『わが戒めは是(これ)なり、
わが 汝(なんぢ)らを愛せしごとく 互いに相(あひ)愛せよ。
人 その友のために 己(おのれ)の生命(いのち)を棄(す)つる、
之(これ)より大(おほい)なる愛はなし。』
(新約聖書・ヨハネの福音書15章12節~13節,文語訳)
わが 汝(なんぢ)らを愛せしごとく 互いに相(あひ)愛せよ。
人 その友のために 己(おのれ)の生命(いのち)を棄(す)つる、
之(これ)より大(おほい)なる愛はなし。』
(新約聖書・ヨハネの福音書15章12節~13節,文語訳)
イエス・キリストが言ったことはいろいろある。
十字架にかかる前、お弟子さんたちに言ったことの一つにこんな()ことばがあった。
・・・私(イエス様ご自身)が貴方たちを愛したように、貴方たちもお互いに愛しなさいよ。
自分の命-一番大事なもの-を、友のために失うということ以上に、大きな愛はないよ。・・・
日常、友人や他人のためにいのちを棄てなければならない局面は、現代の日本において(ほぼ)無い。
約2000年前、こうおっしゃった方ご自身が、人々の身代わりとなった。
人々の罪の身代わりに、一度人として亡くなった。
人は、そのことを、十字架の贖(あがな)い、と言う。
そして、甦(よみがえ)った。
これらは、旧約聖書においてあらかじめ預言されていることだった。
…十字架の贖(あがな)い、なんぞ、後世のクリスチャンがこじつけたにすぎない、と思う人もいるだろうし、そもそも、それが本当かどうかわからない、と思う人もいるだろう。…
この信じられないこの事柄のために、人々はいのちをも捨て、伝えていった。信じるに値(あたい)すると思ったからだったろう。もし、ウソ八百であるなら、そんなことのために命を賭してまで守る必要はない。本当のこと、だ。
(と、私たちクリスチャンは言う。お分かりのことだろうと思うが、そこで論争しても意味がない。)
毎日曜日、私たちはキリストの十字架と復活を記念して(覚えて)、祈り、賛美し、パンを裂き(パンを一口大にして食べ)、ぶどう酒を飲む 1)。
その私たちに示してくださったキリストの大きな御愛に思いを馳せる。
たとえ、その場にいられなかったとしても。
『…また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さが
どれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知(じんち)をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。・・・
どうか、私たちのうちに働く力によって、
私たちの願うところ、
思うところのすべてを超えて
豊かに施(ほどこ)すことのできる方に、
教会により、またキリスト・イエスにより、
栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。』
(新約聖書・エペソ人への手紙3章17節~21節,新改訳)
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さが
どれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知(じんち)をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。・・・
どうか、私たちのうちに働く力によって、
私たちの願うところ、
思うところのすべてを超えて
豊かに施(ほどこ)すことのできる方に、
教会により、またキリスト・イエスにより、
栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。』
(新約聖書・エペソ人への手紙3章17節~21節,新改訳)
【注】
1)パンとぶどう酒:十字架にかかったキリストの身体を象徴して、パンを。
その身代わりのために流された血潮を象徴して、ぶどう酒を。
それぞれ一口ずつ食べたり飲んだりする。
象徴しているのではなく、パンとぶどう酒が、キリストの身体に変化するのだ、という方々もいるが、パンはパン。ぶどう酒はぶどう酒。