「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」という諺があります。
意味は、羹つまり熱い煮物で舌を火傷してしまったことに懲りて、膾つまり冷たい酢の物をフーフー吹いて冷まして食べようとすることで、一度失敗したことに懲りて用心しすぎることの例えだそうです。
ほかでもない、木曜の朝のテレビ番組、「羽鳥慎一モーニングショー」を見ていて頭に浮かんだのはこの諺でした。
その日、キャスターの一人の玉川徹は、なぜ日本でPCR検査は増えないのかという疑問を調べるべく、その答えの一つを取材していました。
私もPCR検査が増えないこと、増やそうという姿勢が為政者に全く見られないことに疑問を感じていたので、興味を持って観ました。
取材に答えた人は国のコロナ分科会の経済面でのメンバーである経済学者の小林慶一郎氏でした。(以下敬称略)
小林慶一郎はコロナ禍の元、同時に経済を回すには広範囲なPCR検査が不可欠という立場です。
要するに経済活動優先か、活動を自粛して感染抑止かという2項対立で考えるのではなく、広範囲に検査し、陽性者を隔離した上で陰性者で経済を回していくという考えです。
私もその考えには賛成で、話題になっているGoToキャンペーンも、安心感抜きにキャンペーンを行っても、陽性者が多い都市部では、まともな人が旅行に行くとは思えません。
そんなこと構わない、旅行に行くという人は注意していない人であり、そんな人が旅行に行っても地方で歓迎されるとも思えませんし、結果的にコロナを広めることにもなりかねません。
陽性者が多い都市部の人が旅行に行く際にはPCR検査を行って、少数の陽性者はそのまま隔離し、陰性者のみ旅行に行けば地方も安心で、誰も文句は言わないと思うのです。
どうせ多額の費用をかけるのなら、そういう検査に必要経費として費用をかけても良いと考えます。
GoToキャンペーンは一つの例で、他には被災地にボランティアに行く場合、行く人はPCR検査で陰性を確認してから行く、ビジネスや親族の冠婚葬祭等で地方に行く場合も同様にすることができる筈なのです。
そうすれば皆安心なのです。
ではなぜそうしないのか。
そもそも新宿で多数の感染者が出てきた時点で、なぜその地域限定でPCR検査を網羅的に行わなかったのか、それが分からなかったのです。
小林慶一郎は分科会のメンバーとなって気づいたこととして以下のように答えていました。
感染症に関しては、日本にはずっと以前から厚生労働省の医系技官や国立感染症研究所などの人達を中心とした専門家のコミュニティーがあり、彼らが何よりも気にしているのは、人を隔離することによる人権侵害なのだそうです。
その理由は長年のハンセン病を巡る施策でした。
ハンセン病は1950年代には有効な薬が登場し完治する疾病になっていましたが、日本の場合、「らい予防法」によって隔離政策が1996年まで続いていたのでした。
日本では、すでに隔離する理由が無くなっていたハンセン病に対する恐怖から、当時の世界の潮流に逆らっても強制隔離し、患者に対し断種や堕胎まで行っていた重大な人権侵害の歴史があったわけです。
この事実が感染症のコミュニティーにいる専門家の人々のトラウマになっているらしいのです。
もちろん彼らだって、人に感染させる高いリスクのある重大な感染症に罹っている人達を隔離しなくてはならないことは誰よりも承知しています。
しかしPCR検査の場合、中国のデータによると0.003%の擬陽性が存在してしまうのだそうです。
つまり本当は陰性なのに陽性と判断されてしまう人達がいるわけです。
すると、たとえどんなに少数であっても、隔離する必要のない人を隔離することは絶対に避けなければならないと彼らは考えるようです。
それが、はなから広範囲なPCR検査を彼らが考えない理由なのだそうです。
その発想が私には「羹に懲りて膾を吹く」という諺を思い出させたのです。
正直、私はそんなことが理由なんですかと、思わずのけ反りそうになりますが、もしそうやって擬陽性の人を隔離し、後に裁判で訴えられた場合、日本ではまず国は勝てないのだそうです。
たとえば麻疹の予防接種も、日本では強制ではありませんでした。
その為、欧米諸国から麻疹の輸出国として長い間非難されていても放置でした。
子宮頸がん予防の為のワクチンも、日本でも当初は積極的に接種が勧められていましたが、副反応が疑われるケースが出たことにより、他の先進諸国のような積極的な接種が行われていません。
