普通のおっさんの溜め息

戦前派から若い世代の人たちへの申し送りです。政治、社会、教育など批判だけでなく、「前向きの提案」も聞いて下さい。

スーパーマンを要求するのか、教員の免許更新制度

2006-08-01 15:31:49 | 教育問題

最近小、中学校の教員の免許更新が話題になっています。

それに関して「教えてgoo」の中でも時々講義が面白くないとか、先生が尊敬出来ないのが、学力低下や教育の荒廃の原因だと言う議論を見かけます。

<可哀相な先生>

私のブログを見ていただければ判る様に、私は教師や日教組に対して批判的な立場ですが、この問題については、先生方に同情しています。

<<何故授業がいつも面白くなければならなぬのか>>

講義を面白可笑しくやるのは確かにいいことと思いますが、授業の算数、国語、社会どれをとっても面白い題材ではありません。

仮に、タモリさんや神助さんを連れてきても、一年中生徒を飽きさせず、授業を進めるなど不可能に近いと思うし、今の先生方と同じように、授業を面白くするための準備に、物凄い労力で疲れ果てて仕舞うでしょう。

<面白くない授業もたまには必要だ>

考え方によっては、面白くない授業でも、我慢して聞かせ、99を自分自身の努力で覚えさせることも、今の生徒達の将来にとって、ずっと役立つこともあると思います。

<<スーパーマンを要求される先生>>

しかも、タモリさんも、神助さんも生徒達から尊敬される人にならなければならないのです。

面白くて、尊敬される人は一種のスーパーマンだと思います。

今の先生達が何故、普通の人、持っている知識を生徒に教える普通の技術を持っている人ではいけないのですか。

勿論、私の言う普通の人と言うのは、社会から爪弾きされないような品性や常識を持つ人のことで、この面から振るいにかける必要があるのは、致し方ないと思います。

<<今の授業に欠けているもの>>

しかし、今の初等教育に欠けているのは、授業の技術のでなくて、生徒の勉強の仕方を教えないことだと思います。

面白い授業という点で言えば、例えば九九を苦労して覚えたことの達成感や喜び、社会のことを学んだ知識を応用出来た時の喜びなどを生徒に教えることだと思います。

授業態度でいえば、授業中の集中力の大事さ、他の生徒の授業への集中妨げないこと、家での勉強の仕方、判らないときは、先生にどんどん質問すること、出来る生徒に他の生徒が聞いてきたら、喜んで教えてあげること、そのことが本人の勉強にもなることなどなどでしょう。

つまり、余り面白くない例えば算術の授業をいかに、自分から興味を持ちながら、面白い点を自分で見つける方法を教えることではないでしょうか。

<<免許更新の前にやらねばならぬ事>>

<教師希望者の教育>

免許の更新を考える前に、教師希望者が社会人として恥ずかしくない人の育成、つまり、現代社会の歪みから出てきた、昔なら考えられないような、例えば社会への適応性を養うとか、倫理観、我慢する力の養成、地域社会の一般的な知識、基本的な教養などなど、希望者の徹底的な教育が必要だと思います。

これらのことは、生徒の勉強の仕方のノウハウと同じに 、教員養成の大学で教えられるべきだと思います。

<躾け教育>

それと、面白い授業も大切ですが、今までの教育の荒廃の一つの大きな原因は、生徒達が甘やかされてきたことにあると思います。

躾けなどは本来家庭の責任ですが、父兄がそれまでも学校に頼ってきたこと現実も考えて、初等教育に躾け教育に重点を置いた、基本的な教育方針を考える必要があると思います。

特に小学校では、徹底的な躾け教育をすべきでしょう。

<<教育委員会の役割>>

これには、戦後の中途半端な教育を受けて来た父兄からの反発も予想されますが、教育委員会も、日教組全盛時代から引き継いできた、教師の管理だけてなく、教師の防波堤になるような方針の変換も必要だと思います。

例えば、生徒が明らかに非があるときに、教師が生徒を思う余りに、つい暴力を振るい、父兄が怒鳴り込んで来た場合、教師に対して適切な処置をするのは当然ですが、父兄に対しても、生徒の指導面での適切な助言を与えることです。

<<普通の先生でも指導出来る教育制度>>

このように,教員の免許更新制度を設ける前に、普通だけれど人として立派な先生が、普通程度の労力で、ある程度の成果を得られるような、現実に則した、そして長いスパンで考えた、教育制度やカリキュラムを考えるのが先決ではないでしょうか。


中学校教師への手紙(10)[私が見てきた教育荒廃の歴史]

2006-07-30 17:51:17 | 教育問題

学校内のいじめの問題が報道され始めたのは、いつごろか知りませんが、私は昔と違って、いじめの数が異常に増えた事、特に集団によるいじめ、やり方の陰湿ことに気づきました。

その頃のテレビの所謂コメンテーター達は、我々も若い時にもやったものだと言っていたが、その異常性について言う人は殆どいませんでした。

<<戦前のいじめ>>

地域差もあったかも知れないが、私の経験では、戦前の小学校や高等小学校(今の中学校)では、可なりの数の朝鮮の生徒たちや世の中から不当に扱われていた人達の子供もさえいたが、特に問題になるいじめなど殆どなかったと思います。
あったとしてもちょっとしたいたずら程度のもので性質もからっとしたものでした。

<<"教えてgoo"で見たいじめ>>

この投稿をする前に"教えてgoo"で、「いじめ」で検索してみると、なんと8817件も数が検索され、いかにいじめに悩む人が多いのを示していると思いました。

その回答の中から、いじめの理由、その対策、学校での対応を調べて見ました 。いじめの理由の内私が気付いたのは、次のような事です。(数字は複数回答)

<< いじめの原因>>

1.家庭の教育環境の悪化 (4)
例:親が子のいじめに対して鈍感 (1)
  子がいじめをして親に文句がきたとき謝ればすむと思っている (1)

2.自己中心的なな生徒 (15)
例:弱いものへ面白がっていじめる (5) 
  相手が気に食わない (5)          

3.自己防衛 (7)
例:自分がいじめの標的になるのを避けるため、弱いものをいじめる (3) 
  自信がないのでグループを作り、自分より優れた人をいじめる (2)

4.いじめられる側に問題あり (4)
例:グループについてこない(1)
  いじめしたほうが弱い立場になった (2)

5.恐喝などの犯罪的な目的 (2)

