<続き> 次はライブで好きだった曲。「気になるお前」1974年
(田)「追憶」「危険なふたり」安井かずみさんのタイトルがいいですね。ZUZUがジュリーに歌ってもらいたい曲、ライブの定番曲。ファンも同じ思い、ライブで盛り上がる曲です。「ある青春」のアルバムはロンドンレコーディング。フランスで「愛の逃亡者」を出しましたね。
(大)ジュリーがストーンズが好きだと知っていましたが、カンツオーネやシャンソンを歌っていまして、ヨーロッパ的な歌唱、「ディオ・コメ・ティアーモ」など非常に上手い。渡辺美佐さんがヨーロッパに持って行きたがった。
(田)(ジュリーは)ビジュアルやルックスが彫刻的ですね。
(大)「カサブランカダンディ」1978年 ライブで思い出のある曲。映画を観るような、演劇を3分演じてくれる時代だった。阿久さんの「勝手にしやがれ」「カサブランカダンディ」は沢田だからできる演劇的な二人の曲だった。
(田)70年代に印象的だったのは、裕也さんの浅草のニューイヤーロックフェスに紅白の後に駆けつけていた。彼はTVの寵児であると知りつつ、野音や日比谷、郡山ワンステップフェスにポンと行ってみせる、彼の振幅の広さ、裕也さんへのリスペクトがあると思います。一人でプっと行っちゃうのが彼の魅力。沢田さん本人の中ではロックと歌謡曲はどんなでしょう?
(大)基本はロックだと思うんです。井上バンド、タイガースもそうです。しかし、ジュリーをTVでどう撮るかで進化したTVという番組の寵児である、彼の中では矛盾していなかったと思う。
1980年「TOKIO」
(田)まさにTVの寵児だった頃の1曲。この頃加瀬さんと組んで華麗だったジュリーの分岐点だった頃、パラシュートを見て、ここまでやるか?!彼の変化を皆考えていた。早川さんという素晴らしいスタッフがいた、次はどうするんだ?80年の分岐点という曲です。
1983年「晴れのちブルーボーイ」トンガった1曲。その後、独立の話があり1年休み。新しい体制作りで1年くらいどうするかと話し合いました。 (※半年の休み)
(田)ナベプロから抜けて軋轢があったんじゃないですか?
(大)その後ニューヨークに行っている時に、渡辺晋さんが亡くなり、彼が「ベースマン」という曲を作った。晋さんをジュリーは信頼していたし、普さんは独立に反対していなかったので、モメなかった。
(田)どんなビジョンを持っていましたか?
(大)僕もジュリーも歳をとってきていましたし、彼をもっとヨーロッパ的な大人のシンガー、より大きなステージに立たせたい。スーパー歌舞伎の市川猿之助さんに舞台を作ってもらいたかったが実現せず、蜷川幸雄さんに頼んだ。パンクよりオペラチックにと考えた。蜷川さんとは「追憶」の前に「唐版・滝の白糸」をやった。独立の時に蜷川さんに頼んではどうですかと。
(田)ジュリーが大輪さんに頼んだのは演劇的なものを、ということですか?
(大)ジュリーにはバンド指向があった。石間ヒデキ、チト河内などとスーパーバンドを作ってみよう。
(田)タイガースやPYGの果たせなかった夢があった?
(大)ジュリーと二人で会社名を何にしようか?酒屋でズブロッカを飲みながら。「ズブのロッカー」等、それは商標登録でダメだったが、俺たちはズブのロッカーに戻ろうという、その気持ち。その当時は中井さんもいて、皆で考えて 世界に通じるハートマインドなCO-COLOがいいんじゃないか。
「灰とダイヤモンド」灰は元素記号がCO、炭素と酸素。アンジェイ・ワンダ監督の映画「灰とダイヤモンド」から、1個間違えると俺たちは灰かダイヤモンドである。ジュリーが曲を作った。http://v.youku.com/v_show/id_XMTQ2NDA5OTIw.html?firsttime=21
(田)沢田さんが自分の思っていることをさらけ出した、ブチまけた曲なんでしょうね。ペンネームは李花幻はどういう?
