factory Live>

さて翌日の<ニッティングファクトリー>はハウストン ストリート(SOHOの一角)の広い道路に面しており、 名前の通り"毛糸工場"を改造したコンクリートの4階建て の小さなビル。地下がバーになっていて、ライブを聴き たい人はそこでチケット(たったの$10!)を買い、階段 を登ってライブステージのある2階へと進む。

薄汚れたコンクリートの壁、ドアが壊れ中が丸見えの トイレとお世辞にもお洒落な建物ではないが地下のバー では若者たちがわいわい集まって酒を飲み、まだ夕方前 だというのに活気が溢れ、当時若手アーティストの登竜 門として知られ最も先鋭的なジャズクラブだった。

スティーブ・コールマン(sax)、ジョン・ゾーン(sax)や アート・リンゼイ(g)といった素晴らしいアーティスト 達が毎月出演しているこの店で自分も演奏できる喜びに 胸が高鳴った。 その晩のステージも、ストリートで宣伝した効果が あったのだろう、大勢の人たちが来てくれた。

「皆さ ん、今日は私達にとって"デビューコンサート"です。 この店で演奏する事は私の夢でした。」1曲目が終わっ て、つたない英語で挨拶をすると一斉に熱い拍手と歓声 が沸き起こった。



去年の冬、初めて地下鉄のプラット ホームで演奏したときのあの感動が蘇る。壁際でにこに こビデオを回す多田さんと、食い入るように私達を見つ めるジャッキーの嬉しそうな姿があった。「ありがと う。カミカゼキッズ!」「CDはありますか?」「次の ライブの予定は?」etc...アンコールの拍手がいつまでも 響く会場で私達は祝杯をあげて店を出ると、イエロー キャブのジャッキーが昨日と同じように待機していた。

みんなにジャッキーを紹介し店の前で記念撮影をしてか ら「じゃあ、レースの準備にとりかからなくてはならな いので・・・次はニューポートで会いましょう。」「次 の主役は多田さんね。頑張ってください。」「いやあ、 頑張りませんよ。あははは。」みんなに別れを告げて 多田さんは夜中のマンハッタンを後にした。


「ジャッキー、ありがとう。」タクシーが走り出す と、あれあれ?どうやらブルックリンとは逆方向を走っ ている。「どこへ行くの・・・」疲れた体でジャッキー の英語は益々聞き取れないまま、質問するのもあきらめ ている私に「アポロシアター!」と叫ぶ声。窓の外を見 ると、確かにアポロシアターだ。じゃあ、ここってハー レム?さっぱりわからないまま、今度は橋を渡って郊外 に向かって走っている。「ヤンキースタジアム!」 わかった!NYめぐりを私達のためにしてくれているん だ。体はくたくただったが、ジャッキーの親切をありが たく思い、車の中からたっぷり市内観光をしてブルック リンに戻った頃には夜がしらじらと明けていた。(つづく)


NYものがたり3[NYふたたび]

2016年09月08日 | 
<NY再び>

ボーン!正午の合図と共にフォートアダムスの砦から大砲の 音が響き渡った。世界中から集まってきた25艇のヨットが大勢 の見守る中、蒼い空の下で元気にスタート。私達は多田さんの ヨットが白い小さな点になって見えなくなるまで、いつまでも いつまでも海を眺めていた。まさか、これが多田さんとの最後 の別れになるなんて夢にも思わずに・・・。

多田雄幸は自ら設計し仲間と造ったヨットでレースの3か月前 の1990年5月19日、清水港を出航。清水では出航記念パーティが盛大に行われていた。


なんと、大儀見元ちゃんのお父様はヨット界の重鎮でした。ご挨拶のもよう。

「3か月かけてニューポー トに行くのなんて、世界一周するのに較べれば準備運動のよう なもんです。じゃあ、NYで8月に会いましょう。」約束通り私 達の旅費をポンと出してくれた多田さんに感謝しつつNYで初ラ イブの準備にさっそくとりかかった。まずはメンバー選び。そ の頃から大好きだったパーカッショニスト、ヤヒロ・トモヒロ にこの話をすると、彼もNYは初めてだった為、面白そうだね、 と一緒に行く事に決定。