上の例から考えて見ますと、問題の根幹は、 前回の手紙に書きましたように

1.社会と家庭の教育環境が劣化

(1)世の中全体が優しく、子供に対して甘くなってきた。子供が叱られて物事の善悪を学ぶ機会が減った。

(2)他人に迷惑をかけない、思いやりなどの日本古来の良い伝統から失われ始めた。

(3)躾けなど本来家庭で行うべき仕事をおろそかにする家庭が増えてきた。

(4)個性の尊重と我が儘の区別がつかぬ、自由の限度が判らぬ父兄が増えてきた

(5)自分の権利を主張しても自分の責任や義務を忘れている父兄が増えてきた。

(6)女性の職場進出で家庭で子供を世話する時間が減ってきた。

(7)子供社会が同級生、同年代の間等、極端に小さくなった。

2.生徒の意識の変化

(1)何でも手に入り、自分の思う通りになるのを当然と思い、そうでないときに我慢出来ぬ生徒が増えてきた。

(2)自分の権利を主張しても自分の責任や義務を忘れている生徒が増えてきた。

(3)個性の尊重と我が儘の区別がつかぬ、自由の限度が判らぬ生徒が増えてきた

(4)人間としての本当の意味のプライド持つ人が減ってきた。

<<戦前のいじめの少なかった原因>>

特に今になって、私たちの少年時代の、いじめの少なかった一番大きな理由を考えて見ると次のような事あると思います。  

1.弱いものいじめをするのは卑怯だと考えられていた
特に集団で一人の生徒をいじめをするなど、人間の屑だと思われていた。

2.人から卑怯と思われたくないと言うプライドを小さいながらも皆持っていた

3.他人へのを思いやり、他人に迷惑をかけないと言う躾けが徹底していた

以上のことを考えてみますと、問題の根幹が深すぎて、今だに解決出来ないどころか、悪化しているような気がするのは当然のような気がします。

対策としては、地域、家、学校が協力して、特に小学校時代に、徹底した躾け教育を行い、特にに今までおろそかにされて来た、弱いものいじめは卑怯で人間として恥ずかしい事、他人への思いやりと他人への迷惑をかけないことを教え込むしかないと思います。

参照毎週日曜日,July 11,13,20 投稿、


中学校教師への手紙(10)[私が見てきた教育荒廃の歴史

2006-07-23 12:05:32 | 教育問題

<<子供の教育環境の劣化>>

小、中学校の問題ではいじめ→授業中の徘徊→学級崩壊→生徒による暴力や殺人など大きな問題が言われています。

この大きな問題について考える前に、戦前から昭和40~50年に渡って教育環境の変化について感じたことを書いて見たいと思います。

1.社会環境の変化

(1)世の中全体が優しく、子供に対して甘くなってきた。
学校で言えば生徒たちが明らかに間違ったことをしても、何かにつけて弁護する人が増えてきた。

戦前:子供が悪いことをすると、社会、学校、家庭で叱ってくれる人が多くいたので、善悪の区別や、行動の限度を自然に学ぶことができた。

(2)物事を公平に判断する能力が落ちて来た。
そのため物事(例えば学力低下やいじめの問題)の解決を遅らせることとなった。
マスコミの強者(教育関係で言えば文部省、教育委員会、校長)の批判はするが、弱者(とマスコミが思っている例えば教師、生徒、父兄)と一部特定団体(学校関係で言えば日教組)の責任、義務には殆ど触れない偏ったた報道姿勢は昔と余り変わらないと思うがテレビの普及とそれに登場するコメンテーター、解説者などで、影響力が格段に大きくなった。


戦前:軍国主義や忠君愛国的な教育や報道。

(3)人間としての本当の意味のプライド持つ人が減ってきた。
マスコミの権力者の追求や自虐的な報道に偏った姿勢。

戦前:首都圏の駅でごみ箱から新聞を漁るサラリーマン、援助交際をする子供や大人など殆どいなかった。

(4)他人に迷惑をかけない、物を大切にする、思いやりなどの日本古来の良い伝統から失われ始めた。
今は自分からその行動を規制する倫理感が乏しくなっている。

2.家庭環境の変化

(1)核家族化が進み若い両親の孤立化が増大した。

戦前:昔からの伝統や倫理観などが自然に伝えられた。

(2)女性の職場進出で家庭で子供を世話する時間が減ってきた。

戦前:学校から帰るといつも炊事選択で忙しくしている母親がいてくれた。

(3)躾けなど本来家庭で行うべき仕事をおろそかにする家庭が増えてきた。

戦前:家庭により程度の差をあるが、地域社会の批判などあり、今ほど放任するような家庭はなかった。

(4)少子化

戦前:兄弟姉妹や近所の子供の間で自然と社会性が養われていた。

(5)テレビ、インターネット等で教育上有害な情報に接する機会が多くなった。

戦前:子供にとってはラジオ、新聞と雑誌や単行本位しか情報源はなかった。有害な情報源は全くなかった。

3.父兄や生徒の意識の変化

(1)個性の尊重と我が儘の区別がつかぬ、自由の限度が判らぬ父兄や生徒が増えてきた。

戦前:日本古来の伝統的且つ仏教からくる倫理観があった。個性とか自由については殆ど無視された。

(2)自分の権利を主張しても自分の責任や義務を忘れている父兄や生徒が増えてきた。
父兄については戦争直後からの権利重視、義務責任の軽視または無視した教育の成果が出始めた。

戦前:国民の義務や責任について徹底した教育が行われていた。他人に迷惑をかけないという古来の教えが伝われてきた。

4.生徒の環境と意識の変化

(1)何でも手に入り、自分の思う通りになるのを当然と思い、そうでないときに我慢出来ぬ生徒が増えてきた。

戦前、戦後:物がないのが当たり前だったので、我慢することに慣れていた。

(2)いじめが増えた。特に集団によるいじめが増えた。
やり方が陰湿になってきた。

戦前:殆どなかった。あったとしてもいたずらに類するもので、からっとしていた。

(3)自分の面子を傷つけられたことで直ぐ切れる生徒が増えてきた。

昔は殆どそのような生徒はいなかった。教師や父兄などに暴力を振るう生徒はなかった。

(4)子供を巡る社会が同級生、同年代の間等、極端に小さくなった。

戦前:今で言えば高校生から幼稚園まで含む子供社会があり、地域の人との交流があった。

5.学校の変化

(1)学校や教師に対する信頼の程度が大幅に落ちてきた。

昔は家庭では学校や教師にほぼ絶対的な信頼を置いていた。学校や教師のレベルが今と殆ど変わらないか今のほうが上と思う。

(2)教師が労働者意識を持つようになった。

昔は先生は聖職者と呼ばれていた。

(3)教育関係者の一番のお得意さんであるべき生徒から精力と関心が離れることが多くなった。

1)文部省と教職員組合の関係のこじれ
2)マスコミや所謂人権弁護士とうの批判の増大により学校当局者が萎縮し、防衛に回る傾向が強くなった。

戦前:熱心な先生やそうでない人もいたが、少なくても、教師は生徒の方を向いておれば良かった。

(4)悪平等主義等特定の思想に基づく教育手法が出てきた。

戦前:学校も教師も同じ思想のもとで行われていた。もし違った思想を持つ人があれば警察、軍隊からの介入があった。

(5)先生の荷重が増えてきた。
これについては別の日に改めて報告します。

これらを総括的に見ますと、戦前の環境も全体主義(今では軍国主義と言われていますが、当時はこの使い方のほうが多かったようです)的の教育環境で良いとは言われませんが、子供に関する教育環境に限って言えば非常に悪化したように思います。

