1953年3月5日に死去したソ連の最高指導者スターリンの盛大な国葬を映したドキュメンタリーだ。
135分に及ぶ記録映像は、ひたすら厳粛な葬儀の様子と国家の体制維持をはかろうとする党中央委員会のスピーチ、悲しみにくれる群衆の姿に終始する。
ソ連全土に流れる放送と各地で哀悼する労働者たち。
葬儀場には、国家の重鎮から中国共産党の幹部、群衆たちまでが怒涛のように押し寄せる。
ソ連の誇る音楽家たちは演奏し合唱し、
たくさんの画家たちが、永遠の眠りについたスターリンの姿をその場で描いていた。
見たこともない膨大な数の献花。その献花も祭壇も棺も国民が弔問につめかける階段もすべて赤。
美しいようでいて血生臭い感じがスターリンを象徴している。
保管されていた37時間もの膨大な記録フィルムからセルゲイ・ロズニツァが編集し2019年に公開された作品だが、
淡々としたカラー映像を時々モノクロにし、
葬送行進曲などの音楽を劇的に使っていて、
ソ連という国家、スターリンの人生、映し出される群衆の背景や生活、心情に思いを巡らす時間になった。
映像が終わり、最後に以下のようなクレジットが流れる(詳細正確でないが)。
ースターリン時代
二千七百万人以上を粛清、
数百万人の国民が飢餓に苦しんだ
その後のスターリン批判を受け
遺体は1961年にレーニン廊から撤去されたー
映像に捉えられた一人一人の民の悲しみも事実である。
皆、日々の暮らしの向上と平等な社会を願い、懸命に働き、スターリンを指導者と仰ぎ(大小不満があっても)、苦労に堪えてきたのだろう。
人は自分の苦労が報われると信じたいし、自分の生活を守ると言ってくれている政府を信じたい。
政権を選べないなら、そうでなければ人生そのものを否定することになるししんどすぎる。
セルゲイ・ロズニツァは、そうした盲目的な群衆こそが独裁体制を作っていくという示唆を「群衆」シリーズに託している。
『粛清裁判』は、スターリンによって捏造された罪で裁かれる者たちのドキュメンタリー映像。
セルゲイ・ロズニツァいわく
「フィルムの保管所には裁判のアーカイヴ映像とは別に、この時代に毎晩行われていた民衆によるデモの映像も保管されていました。それら映像には裁判にかけられている人々に対し「銃殺にしろ」と書いた横断幕を掲げ夜の街頭を練り歩く人々の姿が映っていました。この狂気じみた民衆と法廷を傍聴しながら無実の人間に死刑判決が出ると拍手喝采する人たちこそ、1930年のソビエトを象徴する群衆なのです。」
ソビエトだけではない。
古今東西、多くの民が繰り返してきたことだ。
有事に人は不寛容になりやすく、解決に向かう連帯(という風潮。それが本当に解決に向かう策かは別)を乱す者を攻撃する。それが正義と信じて。
コロナウィルスという未知の敵が現れたとき
どれだけの人が人を攻撃したかは記憶に新しい。
誹謗中傷から自殺に追い込まれる人もなくならない。
サイレント映画作品にも、そうした群衆がよく描かれているが、
時にはこうやって映画を観ることで、
壮大な歴史と自分の今いる位置や社会を俯瞰し自分の内面に問いかける時間って大切かも、と思う。