ART COMMUNICATION IN SHIMANE みるみるの会の活動報告

島根の美術教育関係者が集まって立ち上げた対話型鑑賞の普及に努める「みるみるの会」の活動情報をお知らせするブログです。

昨今の鑑賞教育について考えました

2014-02-03 22:07:15 | 対話型鑑賞
全くの私見であるが、公立中学校美術教諭という文部科学省(以下文科省とする)学習指導要領下で教科指導を行わなければならない身の上であるという枠組みも踏まえつつの見解である。

作品を参加者がみながら会話を進めていく鑑賞法がある。この鑑賞の仕方を「対話型鑑賞」や「対話式鑑賞」、「対話による鑑賞」等と呼ぶ。参加者の発言をつなぎながら鑑賞が進むので、言語活動の充実にもつながるとみなされている。現代の若者に欠けているとされるコミュニケーション能力の伸長にも一役買えるのではないかという淡い期待もあるように感じる。

このスタイルの鑑賞法は明治以降の学校教育の中で実践されたという例もあると聞くが、大々的に取り上げられたのは、アメリア・アレナスが日本の美術館で「なぜ、これがアートなの?」を実践して以降なのではないかと思う。アメリアはキュレーターとして、また、美術館の教育普及員としてアメリカを拠点に活躍し、MOMAが自館の来館者に対して教育普及を目的として開発したVTCの理解者として日本に来日した。彼女の実践が美術館をフィールドとしたものだったので、日本の美術館学芸員がこの鑑賞スタイルにいち早く反応したのではないかと思う。その頃の学習指導要領では、自国の文化・伝統を誇りに思い、将来にわたって愛好する心情を養うを旨とした文言が謳われ、美術教育と美術館との連携を示唆し、積極的に行われることが期待された。
日本の美術館が従来からある企画展の企画に上乗せする形でより多くの集客を見込むために、開かれた美術館として普及活動にも力点が置かれるようになってきたのは世界的な枠組みの中で当然の流れとしてあったと考える。一般来館者を増やすこと、リピーターを増やすこと、公的美術館が財政的に困窮する中で生き残っていくためには、公共のもの(施設)としてのサービスを、広く一般の人々に開かれた存在としてのイメージを戦略的に打ち出す必要がその時代にはあった。その枠組みの中で、会話を用いての鑑賞は、かつての日本にはないスタイルであり、作品に関する知識を何も持っていなくても参加できるというコンセプトが画期的なものとして迎えられたのではないかと捉えている。鑑賞と言うとなにか格式ばっていて、美術の知識がなければみることも語ることもできない敷居の高いものとイメージされ、教育者ですら、迂闊に足を踏み入れられないような禁忌な領域として捉えられていたように思う。今でも小学校の先生方にとって、図工の鑑賞は「何をどう取り扱えばいいのか?」という困惑のフィールドであると感じられる。
しかし、教育現場で観点別評価が実施され、図工・美術では「鑑賞の能力」が独立した観点として扱われることとなり、鑑賞活動の必要性が一気に高まった。そして、あの手この手の鑑賞法がここ10年くらいの間にこれでもかというほどに提案されたのではないかと感じている。そこに、文科省の提言する「言語活動の充実」も盛り込まれ、グループワークやグループディスカッションを中心とする鑑賞活動の一派として「作品を参加者がみながら会話を進めていく鑑賞法」も広がりを見せた。
この「作品を参加者がみながら会話を進めていく鑑賞法」も上記に上げたような様々な呼称があり特定されないが、スタイルとしては「作品(芸術作品)をみて、参加者が感じ、考えたことを、ナビゲーターとか、ファシリテーターと呼ばれる進行役を介しながら、相互に話し合い、個々人が個々人の作品解釈を進めていく」というものである。作品は本物の場合もあれば、スクリーンに投影された画像であったりもする。教育現場で取り入れやすかったのは、本物を見せなくても、スクリーンに拡大投影された画像でよかったことにも起因するかもしれない。また、インターネットの普及により、画質の良い画像が簡便に入手でき、拡大投影することで、多人数の参加者が同時に同じものを同じ条件でみることができるのも教師にとっては魅力であった。日本にこのスタイルが導入され、広がりを見せるのは教育現場にICTが加速的に普及したことも見逃すことができない要因と思う。