参照毎週日曜日,July 11,13,20 投稿、


これでいいのか中央教育審議会

2006-07-20 11:04:27 | 教育問題

「大学受験をやめよう」

7月13日のNHKで、青色発光ダイオードの発明者の中村修二さんの「大学受験をやめよう」と言う話がありました。

その概要は大学入学希望者は、全員無試験で入学させ、入学後の厳しい試験(大学の講義科目の)を行い、ついて行けないものは、例えば東大だったら、より低いクラスの大学に転学させるか、退学の道を選ばせるというものでした。

この方式の利点は、大学に入るまでは、猛勉強するが、一旦入れば単位を習得しさえすれば卒業できるので、遊んでしまい、結局は世の中に役立たない人を社会に送り込む問題点を解決することです。

先生はおそらく意識して暴論とも見えることを言って大学の教育制度の見直しを言ったものだと思います。

「日本の算数海外で人気」

それから7月19日の読売新聞で、「日本の算数海外で人気」と言う記事がありました。東京書籍の2000年判の「新しい算数」の英訳が米国などの国で教科書や副教材てして使われたり、先生への講習会や大学生の講義に使われているそうです。

ただこの英訳に携わった米国の大学の高橋教授は「評価されているのは小学校の算数でしかも、教科内容が3割も削減される以前の旧指導要領にのものだ」と指摘しているそうです。

この二つの報道を見て、私は改めて、日本の教育方針の基本方針を決める中央教育審議会のありかたについて考えて見ました。

<<大学の改革が教育改革の基本>>

教育改革で一番も始めに取り上げばならぬのは大学の教育改革です。

トコロテン式卒業システム
日本(世界?でも)の悪名の高い大学のトコロテン式の単位が揃いさえすれば卒業出来るシステム。

ベテラン教授のボス化
(私の乏しい経験からしても、ベテラン教授の意見に反することを専門誌に投稿をするときは、偽名を使わねばならぬと言う、新人教授の愚痴を聞いたこともあります。)

意欲のない講義。
(哲学の先生が、余りにもカント曰くとか、孔子曰くなど何度も言うので「先生のご意見はどうですか」と質問したいのを我慢していた記憶があります。)

高校生は大学への入学へ、中学生は高校、小学生の父兄は有名中学の入学に一番関心を持っています。

つまり、教育改革の基本とすべきは大学であり、それさえ確立すれば、後は自然と決まってくるのではないでしょうか。

中村先生の提言は極端過ぎると思いますが、確かに、中学から(一部の父兄にとっては小学校から)受験勉強のストレスが次第に増え、高校で最高潮に達し、社会への入り口である大学に入って学生がやっと勉強のストレスから解放されると言うのはいかにも不合理で、大学に入ってストレスが最大になるようにもって行くのが当然ではありませんか。

なお先生が言われるように、大学に入ってからも、まだ進路選択の余地を与えるというもの、充分考慮に値する提言だと思います。

(実は、大学卒業生の受け皿の企業、政府、公共団体の採用、育成方針も学校の教育方針決定に大きく関わっていると思いますがここでは省略します。)

<<初等教育の方針の朝令暮改>>

もう一つは初等教育の方針の朝令暮改です。

「学力中心の教育」→[学力不足の恒常化の現実]→「ゆとり教育」→「学力低下対策としての指導要領の変更」→「ゆとり教育をそのままにした英語教育の導入」と言う、方針のブレです。

これでは先生も生徒もたまったものではありません。
特にゆとり教育で時間がないと非難されているのに、何故英語教育を入れるのでしょうか。

ここで問題になるのは、「ゆとり教育」の基本理念の現実からの背離と思います。

1.今までの内容で100点満点で平均が60点しかとれないのなら、70点に目標を下げて、全員が満点の70点を取ることにしよう。もしそれ以上の能力のある生徒は自主的に勉強させよう。
(これはインターネットで見た元の東大総長で文部大臣であった方のご説明です。)

人的資源しかない日本が他国と伍して行くためには、他国より高度の技術(小中学校ではそれに必要な基礎知識)を持つしかない事実を抜きにしています。

人の特性として100満点の時、60点とる人は、仮に70点満点の時は50点で満足すると言う現実を無視しています。

それと教師が優秀な生徒により高度な内容を教える意欲があってもその余裕があるでしょうか。

選択肢の一つとして、先生、生徒が100満点を取る努力をすることはなかったのか。元の文部大臣の説明は全くの敗北主義ではないでしょうか。

前に書いた世界的に評価されている算数の教科書を無くし、それに基づく教育をしないのは、日本にとって大きな損失ではないでしょうか。

2.余裕の出来た時間は自分で課題を見つけ、自学自習する。

人は強制されなかったら自分で努力をしない。
生徒は厳しい入学試験があるから勉強している事を忘れては居ないでしょうか 。
大切な教育方針の決定の際このような分かりきった事実を無視して綺麗ごとで済ませていいのでしょうか。

多くの父兄が審議会の言う余裕時間を利用して、子供を塾に通わせている現実を見て下さい。

3.土曜日は地域や父兄の協力を受けて、自学自習させる。

地域社会、家庭の教育能力の低下の現実と、現役教師の参画の必要性を無視しているような気がします。
ゆとり教育の提言は、ある意味では教育関係者の教育の責任の転嫁、または放棄ではないでしょうか。

4.総合学習では、広範囲な知識や社会との関わりをもたせる。

広範囲な知識は得ても、自分の物にするには生徒は経験、知識が乏し過ぎると思います。その為、教師に増える荷重に比べて成果が余りにも少ない結果に終わっていると思います。  

<<審議会と教職員組合との考え方の調整不足または欠如>>

ゆとり教育は過去にも多くの例にあるように、表面には出ないが、教職員組合と文部省の確執の産物と言う一面があると思います。

と言うのは、昔一度だけ、テレビのゆとり教育の討論番組で日教組の教師が、ゆとり教育は我々の闘争の結果得た権利だと言ったのを聞いたことがあります。

以後このような場面で日教組が出たのを見た記憶はありませんが、ゆとり教育の一面を示しています。

そして、そのような考えを持つ教師がいるかも知れないのに、ゆとり教育に対する審議会と教師の考え方の調整のない限り、失敗を予言する(または実際にしている)ものと思います。
(多分、審議会の多くの委員の方がこの件に就いて、言いたくて言えないことがあると思いますが。)

若し仮に、多くの高校のように、土曜日に小、中学校の先生が、遅れた生徒に補習授業をしたり、地域の住民と協力して、ボランティア活動をしたりしたら、ゆとり教育の成果もそれなりに上がる筈だと思うのですが。

<<中央教育審議会の委員の方にお願い>>

1.世論や教職員組合の意見に惑わされず、大局的な見地から確固として振れない教育方針を出して下さい。

2.日本の将来のために長い眼で物を考えて下さい。

3.学校(特に大学)、地域社会、父兄の現状に眼をつぶらないで下さい。
そしてこうあるべきだと言う理想論でなく、現実を見据えて物事を決定をして下さい。

4.方針決定後の学校、地域社会や家庭の現状のフォローをしっかりお願いします。

参照:毎日曜日、July 11, 13投稿

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元中学校教師への手紙(9)[私が見てきた教育荒廃の歴史]