つまり裁判で争えば負ける事柄については、他国では常識であっても日本では積極的ではないようなのです。
同様にPCR検査も、擬陽性の人を隔離してしまうので積極的に行う考えはないらしいのです。
小林慶一郎は、感染症のコミュニティーの人達が、隔離することに異常なまでにセンシティブになっていることを伝える一方、ではどうするかについては、国民がその問題について活発に議論することを提唱していました。
もちろん新型コロナウィルスのPCR検査についての議論であって、ハンセン病や、麻疹・子宮頸がん等の予防接種の議論ではありません。
擬陽性で隔離といっても10日間程度であり、PCR検査を行ったからといって副反応もありません。
私自身、擬陽性で10日間隔離されたとしても別に構いません。
但し、擬陽性だったと分かった場合、はっきりと擬陽性だったと告知してほしいとは思います。
働いている人にはその間の収入を保証することも必要だと思います。
逆に今のように広範囲なPCR検査を行わないで、陽性の人達が自由に動き回っている状態は、罹りたくない人達は自発的に引き籠るしかなく、何をするにも安心感は持てず、大変な不自由を強いられてしまいます。
結果的に経済を回そうと思っても回りません。
感染拡大も収まらず、医療もひっ迫し、死者も増え、治癒した人も後遺症で苦しみ、あらゆることが手詰まりな状態になるでしょう。
そういう状況が、有効なワクチンなり治療薬ができるまで続くことになります。
小林慶一郎は裁判員裁判制度を例にあげて一つの考え方を示していました。
裁判員裁判で裁判員に選ばれた人は、時間も拘束され、当該の裁判について考える労力も要求されますが、それも国民の義務として受け入れています。
同様に、擬陽性で隔離されることになった人も国民の義務として受け入れられないか、ということです。
PCR検査が日本では増えないという理由は、小林慶一郎が分科会のメンバーとして知っただけのことではない、何か別の理由もあるのかもしれません。
いずれにしろ、一部のコミュニティーの人だけで悩むのではなく、国民全体で議論し考える必要のあることだと思います。
何しろ、国民一人一人の健康や経済、大げさでなく日本の未来がかかっていることですから。
意味は、羹つまり熱い煮物で舌を火傷してしまったことに懲りて、膾つまり冷たい酢の物をフーフー吹いて冷まして食べようとすることで、一度失敗したことに懲りて用心しすぎることの例えだそうです。
ほかでもない、木曜の朝のテレビ番組、「羽鳥慎一モーニングショー」を見ていて頭に浮かんだのはこの諺でした。
その日、キャスターの一人の玉川徹は、なぜ日本でPCR検査は増えないのかという疑問を調べるべく、その答えの一つを取材していました。
私もPCR検査が増えないこと、増やそうという姿勢が為政者に全く見られないことに疑問を感じていたので、興味を持って観ました。
取材に答えた人は国のコロナ分科会の経済面でのメンバーである経済学者の小林慶一郎氏でした。(以下敬称略)
小林慶一郎はコロナ禍の元、同時に経済を回すには広範囲なPCR検査が不可欠という立場です。
要するに経済活動優先か、活動を自粛して感染抑止かという2項対立で考えるのではなく、広範囲に検査し、陽性者を隔離した上で陰性者で経済を回していくという考えです。
私もその考えには賛成で、話題になっているGoToキャンペーンも、安心感抜きにキャンペーンを行っても、陽性者が多い都市部では、まともな人が旅行に行くとは思えません。
そんなこと構わない、旅行に行くという人は注意していない人であり、そんな人が旅行に行っても地方で歓迎されるとも思えませんし、結果的にコロナを広めることにもなりかねません。
陽性者が多い都市部の人が旅行に行く際にはPCR検査を行って、少数の陽性者はそのまま隔離し、陰性者のみ旅行に行けば地方も安心で、誰も文句は言わないと思うのです。
どうせ多額の費用をかけるのなら、そういう検査に必要経費として費用をかけても良いと考えます。
GoToキャンペーンは一つの例で、他には被災地にボランティアに行く場合、行く人はPCR検査で陰性を確認してから行く、ビジネスや親族の冠婚葬祭等で地方に行く場合も同様にすることができる筈なのです。
そうすれば皆安心なのです。
ではなぜそうしないのか。
そもそも新宿で多数の感染者が出てきた時点で、なぜその地域限定でPCR検査を網羅的に行わなかったのか、それが分からなかったのです。