(大)ペンネームはちょっと遊んだ。イイカゲンと読ませる説もある、ちょっと遊びでつけた。
(田)沢田さんにはあまり知られていない面がまだあるんでしょうか?70年代のTVに象徴されるあのイメージ。
(大)誤解される人「虚」ができる。しかし彼は「実」の人ですかが、彼がやると「虚」に見える。まさに風姿花伝の人。能役者的に風のような姿が「花」。「実」なんだけど「虚」が演じているように見える、虚と実がひとつになって もって生まれた人。
「流されて」1987年。日本の美しいメロディーを持ったロック。
(田)今年は45周年(?)ですか、音楽シーンが沢田研二がいたから変わったという意味は?(※デビューから50周年の間違い?)
(大)昔、長谷川一夫以来のスターと評した人がいますが、100年に一度のスーパースターですね。接した僕から見ると「偉大な平凡人」。そして「メインストリートのならず者」だと思う。
(田)そのことをヒントに沢田研二さんを紐解いていただける、タイムカプセルなんで、年号を刻んでください。
(大)僕は1985年、CO-COLOを作った1985年がエポックかなと思う。
(田)ジュリーは最近のライブでは平凡な自分を見せようとしていると思います。
以上ですが、ところどころ大輪さんの勘違いじゃないかな?と思う箇所がありましたが、初めて聴いた裏話など有り、大変貴重なお話でした。
ジュリーの休業(半年)の時には、この私はどうしていたのかな? 色々とジュリー自身の噂があって、マスコミに騒がれて私のテンションも少し落ちていたのは仕方がない。寂しかったわ(T_T) ジュリーの休業中は、ただ寂しく復活の日を待っていたように思います。・・・もはや記憶が曖昧。
「アマポーラ」がシングルになったのは、結構ショックでした。なんでジュリーが、カバー曲なんか・・・ トンガっているジュリーらしくない気がしました。
しかもレコードジャケット写真はジュリーではなくて、映画 (Once Upon a Time in America) の少女のワンシーンを使ったもので、映画の宣伝でジュリーの「アマポーラ」がTVで流れていました。映画の中じゃ流れていないよね? この手の映画(デ・ニーロとか)趣味じゃないんです(ー_ー)
私はこの当時ついにレコードを買わなかった。レコード店のジュリーのコーナーがいつもの目立つ位置から、移動したのもこの辺りか? 後になって買わずに後悔していたら、J友さんが「アマポーラ」をプレゼントしてくださいました☆彡
なんでジュリーが「アマポーラ」のカバーをすることになったのか、それが知りたい。私にはこれは「愛の逃亡者」とか「ヤマトより愛をこめて」のように、王道シングルを出しつつ ついでにこんなもんも出しました。これも売れたらラッキ~!めっけもん、的なもんか?と思っていましたが、そうでもなかったようですね。85年はこれしかシングルは出なかったし、紅白で歌ったんだから。
そうか、CMでタイアップできるから「アマポーラ」か~!!タダで宣伝してもらえるからだ! たった今、勝手に自分でその結論に達しました。
ちなみに、わたくしは紅白の「アマポーラ」には萌えません。好きな方にはごめんなさい。当時も今も あの時のジュリーの立場とか、痛々しさの方に気持ちが先走ってしまうのだよ。
この当時は、レコードがCDになっていった頃でもあり、音楽シーンも変わっていったときだった。確かにジュリーにも、時代の分岐点でもあったと想う。私は、アルバムさえ買えば、シングルは買わなくてもいいと思った。そう考えたのは私だけじゃなかったらしく、別のJ友さんもあの頃は買っていないと言われていました。
いまさら反省・・・