2006-07-16 07:10:56 | 教育問題

<<学力低下→落ちこぼれ>>

先生方にお願いこれからのことは主に新聞紙上で得た知識と私の想像で書いているので、間違った所とか、認識不足の所がありましたら、どうぞご遠慮なくアドバイス下さい。

<学力低下の問題の発生>

昭和40年ころから50年ころにかけて、学力の低下が問題になりました。そのころは日教祖が全盛の頃で、大会のニュースが新聞を賑わしていました。

最初に問題になったのは、中学校からの教師の報告で、中学校に入って来る生徒の中には、中学校で習うに必要な小学校の学力がないと言う事でした。

日教組の大会では他の労組のそれと違って、待遇改善や組合員の地位の向上だけの討議だけでなく教育問題にも踏み込んだ討議があると思っていました。

それで当然に中学校側からの小学校側に対する批判であり、それに対していかに具体的な対策が検討されると思っていましたが、それに対する報道は殆どありませんでした。

その後しばらくして、日教組から学級定員の縮小の意見が出たのが一般国民が知った唯一の対策でした。

これは良く考えて見ると、教師の荷重を減らすことであり、これが進んでは、ゆとり教育という名の、教師のゆとりの確保と言う勝利に繋がったようです。

つまり日教組大会での学力低下の討議は、具体的のにどうこうすると言うのでなく、文部省に対するアピールのためだけであり、教育問題の討議という名の教師の待遇改善しか見ていなかったような気がします。

6月11日の手紙に書きました様に、私の娘がその生徒達に学力不足の生徒に補習をしたい言う申し出を拒否されていたので、特にこのこの一連の報道が私の記憶に残っているのです。

実はこの手紙を書く前に、念の為に、”教えてgoo”で当時の小、中学校の関係者からの学力不足に対して取られた具体例を聞いたのですが、余りにも昔のことなので、回答が得られませんでした。

それで「落ちこぼれ、対策」「学力不足、対策」で検索し、気付いた所の質問と回答を見ました。具体的な対策は蔭山先生の本の紹介など僅かな例を除いて殆どありませんでした。

一番多かったのは、学力不足を補う為に塾に行かせるか否かの話でした。

中には教師自身がその子供を塾に行かせるか否か迷っている話とか、父兄の人が現役の教師から塾に行くよう勧められた話までありました。

この事から考えても、学校や教師それから文部省は本来のお客さんである生徒達やその父兄の人々のニーズに応えないまま、50年間もこの問題を放置し続けているような気がします。

このブログを見られた方にお願い教育現場で学力不足への具体的に対応された例がありましたら、是非コメントをお願いいたします

参照毎週日曜日,July 11, July 13 投稿、


「七十過ぎて中学校教師」の紹介

2006-07-13 09:52:16 | 教育問題

私の元勤めていた会社のOBの為の新聞に表記のような投稿がありましたのでその概要を報告します。

括弧の中に私が気づいた点に注記を入れてみました。

ゆとり教育で土曜日の授業がなくなり学力低下を心配した父母や元教師らが立ち上げた土曜教室で、無償で教えてくれる先生に応募した。

(私:この時学校や現役の先生たちは、この様な動きにどの様に対応したのだろうか?)
(教師:ゆとり授業は日教組が長い間の闘争の後勝ち取った権利で、忙しい教師が始めてゆとりを持つことが出来たのだ。まして無償で教えるなど、論外だ?) 
(学校:ゆとり教育は学校としては支援するが、学校としては関係ない???)

始めて見ると、驚いた事に、生徒たちは希望者だけくるせいか、皆素直で真面目。宿題などもきちんてしてくる。

(私:これが教育の理想的な環境。何故現役の教師がこのようなチャンスを逃すのか?)

その内の一人の生徒に今学校で何を習っているか尋ねたが判らないと言う。
良く聞くと「いじめ」にあって学校には来ているが教室には出て居ない事が判った。 
つまり、学校ではいじめにあっている生徒を特別の部屋に隔離する。
然しそれだけで別建ての従業をしないとそうだ。

(私:教育の機会均等はどっなっているの?) 
(学校:教室で正規の授業をするだけで手一杯だ?
特定の人に特別の授業をするのはそれこそ教育の機会均等の考えに反する?)

生徒が三年生で高校受験を控えているのでこれではまずいと思い彼を自宅によんで特訓をした。

11月から3月始めまで、土、日、祝日、正月休み全て使って延べ60時間しごいた。生徒は頭が良く砂が水を吸うように良く覚えた。

(私:その生徒は良い先生に巡り逢えて、急に意欲が湧き、いじめにあった生徒達の為の特別の部屋で猛勉強をしたのだろう?)

私は生徒の抜群の学校の出席率(教室には出ないが学校には行く)を武器に学校に掛け合い推薦入試を受けられることになった。

(私:彼は明らかに先生の分を超えている。頼り無い学校も良く決断したものだ。)

師弟懸命の努力の甲斐があって、高校はとても無理だと言われていたのに、その生徒は学校からの推薦者25人の内、合格者5人の中に一発で入った。
まさに親と子、私、一緒になって涙、涙の合格であった。

(私:この事実に対し、学校、現役教師はどう思ったのだろう?) 
(学校、教師:これはあくまでも例外で、この事実が大げさになっては困る?
我々は教室に出ている生徒達の教育で精一杯だ?
個々の生徒にいちいち関わっていたら身体が幾つあっても足りない?)

その生徒からの「高校ではいじめはなく、楽しく通っています。今変身中です。」と言う手紙に、教師冥利とはことことかと胸が熱くなった。

教師冥利など経験のない私にとっては、羨ましいばかりです。

学校の先生達も学校の規則、組合の締めつけや他の先生方への遠慮などいろいろ障害があると思います。

然し、その才能と生徒達と関わりを持てると言う立場を活かして、このような悩みを持った生徒達の救いなっとあげては如何でしょうか。

そして、教師冥利と言う他の職業に携わるものでは得られない、かけがえのないものを享受されては如何でしょうか。

参照: July 11投稿


収入の格差から生まれる、教育に関する格差社会に生成を防ぐために

2006-07-11 13:00:26 | 教育問題

<<ゆとり教育の活用>>

7月4日のNHKの「プライスの謎ー教育投資加熱の舞台裏」の放送で、約350万使って私立高校から東大に役入った学生と、約35万位の費用で公立高校から入った学生の比較が描かれていました。

300万も使わねば、東大に入れぬとすれば、完全な教育に関する格差社会ですが、後の例の学生は、科学教員振興の為の特別処置で、政府から年間5000万円の補助を貰った公立高校を出たそうです。

このことから、優秀な公立の進学高校にに入れれば、そして誰でも頑張れば、東大に行くチャンスがあることが判ります。このことから、意欲のある中学生の家族に余計な金を使わせずに進学高校に入れる方法を考えてみました。

(なお、紙面節約の為に、提案の問題点を括弧内に記しています。)

1.授業で判らぬところがあったら、いつでも質問を受け付ける。

教師:日常業務に忙しくて構っておられない)

2.勉強の方法や勉強に対する心構えを教える。

3.定期的に試験をする。

4.生徒達の学科に対する理解度を調べる。不足の点は後の授業で、補足する。

(常識派:試験は偏差値のいう名の高校受験の選別の為にしか利用されていない?)

