
再読する度に彼の生き方に共感し、心を打たれます。
古代中国の戦国時代を生きた楽毅は魅力的な英雄でありながら
悲惨な末路を辿ります。上司に恵まれない、有能なサラリーマンって感じでしょうか。
大国に囲まれた小国・中山に宰相の嫡子として生まれましたが、忠誠を尽くし
努力したものの 中山国は滅亡してしまいます。
中山は元々諸侯だったのですが、君主が王を称してから自滅していくのです。
外交に疎い中山はただでさえ孤立している上に君主のつまらぬ欲望に滅亡していく。
作中に出てくる楽毅の語録は涙ものです。
楽毅父子の最後の対話シーン
「父上は王に降伏をお勧めになったことはありませんか。または、王が趙に降伏する
と仰せになったことはありませんか」
「ない。いちどもない」
りきむことなく父はいった。
「そうですか。中山は、王も宰相も降伏するよりも死を望み、群臣はその意向に
異をとなえず、独力で大国の侵略をしりぞけようとする」
「毅よ、なにがいいたい」
「信じられぬ、と申すほかありません」
信じられぬほど立派であるといいたいところであるが、信じられぬほど愚劣であると
楽毅はいいたい。昨年、趙に大勝した時点で、中山は外交において活路をさぐるべき
であったのに、それをせず、戦勝を祝賀するばかりで、自国の強さを信じ、趙をあなどった。
大国趙に攻められる前、呼沱水に近い塞にこもって大軍を迎え撃つ準備を
行っているときの場面。
新しい砦の完成後、郊昔は山径に柵やしかけを設けはじめた。それをぼんやりとながめている楽乗を、いきなり楽毅は鞭で打った。
「良将は、晴天に嵐を想うものだ」
と、叱呵した。
―王尚がおられる扶柳の城が落ちれば、何のための呼沱の砦か。
と楽乗はぼんやり考えていたのであろう。
まえをみすぎれば足もとがおろそかになる。足もとをみすぎればまえがおろそかになる。人の歩行はむずかしい。目的がなければ努力をしつづけにくい。が、人が目的をうしなったときに、目的をつくるというのが、才能というものではないか。平穏無事を多数とともに満喫しているようでは、急変の際に対応できず、人の生命と財産を守りぬけず、そのためにはつねに戦時をおもい、襲ってくる困難をあらゆる角度で想定し、つぎつぎに対処してゆかねばならぬはずである。いわば人の大小、賢愚、吉凶は、平穏な日々、不遇な時のすごしかたによってさだまるといっても過言ではない。
楽乗が一兵士として一生を終えるというのであれば、楽毅は何もいわぬが、良将に育てたいというおもいがあるため、叱声をくだした。