さて、この「作品を参加者がみながら会話を進めていく鑑賞法」は過去の日本の教育現場で実践していた教育者もいると聞くが、大きく動きを見せるのは、やはりアメリア来日以降であると言えるのではないか?そして、そのスタイルの源流はVTCであり、後日VTSとも称される手法であると考える。しかし、日本で呼称が特定できないようにこの鑑賞スタイルもまた、特定されたマニュアルのあるものではないと捉えている。開発されたのはアメリカで、アメリカで確立されたが、それがそのまま日本の現場に応用できるものではなく、日本的にアレンジされ、変化を遂げていると感じる。
アメリアは、この活動の最初に What’s going on ? と訊く。しかし、この発句に最適な日本語訳は何かを議論したことがある。直訳すれば「何が起こっているでしょう?」だ。しかし、作品をじっくりとみた後に、日本人に向かって「何が起こっているでしょう?」と訊いた場面を想像してほしい。訊かれた日本人は何を応えればいいのか戸惑ってしまうのではないだろうか?「何が見えますか?」と、問うのがよいのではないか?という意見も出た。確かに、みえているものを言うのは簡単だ。でも、みえている物だけを言うのがこの鑑賞ではないとすると、この発句も最適とは言えない。何が最適な発句なのか?最終的な議論の決着点は、「実践者が決める」である。この場のナビゲーター(またはファシリテーター)が、場の参加者を見て発句を決めればいいのではないかということである。私は、教育現場で行うときには、みる前に「よくみて、考えて、みて。」と促し、み終って発言を求める時には「何でも、誰からでも、どうぞ。」としか言わない。それでも幼稚園児も小学生も、中学生、高校生、大学生、社会人も「はい。」と手を挙げて話し始めることができる。発句は特に必要ないと感じている。ここでもすでにスタイルの変更がある。
また、VTS(私はVTCのレクチャーは受けていない。VTSは受講した)では、作品に関する「情報は与えない」こととなっているが、京都造形芸術大学のACOPでは、情報も必要に応じて与えるスタイルを取っている。この実践に参加し、参観したが、情報を与えることで作品に関する読み取りが深まり、核心に迫ることができると感じ、自分の実践でも「情報」を提供するようにしている。ここにもスタイルの変更というか修正がみられる。
私は1年間にわたってVTSのセミナーを受講することで、このVTSの根幹を成すものや目ざしたものを垣間見ることができた。でも、そのスタイルを踏襲しなくては教育的な意義は無いのかと問われたら、「NO」と答える。スタイルはあくまでスタイルであり、国や社会情勢や参加者や参加者の立場や場面が変われば、スタイルを変えてもよいのではないかと思う。「こうでなければならない」という枠組みが足枷になるような鑑賞ではそもそもないはずなのではないか。芸術作品に、専門的な知識がなくても触れられ、関心を持ち、味わうことができることを目的としてそもそも始まったのではないか。MOMAがあの手この手でギャラリートークやレクチャーを行っても来館者に継続的な教育的価値が見いだせなかったときに、どうすれば鑑賞者が作品について関心を持ち、後になっても影響を残すことのできる鑑賞はないものかと苦心の末に見出した手法である。私はこの手法は素晴らしいと思う。だから、幼稚園児でも小学生でも、中学生でも鑑賞できる。確かに、読み取りに誤りがあることもある。ベン・シャーンの解放を東日本大震災直後に鑑賞させたときには、ほとんどの生徒が「震災で、津波が来た後」と話す。でも、冷静で客観的な判断のできる生徒は「戦争で爆撃された街で、子どもが遊具で遊んでいる」と話す。「震災で、津波が来た後」という読み取りは確かに間違いである。この作品の来歴からすると・・・。でも、作品の情報を全く与えられていない生徒が、しかし、この作品から何が起きたにせよ「悲惨な状況である」ことを読み取ることは間違っていない。それでよいとは言わないが、そこが入り口であると考えればよいのではないか。子どもは育っていくのである。中学生の時にみた「解放」は実は「震災のあと」ではなく「大戦から解放され、平和が訪れた。」という戦争に反対し平和を希求したベン・シャーンという日本にも少なからず縁のある作家の描いた作品であることにいつか到達すればよいのではないか。「いつか」その「いつか」が、いつなのかわからないような教育はしてはならないのだろうか。