5.試験で判明した、授業に就いて行けない生徒の内希望者には補習授業をする。

日教組:時間外の授業は教師の労働強化だ。)

(常識派:教師には夏休み、年末年始、学年終わりの休みなど特別の恩典が与えられている。これには特別の課題が与えられていると言うが、学校の授業に比べれは、遥かに荷重もストレスも軽いので、学校がある間はそれなりのサービスをしても会社員などに比べても損はしないはずだ。)  

補習授業には、ゆとり教育の為に当てられた土曜日もを活用する。

日教組:ゆとり教育は教師にゆとりを持たせるためのシステムで、日教組が文部省との長い戦いで勝ち得た権利だ。土曜日に授業なんて論外だ。)

(常識派:地域の人がボランティアベースで学校教育に不足した部分補足してやっている。前に述べたこと、また生徒に対する教育の責任からもこれくらいのことをやっても当然だ。)  

土曜日の授業に補習授業の必要のない生徒達の希望者には、より高度な問題を出して回答させ指導する。

(日教組:学習機会の均等の精神に反する。)

6.英語、数学等特に計算や回答速度を要求される科目については、必要に応じて、適宜宿題を出す。

(常識派:労働者意識に目覚めた教師が自主的に労働量の増える仕事をするとは思えない。)

7.特に受験科目について、学級としての目標設定(例えば全員85点獲得運動)をして、先生、生徒と力を併せて目標達成のために頑張る。生徒で出来るものは出来ない人の質問に答えるよう勧める。

(常識派:労働者意識に目覚めた教師が自主的に労働量の増える仕事をするとは思えない。)

8.再度試験を行い、4、7を繰り返す。

これを読まれた人の多くはなんだ当たり前の事ではないかと思われるでしょう。

しかし、これがうまく行けば、そして有名私立高校を狙わねば、特に塾に行かずとも、普通程度の生徒は希望すれば、一般の進学校、優秀な生徒は,地もと有数の進学校に行く事が出来ると思います。

進学校に一旦入りさえすれば、中学校とは違って、次の様な勉強への好条件が備わっており、本人の心がけと能力次第で、どのような希望大学に進めると思います。

1.生徒は皆進学への意欲をもっており、中学校より教育環境がはるかに良くなる。

2.本人の心構えが変わる。

3.中学校と違って土曜日の補習授業が定期的に行われている。

括弧の中で記した問題点について、批判する一部の教師や日教組の人々にお願い。貴方たちの最大のお客さんである、生徒の抱える大きな問題を眼を瞑らないで下さい。

私たちは、最初に書いたように、収入に関係なく、生徒たちに教育の機会均等の機会を与えるように考えて下さいと祈る他ないのでしょうか。

毎日曜日と July 13 投稿参照


中東の紛争や戦争から学んだもの(4)[自衛隊派遣論争]

2006-07-04 16:00:20 | 教育問題

自衛隊派遣に対してマスコミの報道やいわゆる識者の発言がありました。

その中の発言や主張の中で首を傾げるものがいくつかありました。

1.憲法に抵触しかねない、自衛隊を派遣するより、民間団体を派遣するべきだ。  

この発言を聞いて、昔、原発建設の是非の議論が盛んだったころ、一部の学者やこれが識者かと思われる人が、原発より、風力や太陽光発電をすべきだと言うのを聞いて、あきれたことを思い出しました。

彼らが、原発と風力等の発電量の差を無視したように、反対者はボランティアベースの協力と、自衛隊による協力のレベルの違いを全く無視しているのです。

それと、政府、与党の人達が一番言いたくて言えなかったのは、6月22日の私の投稿のように、中東の紛争や戦争の際、同胞の救出の要請の際すら、航空会社が拒否した事実から考えて、仮にボランティアに頼るとしても、反応が殆どないだろうと言う予測だったのではないでしょうか。

2.生命の危険を晒してまで、何故自衛隊を出さねばならぬのか。もし派遣した自衛隊に死者が出たら、政府の責任はどうなるのか。

日本は日米同盟のもとで、日本が外国の攻撃に逢った時、米国が助けてくれることになっています。

その時、米国の軍隊は自国の兵士に被害を出来るだけ出さないような作戦を用いるでしょう。

しかしイラクや、アフガニスタンでも見るように、一人も血を流さないで戦争出来る訳はありません。

つまり日本のために米国民が血を流してくれるのです。

自衛隊の派遣はいくらかの危険を伴います。

然し、政府が一次湾岸戦争の際の批判を避けるために、眼に見える形で、米国に協力すると決断した以上、自衛隊員から被害者が出る可能性は、当然考えられことです。

そして、米国民にいざと言う時日本のために血を流して貰う以上、日本もそれだけの覚悟の上の決断だと、誰でも判ることです。

然し、皆知っているように、このような当然の理由を政府、与党とも、公の場では決して言いません。

反対者も当然そのことが判っていても、自説を主張するのに不利な発言はしません。

だからどの場での議論は皆堂々巡りに終わり、結局は小泉さんの決断だけで、決まったようなものです。

勿論、万一派遣した自衛隊から被害者が出ても、他国の政府のように、じっと耐えるしかないし、またそれで内閣が倒れることはなかったでしょう。

<<インターネットの役目>>

上の2つの例で判るように、政府や与党の人達は、いろいろの理由があるのでしょうが、国の行方を左右するような、重要事項のの討議にも、言いたくても言えないことがあり、そして反対の立場の人も知っていて言わないことがあるのも事実です。

そして、マスコミも、何故かこの誰でも判っている理由や事実を報道しません。

これからは、国や、国民にとって、本当の事を知るために、インターネット上のブログや掲示板の必要性がますます増してくるような気がします。

参照 Jnue 22, 27, 29投稿 


元中学校教師への手紙(8)[私が見てきた教育荒廃の歴史]