小林慶一郎は分科会のメンバーとなって気づいたこととして以下のように答えていました。
感染症に関しては、日本にはずっと以前から厚生労働省の医系技官や国立感染症研究所などの人達を中心とした専門家のコミュニティーがあり、彼らが何よりも気にしているのは、人を隔離することによる人権侵害なのだそうです。
その理由は長年のハンセン病を巡る施策でした。
ハンセン病は1950年代には有効な薬が登場し完治する疾病になっていましたが、日本の場合、「らい予防法」によって隔離政策が1996年まで続いていたのでした。
日本では、すでに隔離する理由が無くなっていたハンセン病に対する恐怖から、当時の世界の潮流に逆らっても強制隔離し、患者に対し断種や堕胎まで行っていた重大な人権侵害の歴史があったわけです。
この事実が感染症のコミュニティーにいる専門家の人々のトラウマになっているらしいのです。
もちろん彼らだって、人に感染させる高いリスクのある重大な感染症に罹っている人達を隔離しなくてはならないことは誰よりも承知しています。
しかしPCR検査の場合、中国のデータによると0.003%の擬陽性が存在してしまうのだそうです。
つまり本当は陰性なのに陽性と判断されてしまう人達がいるわけです。
すると、たとえどんなに少数であっても、隔離する必要のない人を隔離することは絶対に避けなければならないと彼らは考えるようです。
それが、はなから広範囲なPCR検査を彼らが考えない理由なのだそうです。
その発想が私には「羹に懲りて膾を吹く」という諺を思い出させたのです。
正直、私はそんなことが理由なんですかと、思わずのけ反りそうになりますが、もしそうやって擬陽性の人を隔離し、後に裁判で訴えられた場合、日本ではまず国は勝てないのだそうです。
たとえば麻疹の予防接種も、日本では強制ではありませんでした。
その為、欧米諸国から麻疹の輸出国として長い間非難されていても放置でした。
子宮頸がん予防の為のワクチンも、日本でも当初は積極的に接種が勧められていましたが、副反応が疑われるケースが出たことにより、他の先進諸国のような積極的な接種が行われていません。
つまり裁判で争えば負ける事柄については、他国では常識であっても日本では積極的ではないようなのです。
同様にPCR検査も、擬陽性の人を隔離してしまうので積極的に行う考えはないらしいのです。
小林慶一郎は、感染症のコミュニティーの人達が、隔離することに異常なまでにセンシティブになっていることを伝える一方、ではどうするかについては、国民がその問題について活発に議論することを提唱していました。
もちろん新型コロナウィルスのPCR検査についての議論であって、ハンセン病や、麻疹・子宮頸がん等の予防接種の議論ではありません。
擬陽性で隔離といっても10日間程度であり、PCR検査を行ったからといって副反応もありません。
私自身、擬陽性で10日間隔離されたとしても別に構いません。
但し、擬陽性だったと分かった場合、はっきりと擬陽性だったと告知してほしいとは思います。
働いている人にはその間の収入を保証することも必要だと思います。
逆に今のように広範囲なPCR検査を行わないで、陽性の人達が自由に動き回っている状態は、罹りたくない人達は自発的に引き籠るしかなく、何をするにも安心感は持てず、大変な不自由を強いられてしまいます。
結果的に経済を回そうと思っても回りません。
感染拡大も収まらず、医療もひっ迫し、死者も増え、治癒した人も後遺症で苦しみ、あらゆることが手詰まりな状態になるでしょう。
そういう状況が、有効なワクチンなり治療薬ができるまで続くことになります。
小林慶一郎は裁判員裁判制度を例にあげて一つの考え方を示していました。
裁判員裁判で裁判員に選ばれた人は、時間も拘束され、当該の裁判について考える労力も要求されますが、それも国民の義務として受け入れています。
同様に、擬陽性で隔離されることになった人も国民の義務として受け入れられないか、ということです。
PCR検査が日本では増えないという理由は、小林慶一郎が分科会のメンバーとして知っただけのことではない、何か別の理由もあるのかもしれません。
いずれにしろ、一部のコミュニティーの人だけで悩むのではなく、国民全体で議論し考える必要のあることだと思います。
何しろ、国民一人一人の健康や経済、大げさでなく日本の未来がかかっていることですから。