実践を通して感じたことがある。MOMAが苦心して開発したカリキュラムであることを証明するような出来事である。私は、校下の幼稚園と小学校でこの鑑賞の実践を2年間にわたって行っているが、園児も小学生も「みた作品」を「忘れない」ということだ。これは将来にわたって美術を愛好する心情をすでに育てていることになるのではないか。また、「三つ子の魂百まで」と言うが、この鑑賞で作品をみせることが、その子の人生にどれだけの影響を与えるかを考える。だから、作品は選ばねばならない。VTSではどんな作品でも実践は可能だと言う。しかし、教育現場でみせられる作品は限られている。厳選し、みる価値のある(みせる価値のある=ねらいのある)作品をみせなければならないだろう。この時に、みせる価値のある作品と言う側面において、どこに価値を置くのかと言うことが問題になる。美術教育の年間指導計画の位置づけの中で鑑賞を行う意義と意味を見出さなければならないが、表現と鑑賞を繋げない、独立した鑑賞を行う際の鑑賞の価値をどこに置くのかということは課題である。なぜこの作品をこの時期にみせるのか?ということが価値づけられていなければ、学習指導要領の範から漏れてしまうだろう。その価値が、美術教育の目ざす価値なのか、道徳的な価値をも内包するものなのかも整理しなければならないだろう。しかし、教育の総体を全人教育とするなら美術科における鑑賞教育は美術科という教科の狭義の範を超えて全人教育の一端を担うものとして存在すると訴えたい。
作品を参加者がみながら会話を進めていく鑑賞法。この鑑賞の仕方を「対話型鑑賞」や「対話式鑑賞」、「対話による鑑賞」等と呼ぶが、呼称が定まっていないように、この鑑賞法のスタイルにマニュアルはない。実践者(教師)が対象者の作品に対する読み取りが深まるスタイルを確立すればよいのではないかと考える。いや、確立することも難しいかも知れない。なぜなら、作品に対してより深い読み取りを促す手法は、人と場と時によって変化するだろうから、その変化に柔軟に対応できるスキルを持ち合わせることが重要だと言える。日々更新である。そして更新するためには実践しかない。そして、この実践は余りある喜びを私たちにもたらす。
この鑑賞法の源流はどこであるのか、そして現在のありようはどうなのかはさほど重要なことではないように思う。そして、鑑賞自体をどのように進めるのか、情報は与えるのか、与えないのか、そのことも、この方法を現場で活用する教師が自ら考え、ともに学ぶ生徒との間に築けばよいのではないか?「かくあらねばならない」という枠組みをこの鑑賞法自体が超えていると思う。なぜなら、この鑑賞法の基本コンセプトが「正解はない」だからだ。方法論にすら「正解は存在しない」のではないだろうか。「かくあらねばならない」という形式を与えられてしまった瞬間に型は型にはまり、形骸化し変化を拒む。それでは激変する社会の変容に適応する日本人は育てられないのではないか。
作品を前に自由に語り合える場を提供し、各々の声をつなぐこと。私たちのできることはその場を提供することだ。周到な準備をし、みせる作品を選び、おそらく語り合われるであろう会話を想定し、しかし、その想定にとらわれることなく、参加者の声に耳を傾ける。それができれば、この鑑賞法は多くの実りをもたらす。生徒は語り、綴る。そして最後にこう結ぶ。「みんなと一緒に作品をみて話し、考えることはとても楽しかった。もっともっと、話したいことがあった。また、やりたい。」これだけで作品をみせた(鑑賞させた)価値は十分にあると考えるが、ここに評価を加えければならないのが教師の務めなのである。この評価をめぐっては様々な方法が披露されるであろう。また、評価が困難と思わせることからこの鑑賞法を敬遠する方もいるだろう。私は仲間と協力し、評価に関する一定の手法を用いている。このことについてはまた触れることにしたい。
最後に、子どもは素晴らしい存在である。私たちの予想を超えた反応をする。子どもを子どもと侮ってはいけない。子どもの無限の創造性を如何に拓くかが、私たち美術教師に課せられた命題であることを胸に刻んで終わりにしたい。

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