2006-07-02 18:29:16 | 教育問題

前回はマスコミの教育環境に与える問題について、つい、くどくど書いて申し訳ありませんでした。

何故なら、学校や社会の教育の不備が、自分自身の義務や責任を考えない親を生み、その人達が次第に社会大部分を占めて来ている事。

その人達に、もっと社会に対する義務感や責任感を感じて(教育して)貰うには、マスコミしかないとと思うからです。

それで、くどい様ですが、NHKの放送から小、中学校と若者の問題について考えて見ましたので聞いて下さい。

<<何故学校に行くのか>>

昔、中学校の生徒と先生、生徒と当時の元東大の総長だった文部大臣の対談のプログラムがありました。

その中で、生徒が高校の受験勉強でに苦しめられていることに関連して、生徒が何故学校に行かねばならぬのかと言う質問が出ました。

生徒の意見は、国民が教育を受ける当然の権利だ。

だから、くだらない受験などのために学校に行く権利を放棄しても良いのではないか、と言うのです。

しかしこの意見に対して、先生達からも文部大臣からさえも明確な答えが出ませんでした。

直ぐ考えつく答えは、生徒が学校に行くのは、国民が教育を受ける当然の権利を行使するだけでないこと。

人的資源しかない日本が、弱肉強食の資本主義が主流の世界の中で、他国と同じような生活レベルを保つために、不可欠な人材の育成をするために、生徒たちは将来日本の社会全体のためになるよう勉強しなければならないことは誰も異論のないことではないでしょうか。

こんな判りきった答えが先生方や文部大臣からさえも出なかったのは、当時(今でも?)上から下まで、終戦以来から醸しだされてきた、権利のことは言っても義務や責任のことを言いにくい所謂「空気」にどっぷり漬かり過ぎていたからでしょうか。

<<生徒や若者に言いたい放題言わせる番組>>

同じNHKで生徒や若者に自由に討論させる番組があります。

それこそ生徒や若者達の言いたい放題の放送で、それもそれなりに意味があるのでしょう。

然し、自分の好きな事を遣りがちで、自分の都合のいいことばかり聞く傾向のある生徒達にとっては、このような放送は恰好な言い訳にに使われだけではないでしょうか。

自由な発言といっても、自分たちが何故勉強したり働いたりしなければならないのか。

国が何故学校教育に税金を使っているのか。

それに対して生徒はどうしなければならないのか。

自分たちが働かなくても相当程度の生活が出来るのは親だけでなく税金を収めている国民のお蔭ではないのか。

それに対してどうしなければならないのか。

自分の権利を行使するのに人の迷惑をかけて良いのか等。

出席者自身でまたは同席しているアドバイザーの責任というブレーキをかけた発言でなければ、娯楽番組ならともかく、公共放送としては全くおかしな方向に流れてしまいます。

自分らしく生きるといって勉強も仕事もせずに好きなことをやっている人の発言はカッコ良く聞こえるだけに、特に考えて貰いたいものです。

もう一つの問題は、アドバイザーの形で主に成人のタレントがいますが、若者におもねるような発言ばかりで、ろくなアドバイスがないようです。

唯一の例外?は立川談志さんで、若者との討論は面白かったのですが、今までの番組の傾向からすると、このような人は余り出てこないような気がします。

石原都知事とか評論家などで、自分の意見をはっきり言える人を入れて貰ったらこの番組も随分役立つと思うのですが。  

(May 17と毎週日曜日投稿参照)


元中学校教師への手紙(7)[私が見てきた教育荒廃の歴史]

2006-06-25 10:26:57 | 教育問題

<<マスコミの報道とその社会の教育環境への影響>>

日本の教育問題を考える上で、学校で習うもの以上の膨大の情報量を持つマスコミの生徒たちに対する影響力、また社会の人達に対する影響力は計り知れないものがあります。

そのマスコミには下記のような傾向があり、それが日本にとって良い影響も与えたかも知れませんが、また下記のような悪影響を及ぼしているのも間違いのない事実のような気がします。

<報道の偏りが生んだもの>

(1)物事を真っ直ぐ、かつ公平に見る目を曇らせ、一部の人に責任は全て権力や他の人にあると言うような一方的な考えを定着させ、教育の荒廃や少子化等の基本的な問題点の解決を遅らせた。

(2)日本にもまだまだ良い所が多くあるのに、悪いことばかりの報道で、日本人として、または個人としてのプライドを失わせた。

(3)同じ理由と、一部の進歩的?な人達のルール軽視の発言が日本人の倫理観を失わせた。

(4)バブル、ビッグバン等の無批判の報道で企業の倫理観を失わせた。

具体的には、来週以降の個々の例で申し上げることにします。

<マスコミの傾向>

1.日本のメディアは権力や強者には厳しく、弱いものには同情的で、極端な場合強者は悪、弱者は善と言わんしたばかりの報道をしがちです。

ところが、大きな影響力を持っていた農協や日教組などの一種の権力機構に対して、殆ど報道や批判をされなかったは何故でしょうか。

(1)教育の荒廃の問題例えば、学校の荒廃の問題では、最初は文部省に全責任があるようなこと言い、次は校長や教育委員会、それから先生方、最後には家庭に一番大きな問題があるようだと判り出して、メディアの報道は鎮静化し、既成事実化てしまいました。

教育荒廃の報道が盛んだったころ、学校教育に大きな関係のある日教組の問題に触れられてなかったのは何故でしょう。

(2)農村の経済問題米国から穀類を買うように圧力がかかった時、当時私が取っていた全国紙には、農村が産業界の輸出の犠牲になっていると言う投書があっても、その反論の投書が全くありませんでした。

実際は、産業界の輸出と政府の一種の社会主義的政策が、低い生産性の農村の人達でも、都会の人と余り変わらない生活レベルを可能にしている事実についての投書もその解説もありませんでした。

そして農村の生産性を上げる必要性と、その中心となるべき農協等の農民の大組織の役割と責任について、詳細に述べたマスコミがどれだけあったでしょうか。

(3)農村の花嫁の問題農村の花嫁不足が問題になっていたころ、男性の立場と彼らが農村を維持して行く責任ばかりの報道で、男性と同数を占めている女性の立場や責任の報道が殆どありませんでした。

この問題に対する報道姿勢と、現在、大問題になっている少子化に対する女性の立場、責任に対する姿勢が全く同じような気がします。

2.日本と外国に対する不公平な報道姿勢

南京の大虐殺の報道はしても、(米国の占領が済んだ今でも)米国の原爆の投下が戦争犯罪であると言わない。

韓国併合の問題について解説する時に、植民地時代の背景について触れない。

海外旅行が戦後盛んなったころ、海外から帰った日本人が「やはり日本が一番良い」と言うのを”日本よいとこ症候群”と揶揄したニュース・キャスターの例や、イラク戦争中のどの国に一番期待するかと言うイラク国民へのアンケートで、日本が一番に上げられたことを僅かのNHK、読売ほか僅かの報道機関からしか報道されなかったのは何故でしょうか。

3.社会現象を鵜呑みにする報道   

もう一つの特徴は、ある社会現象が破綻をきたすまでは、それを当然のように鵜呑みにして報道する。

バブルのときにバブル自身に対する批判もないし、ビッグバンと言えばそれを金科玉条にするように、ある事を何の批判もなくそれ基準においてすべてを判断しようとします。

教育にも大きな関係のある少子化の問題のような、もっと基本的な問題について、少子化を当然のこととして、少子化に伴う目先の問題しかいってないようです。

少子化が本当に良いことか、また問題とすればどうすれば良いかと、研究し意見を発表するべきではないでしょうか。

最近のことでは、ホリエモンさん、村上ファンドの全盛時の報道と手のひらを返したような今の取り上げかたとりあげ方を見て下さい。

4.ルールに違反すのを、進歩的?と思っているかのような報道

最近では、あまりないようですが、一昔は例えば、指紋押捺拒否で処罰された人が処罰に反対するのを、無批判に報道するのではなくて、押捺拒否には一理があるが、国家のルールには従うべきだという批評家やマスコミの意見は殆ど報道されませんでした。