8月のNYはすっかり秋の気配が漂っていた。3週間後に控え たマンハッタンデビューライブの為にラジオ、テレビ出演とた くさんの宣伝活動を行った。

中でも楽しかったのは、セントラ ルパークでのストリートライブだ。この時もやはり黒山のひと だかりができ「一体お前たちはどこの国から来たんだい?」 「いつライブがあるの?絶対行くよ。」など質問攻め。NYに 向かう成田のバスの中で「パスポートプリ ーズ」と日本の検査 官に言われたくらい日本人離れしている(?)ヤヒロ君は、プエル トリカンの男が話しかけてくると、カナリア諸島で育った血が 騒ぐのかスペイン語でぺらぺらと応酬、日本にいるときとは全 く別人。「誰も俺達の事を日本人だ、って信じないよ。」 そりゃ、あんたのせいだよと思いつつ、あっという間に稼いだ $200で中華街に繰り出しロブスターを買い込み、友人たちと大 宴会。近所のスーパーでも「へーイ、アミーゴ」と声かけられ バナナまでもらっているヤヒロ君はどうみてもプエルトリコ人 だった。NYでは英語が喋れるより、スペイン語を話せるほうが 何かと便利なようだ。




<N Yライブ初日@ザンジバル&グリル>

いよいよNYライブ初日だ。<ザンジバー&グリル>という比較的 新しいクラブはアップタウンにあり、ギル・エバンスオーケストラ のメンバーが毎週出演している白人客の集まるスノッブな店。心配 された客入りも日本人や西海岸からの観光客でほぼ満席。1ステー ジが快調に終わると、多田さんが「遅れちゃってすみません。」と 頭をかきながらやって来た。





ニューポートでレースの準備に追われ る中、3時間もかけて車で駆け付けてくれたのだ。「私達の大切な 友人、多田雄幸さんです。彼は偉大なるヨットマンで今回、私達の スポンサーです。」暖かい拍手を受けて、横縞のTシャツにアポロ キャップをかぶった多田さんは恥ずかしそうに帽子をとってペコっ とおじぎをした。もちろん2ステージの1曲目は多田さんの大好きな『BlueMonk』。緊張と興奮、あっという間のライブだった。




観客席には写真家の柳ゆきおさん、酒井真知江さん、多田さん。

多田さんはヤヒロ君の借りているアパートで一晩過ごす 事になり、一足先に帰って行った。片付けも終わり、ザン ジバーの扉を開けると小雨が降っていた。タクシーをつか まえようと手をあげた瞬間、目の前に1台のイエローキャ ブが現れ、なんていいタイミングだろうと喜んでいる間に 黒人のドライバーは車から降りて私達の楽器を何も言わな いのにせっせと積み込み始めている。助手席に私が座り、 後ろにベースを支えながら利樹が座ると小雨の降るNYを ダウンタウンに向けて勢い良く走り出した。

よほどジャズが好きなのだろう、やたらに話しかけ「サ チ、サチ」を連発しているが、彼の英語は南部訛が強くて さっぱり私には聞き取れない。よく見るとタクシーのメー ターを倒していない。サチなんて慣れなれしく私の名前を 呼んでいるけど、この人、ザンジバーのポスターを見て私 の名前を覚えたんだわ、怪し気なタクシーにつかまったけ ど大丈夫かなあ...心配になってきたその時、料金メー ターの横にあった運転手のネームプレートが目に止まった。 <ジャッキー・ポウル・クルエル>もしかしてあの・・・ 「 ジ ャ ッ キ ー ? 」 「イェス、イエス、アイムジャッキー!」 半信半疑の私に手紙やテープを運転席から取り出してみせ てくれた。詩人かと思えるようなあの手紙からは全く想像 つかない、オクラホマ出身の大柄な黒人。年令はおそらく 60くらいだろう、コウベ、ヨコハマ、サセボという単語か ら海軍に所属して日本にも来た事があるらしいという事が なんとか理解できた。



「明日のニッティングファクトリーのライブには友人と一 緒に聴きに行くよ。入りの時間は何時?楽器運ぶのを手伝 うから。」ジャッキーはザンジバーで私達の演奏が終わる のを待っていてくれ、ブルックリンの友人の家に送ってく れたのだ。もちろんタクシー代金を受け取ろうとはしな かった。翌日も約束の時間にジャッキーはイエローキャブ で現れ、ニッティングファクトリーに楽器を運び込むとこ ろまで手伝うと「じゃあ、9時頃には必ず行くから。」 さっさとタクシーに戻りダウンタウンへ消えて行った。自 分の生活で精一杯のニューヨーカーたちばかりの中でこん な神様のような黒人に出会えるなんて、ジャッキーの喋る言 葉がもっと理解できたら...英語力のなさがはがゆかった。(つづく)

写真提供/Yukio Yanagi

NYものがたり2[Straight to the core]

2016年09月07日 | 
<ストレート・トゥ・ザ・コア>

その年の秋、私は音楽上のパートナーであった永田利樹 と結婚し、すぐその足で、NYへ向かった。ハネムーンに かこつけて3週間マンハッタンに行き、2枚目のアルバム を完成させる目的もあり、NYで沢山のミュージシャン達 に出会って、来年、多田さんの為にもライブがやれるよう にしなくちゃ、等々・・・期待と夢で一杯の旅行だった。

