常識では考えられない最高裁まで行った認知症の人の轢死事件、大津地裁の素人の裁判官による原子力規制委員会の規制基準批判。裁判員制度を考えた人の目的とする死刑判決の事実上の廃止の失敗。
・認知症の人が列車で轢かれたことで、JR東海からその介護をしていた妻の監督責任放棄だとして賠償を求めていた裁判で、最高裁のそれを却下した判決でどのテレビ良かった良かったとそれに賛成する報道が出ました。会社側も一言の批判も言い訳もなくそれを受けいれたそうです。私の考えでは法的には当然の請求を何故しなかったかと言う一部かも知れない株主の追求に対する言い訳のための訴訟だったような気がします。問題は常識的にはわかりきった事件を何故最高裁まで持ってのかと言うことです。JR側の態度から見れば地方裁判所で敗訴したらそのまま引き下がったかも知れないのに。
・同じように大津地方裁判所の技術ではずぶの素人の裁判官の原子力委員会の規制基準では安全を確保出来るとは思えないなどの判決。それに読売新聞などメディアの状況の間違いだらけ認識、規制基準では日本で考えられる最も厳しい基準などの批判。ネット上は池田信夫さんが大阪の高裁まで関電が頑張れば勝訴疑いなし。関電がその積りなら国に数百億円の賠償の請求も出来ると書いていました。(私は今でも悪者扱いにされてい既存の電力会社が世論の批判を冒してそうするとは思えませんが。)
・古くは諫早湾拓事業としての排水門を開門をしてもしなくても国が国民の税金から制裁金を支払わねばならないと言う常識では考えられない最高裁の首を捻る判決。メディアの解説では同決定は最高裁は自ら司法の限界を示したものだとしていました。
私は2007年の裁判員制度発足の動きの時から書いて来たし、最近の相次ぐ原発訴訟から考えても、国民の常識が求められる民事事件にこそ裁判員制度の適用が必要だと思うのですが。
最初のJR東海の訴訟、大津の原発訴訟で国の厳しい財政事情のなかから、地方裁判所で決まることを多額の国庫負担までして高裁や最高裁まで持ち上げらせ、干拓の開門の有無のどちらでも国が罰金まで払わのばならぬか判りません。
刑事事件それも米国の陪審員制度のよう犯罪性の有無の決定でなく、専門知識を要する量刑の決定を伴う素人の裁判員の参加には初めから問題がありました。法律一辺倒の裁判所の民事事件に世の中の常識に富んだ民間人の裁判員の参加があれば、認知症の人の監督責任問題など彼らだけて常識的な裁決が出たし、原発訴訟のように規制基準の不安があれば、何らかの形で専門家の考えも訊くべきと意見が出たと思うし、干拓開門訴訟のように他の地裁間の判決の食い違いに就いて他の地裁の判決のことも考慮すべきという常識的な判断も出たと思うのですが。
私はいまこそ民事事件に裁判員制度を適用すべきと思うのですが。
なお刑事事件裁判の裁判員制度の成り立ちについては付記をご参照下さい。
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付記:刑事事件裁判の裁判員制度の成り立ち
常識で考えても裁判に同じ裁判員の参加させるのは刑事裁判より民事裁判が良いのは分かりきっているのに、敢えて刑事裁判にそれも量刑までさせることになったのは、死刑制度廃止を強く主張する一部の弁護士グループと公明党の強い後押しがあったと言われていました。特に政権党の自民は政権を維持するため公明党に配慮せざるを得なかったのでしょう。その一番の目的は素人の裁判員が死刑と言う極刑を決めるのに俗な言葉で言えばビビルことを期待したものと思います。そのため米国の陪審員制度のように有罪無罪の判決でなくて専門知識を要する量刑の裁決まで参加させることにしたことです。現実は(本人の人生にも影響がある)裁判員の死刑の裁決がいくつもあり、報道でも約80パーセントの人が死刑制度に賛成。裁判員参加でも死刑判決が減らないのをみれば死刑制度反対の立場から見れば完敗です。私が取り上げた問題で最高裁の言のように政治に責任があるとすれば、そして政府自身も困っているのだから政府の責任で裁判員制度の刑事から民事への適用も考えるべきだと思います。