学校の問題では、ナイフの所持の問題が法律違反だし、学校内であっても治外法権でなく器物損壊も、他の生徒や先生に対する暴力も、先生に対するとと同じように基本的には法に照らして処罰されるべきだというような、ごく当たり前のことが何故言えないのでしょうか。

当たり前のことを言えば世論をリードすべき批評家やマスコミの沽券にかかわるとでも思っているのでしょうか。

5.ネガティブな面の報道に偏った報道姿勢

ネガティブな面の報道は当然ですが、ポジティブな面や日本人を元気づけるような、「頑張っている人や企業」のレポートや、2月5日付け読売で見た、米国の大学とBBCの世界の人の世論調査で「世界に最も好影響を与えている国は日本」といった報道をもっと多くの報道機関で取り上げて貰えば、日本人のプライドや倫理観を保つ上で役立つと思うのですが。

(May 17と毎週日曜日投稿参照)

 http://blog.goo.ne.jp/mutouha80s/d/20060525 http://blog.goo.ne.jp/mutouha80s/d/20060613


官庁やマンションのエレベーターのメンテナンスについて

2006-06-20 09:35:10 | 教育問題

今回のシンドラー社のエレベーターの事故について、50年にわたり大工場でメンテナンスに関わり、保全体制の弱い開発途上国3ケ国の保全の指導、協力した経験から、官庁、マンションのオーナーや管理組合の関係者に気がついたことを書いてみました。

内容やその目的の細かな説明は、省いておりますが、今回のことに関する報道や、関係先内部の対応を見れば判ると思います。

<<マンションノ入居予定者へ>>

マンションノ入居予定者に是非知っておいて貰いたい事

1.エレベーターのメンテナンスは自動車のように、定期点検は欠かせぬこと。しかも 設備にかかる荷重は自動車より遥かに大きい事。

2.自動車事故は基本的には自己責任による事が多いが、エレベーターだけは利用者ではどうにもならぬことが殆どなこと。

耐震偽装の問題で大変でしょうが、入居検討の際にはマンション付属のエレベーターのメーカーやそのトラブル実績も充分に確かめられることをお勧めします。

<<マンションの所有者へ>>

発注前に充分に検討して置くべきこと

1.メーカーの能力だけでなく、過去のトラブルの実績やサービス体制の実情を調べ置く事。  

特に過去の三菱自動車のように、自己責任を回避するような会社は避けること

2.エレベーターを発注する時は、将来のメンテナンスを考えて発注すること

3.発注仕様書にその条件を明記しておくこと

4.特に、ブラックボックスになりやすい、コンピューターを利用したデバイスの保全をどうするが明確にする。基本的には保全の責任はメーカー側にする

<<発注の条件>>

A.納入後の保全をメーカーに依頼する場合  

工事見積もりとは別に、保全に関する下記のような諸条件、その為の費用の見積もりを別途提出させ、業者決定の資料にする。

B.発注側にエレベーターの保全責任者がいて、発注側で保全実施の全責任をとる場合

1.以下のことを見積もりの条件にいれる。

(1)保全に必要なマニュアル、構造の明細書の提出。

(2)保全に必要な予備部品の適正価格による提供と以後の円滑な供給(3)発注先に要請に応じ、指導員の派遣等の協力の確約

2.保全責任者に建設当初から参画させ、特に上記の件のチェツクや、建設時の立ち会いに当たらせる。

3.もし上記の件で自信がなければA.の選択も考慮する。            

C.発注側にエレベーターの保全責任者がいなくて、納入後の保全をメーカー関係以外の保全業者に丸投げする場合

1.保全を他業者に発注すること、B.1.の条件を入れる。保全業者により、B.1への対応が変わることがないよう確約させる。

2.オーバーホールや重要設備の保全工事に対する監督者をメーカーから派遣して貰う。発注契約書に明記する。

3.保全業者に保全記録のを全て提出して貰い、業者を変えるときに、その伝達を確実にする。

要は、

1.エレベーターの問題は発注時の業者の選定とその発注書類によるその責任の明確化がすべて決まって仕舞う事を忘れてはならいことだと思います。

2.納入後の保全をメーカーまたはその関係会社以外で計画されている時、指導員の派遣は、設備の重要性、ブラックボックスであるコンピューター機能が入っていることと、メーカー責任の明確化から、絶対外せない条件です。

3.特に官庁の方は、競争見積もりがやかましく言われている時で、大変と思いますが、この事は心に止めておかれたほうが良いと思います。


元中学校教師への手紙(6)[私が見てきた教育荒廃の歴史]

2006-06-18 06:53:08 | 教育問題

<戦後の教育に欠けていたもの>

敗戦後、アメリカは憲法から学校教育、社会教育に至るまで、全てのやり方と制度を変えてきました。

神道や武士道などは完全に否定され、民主主義や自由や権利が強調されました。

しかし戦後の教育の基本的について大きな見落とし(一部の人が言う様に、米国が意識的にしたとは思いたくありませんが)がありました。

それはアメリカの教育制度のベースにはイラク戦争の時に有名になった”ネオコン”でも判るように、社会生活から政治まで大きな力を持っているキリスト教があり、建国以来のフロンティア・スピリットやフェアプレイなどの社会を規制している考え方があります。


<仏教の衰退>

然し、日本では、それまで国民の生活のベースとなっていた仏教。そして、神道を否定された中で、戦後の社会の教育環境の整備や、敗戦後の国民の精神の支えになるように一番頑張らなくてはいけなかった仏教も、時代の流れについて行けずに、すっかり衰え観光と葬式仏教となりました。

(唯一の例外があります。オウム真理教です。つまり国民の一部にはこんな怪しげな宗教に頼る程、精神の支えを求めていたのです。)

<自信を無くした家庭>

一方、国民全体も私の小さな例のように、皆自信をなくして、「忠義」の否定とともに、日本古来の親切、思いやり、和の精神、自然や他人に対する感謝の念といった美風さえ、権利、自由の考え方の前にすっかり影が説得力がなくなってしまいました。

<特定思想を持つ先生に純粋培養された生徒>

つまり戦後、日本では一部の家庭を除いては、学校以外に、社会での教育機能がすっかり無くなってしまったのです。

そして肝心の学校では熱心な先生方が中途半端な民主主義を教えており、 なお一層熱心な社会、 共産主義を信奉する日教組の幹部が先生方をリードしていたのです。

多様な価値観を持つ一般社会のブレーキもなく、 当時叫ばれていた教育の独立の名のもとで、 子供達は半ば隔離された状態で一部の人から見ればバランスの取れない教育されてきたのです。