トランぺッターのレオ・スミスとのレコーディングを無 事に終え、マンハッタンの厳しい寒さの中でほっとすると 同時に残りの1週間をどうやって過ごそうかと考えていた。 楽器はあるが演奏する場所を知らない、どうしたらミュー ジシャン達と知り合えるのだろう、来年の夏にライブを行 う為になんとかチャンスをつくらないと・・・ただあせり ばかりが先行して、私達は羽を奪われた鳥のように情けな い気持ちになっていた。そんな時にブルックリンに住んで いたドラムの本田さんが「暇なら、ストリートでもやらな い?」と声をかけてくれたのだ。『ストリートミュージ シャン』というものを一度経験してみたかった私達はさっ そくマンハッタンの地下鉄へとくり出した。



春や夏なら本当にストリートで演奏する事は可能だが NYの11月はかなり寒く、当然地下鉄の中がオアシスになる。ホームレス(浮浪者)とストリートミュージシャンで 溢れかえる地下鉄の構内で、一番困難な事は『場所探し』 であった。パーミット(許可証)もなく、人の大勢集まる 場所で、おまわりさんに怒られない場所・・・こうなると 経験豊かな本田さんに頼るしかない。彼は颯爽とドラム セットをひきずりながら、私達をコロンバスサークルの A列車のホームへ案内してくれた。

初めて大勢のアメリカ人の前で自分達の音楽を聴かせるチャン スだ。どんな反応が返ってくるのだろうか。ヨーロッパのフェス ティバルで演奏した時のようにうまくいくだろうか。ジャズの 本場で演奏する事は、やはりとてつもなく勇気のいる事だった。 恥ずかしさと期待で複雑な思いのまま、恐る恐る吹き出したメロ ディは『Blue Monk』。日本にいる多田さんがニコニコ笑っている 姿が浮かんで勇気が湧いて来た。普段のように楽しんで演奏すれ ばいいんだ、と自分に言い聞かせながらソロを吹き終わって目を 開けると、われんばかりの拍手。いつのまにか黒山のひとだかり ができていた。次々に$1札を入れに来て、みんなが話しかけて くる。「いつも何処のライブハウスに出ているの?」「レコード ありますか?」「ネームカード(名刺)ちょうだい。」「A列車 で行こう、を演奏してくれない?」等々。中にはやっとの思いで 稼いだ小銭の入った紙コップを「Oh! Unbeliebable!(信じられな い)」と言って全部投げ込んでしまうホームレスの黒人、お金が ないから持っていた花を入れてくれるホームレスのおじいさん、 『許可証』をあげるから来月オーディションを受けなさい、とわ ざわざ教えてくれる警官etc....


昨日まで殆ど観光客に過ぎなかった私達がストリートをやっ た途端、マンハッタンのどろどろしたエネルギーの中心(コ ア)に入り込んでしまったのだ。この日から、音楽関係者、TV プロデューサー、弁護士、新聞記者、ホームレス、警官、と多 くの人たちに声をかけられ、名刺も飛ぶようになくなり、来年 のライブハウス出演も決まり、クリスマスの1週間前、興奮さめ やらぬままNYを後にした。

帰国して、タイトルを『Straight to the core(コアにまっしぐら)』として完成した2枚目のア ルバムはTBMから発売が決まった。そんな中、1通のクリスマ スカードを添えた分厚い手紙が私のもとに届いた。

『あなた方のいなくなったコロンバスサークルは火の消えた ような寂しさです。あなたたちの演奏が、クリスマスで華やぐ このNYの雑踏で聴こえていればどんなに素敵な事でしょう。次 に来る予定はありますか?必ずNYに戻って来て下さい。』とい う美しいメッセージが延々と綴られた、詩のような手紙を書く この人は一体どんな人だろう?いろいろと想像しながら私と< ジャッキー・ポール・クルエル>の交流(文通)がこの日から 始まった。


「ヨットがやっと完成しました。」多田さんから連絡が入っ たのは12月が慌ただしく過ぎようとしていた頃だった。NYでの 成果を報告すると、多田さんも大喜びで「よおし、来年はマン ハッタンでライブだね。必ずスポンサーを見つけて成功させましょう。」「ニューポートで多田さんの為にブルーモンク吹 いて見送ります!」約束を交わす私達にとって、翌年のアメリ カ行きは大きな意味を持っていた。遂に8月のライブの日程が 決まった事を告げると、『おめでとう、あなた方の音楽が聴け るのを楽しみにしています。』とジャッキーからの返事にNY への期待は益々膨らむばかりだった。 (つづく)

写真提供/Yukio Yanagi


Straight to the core (ちなみに1枚目はレコード盤「Free Fight」)