言わば生徒達は閉ざされた空間の中で純粋培養されてきたのです。 (最近になって開かれた学校などと言われていますが。)

<教育改革の遅れ>

従って米国進駐軍が撤退した後の、日本自身が負うべき戦後教育にの責任は、理屈から言えば文部省ですが、その他にも、良く引き合いに出される日教組だけではなく、マスコミ、宗教界、一般国民の全てにあると言うのが公平な見方でしょう。

国鉄改革と言う大仕事をし、与党にも大きな力を持つた中曽根さん始め、多くの人達がレビで教育の荒廃を嘆いているのに、教育基本法の改正がやっと出た、最近まで与党が教育問題に本格的に手を付けられなかったのは何故でしょう。

衰えたとはいえ、まだ学校教育に大きな影響力を持つ、日教組、それを支持する革新を名乗る超保守政党と、それを支持する全国紙を含む一部マスコミ、その報道をうまく利用している一部の国に遠慮していたのでしょうかね。

特に印象的だだったのは、元日本社会党のベテラン議員で、女性の地位向上の運動で有名だった加藤シズエさんでさえ、テレビで教育改革の必要性を説いて居ましたが、彼女は真意は何だったのでしょう。

<教育の荒廃から社会劣化への道>

このように心ある人が嘆いている間、純粋培養された生徒が親になり、子供を生み、その子が成人して、その一部の人が、今、戦前では考えもつかなかった事件を起こしたり、また親になって、子供を生み、そしてその一部の子供たちが、今、学校で問題を起こしているのです。

<<マスコミの社会に及ぼす影響>>

忘れてならぬのは膨大な情報量を持つマスコミの教育や社会に及ぼす影響ですが、紙面の都合で6月25日の報告に譲りたいと思います。

(May 17と毎週日曜日投稿参照)


元中学校教師への手紙(5)[私が見てきた教育荒廃の歴史]            

2006-06-11 11:07:06 | 教育問題

<<落ちこぼれ>>   

同じ頃娘が小学校の先生になり5年生を担当しました。

新米の先生で教え方も拙か ったのでしょうが、生徒の中に学習についていけない人が何人か出たので、校長に補修授業をしたいと申し入れたのですが拒否をされたそうです。娘に聞くと、他の先生の振り合いが(労働負荷の増大の心配?) あるからの言うのです。

彼女は持ち上がりで6年生を担当しましたが、私が 答案の採点の加勢をしているとき、何人かの生徒が全くの不成績なのを知り、その頃 問題になっていた落ちこぼれの実態を目の当たりにしました。   

この責任は贔屓目でなくても、明らかに新米の先生でなくて、当時猛威を振るっていた日教組加盟の労働者意識に目覚めていた先生ばかり見ていて、肝心の生徒の方を見て居なかった校長にあったのではないでしょうか。   

その時思い出したのですが、私の子が小学生のとき、判らないことがあったら、両親によく聞 いてきなさいと言われたと言っていたのに驚いたこともありました。学校は判らない ことを教える所ではないでしょうか。         

<<生徒との触れ合い>>   

娘が生徒とピクニックに行く計画を立てたとき、校長は事故が起こったら困るとまた許可を出さなかったそうです。

その時も校長は何かあればすぐ学校のせいにする父兄や、他の先生方の振り合いのことを気にしての判断だったのでしょう。この校長は他のことで知ったのですが、立派な人格者だっただけになお一層学校の問題点について考えさせられことを覚えています。私の5月28日と6月4日の投稿の、権利ばかりの授業の弊害がもう昭和50年こらから出かけているような気がします。

私が見聞したこのような小さな例から見ても、当時の(ことによると今の?)生徒達の一番の不幸は校長や、先生達の関心が、学校教育の一番のお客さんである生徒でなくて、日教組加盟の先生方、教育委員会、父兄に向けられていたことではないでしょうか。

[落ちこぼれみんな政府の所為にする]

 (May 17と毎週日曜日投稿参照)


元中学校教師への手紙(4)[私が見てきた教育荒廃の歴史]

2006-06-04 18:11:46 | 教育問題
<<権利しか教えない教師用の指導書>>

昭和50年ころでしたか、本屋でたまたま中学の社会の教師用の指導書を見ていると、「憲法には権利の記述はあるが、義務の記述は全くないのである」と書いてありました。

私は驚いて本屋の人には申し訳なかつたのですが、全ページを繰って見ましたが、義務の文字はそのページ以外全く見当たらなかったのです。

私は二度驚きまた心配になって、生徒用の所謂、虎の巻を見て、国民の義務のことも書いてあったので少し安心しました。

そして再度指導書を見て、その巻末にその頃教科書裁判で勇名を馳せた大学教授の推薦の言葉を発見し、なるほどと思いました。

後で憲法の権利と義務の項目を見ましたが、義務の項目には権利の濫用をしないことと、権利を社会のために活用することしか書いなく、義務については権利ほど明確には記されていませんでした。

然し、虎の巻にもあるように他人の権利を侵さないこと、権利に伴う義務や責任など、教育の場で教えるのは当然過ぎると思いますが、学校の先生のなかにはこの様な指導書の考えを鵜呑みにして権利ばかり教えていた人もいたのでしょうか。

そして、そのような先生から権利についてだけけ習って、それ以外にも大切なことがある事を学校からも親からも習わぬまま、大きくなり、結婚して、子供を生み、その自分の子の非行を棚に上げて、学校の責任ばかり問う親になったかも知れません。

そしてその子がまた親になり、子供を生んでいき、次第に社会が劣化して行くのでしょう。 

[権利あり責任ないと言う教師]

Unknown (pokoo-penn) 様、コメント有り難うございました。

(May 17と毎週日曜日投稿参照)

元中学校教師への手紙(3)[私が見てきた教育荒廃の歴史]

2006-05-28 19:40:11 | 教育問題

<<子供の教育に自信をなくした親、権利と思いやり>>

最初に私の小さな経験を聞いて下さい。 息子が学校から持って帰った試験の答案を見ました。

「お母さんからお菓子を二つ貰いました。弟がそれを見て一つ呉れと言いました。貴方はどうしますか」と言った問題でした。

息子の解答は「弟に一つ別けてやると」書いていましたが、[×]がついていました。つまり二つ貰ったのはその子の権利だから、それを主張すべきだと言うのです。

私は驚いて、学校がそう言うのならそう覚えるしか仕方がないが、うちの家だけは権利より兄弟への思いやりの方が大切なので、 息子の書いた通りにしなさいと言いました。

しかし軍国主義の世から民主主義の世への激変に付いていけない私の言葉に力がないのに、我ながら情けない覚えをしたことを今でも覚えています。

しかし、こんな未熟な権利についての教育に、新し好きか、過去の軍国主義教育の反動で、中にはそうだそうだとと思い込んだ親もいたのかも知れません。

現在こんな親に育てられた子供が今は自分の権利ばかり主張する親になり、子供を教える立場になっているのです

[民主主義に腕をこま抜くだけの親]

(May 17と毎週日曜日投稿参照)